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「幸せに生きることは幸せか」「不幸に生きることは不幸か」?映画『嫌われ松子の一生』(MIYADAI.com)
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投稿者 まさちゃん 日時 2006 年 7 月 07 日 20:24:20: Sn9PPGX/.xYlo
 

「幸せに生きることは幸せか」「不幸に生きることは不幸か」という観照的態度に基づく「シニシズムに免疫化されたコミットメント」の推奨を、映画『嫌われ松子の一生』に見る
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【森の熊さんの謎】
■アメリカ民謡「森の熊さん」の歌詞は謎だと幼少期から思ってきた。私なりの解釈があるせいで、連載でも紹介したトミー・リー・ジョーンズ監督『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』(05)を見た際に、実は奇しくも「森の熊さん」のことを思い出した。
■謎なのは原詞ではなく、「ケメコの歌」で知られる馬場祥弘の訳詞(というか創作詞)。熊さんがお嬢さんにお逃げなさいと諭す。ところが、逃げるお嬢さんの後を熊さんがついて来る。イヤリングの落とし物だという。喜んだお嬢さんは、熊さんに歌を唄ってあげる。
■おかしい。熊の行動もお嬢さんの行動も解離している。自分は「怖い熊」だと言うが、親切を施すのは「怖くない熊」だから。「怖い熊」だと納得して逃げたお嬢さんが、直後に一緒にラララ…と唄うのは「怖くない熊」だと思うから。どうにもつじつまが合わない。
■インターネットで調べると同種の疑問を持つ人々が数人いて、謎を解決するための幾つかの説を提案している。まず鉄砲説。熊は鉄砲が私を狙っているから逃げなさいと言ったのだと。だが、トコトコ移動しても鉄砲は熊を狙ったままだろうから、やや無理な解釈だ。
■次に別人説。森の中で出会った熊と、花咲く道で出会った熊とが、実は別人で、後者の優しい熊が、前者の怖い熊から逃げなさいとアドバイスしたのだとする。もしそうであるなら、二匹目をわざわざ紛らわしい熊にするのでなく、鹿や犬にする筈で、やはり無理だ。
■最後に馬鹿説。熊さんもお嬢さんもイイカゲンで支離滅裂なのだとする説。ネット上では筆先三寸さん(http://www1.odn.ne.jp/mushimaru/index.html)がこの説を挙げた上で否定し、鉄砲説の類似説(熊さんではなく別のものが危険だから逃げなさい)を語る。
■私は昔から馬鹿説──解離説と呼ぶべきか──だと感じる。長じてギリシア神話や記紀神話などを知るにつけて、益々そう思った。古い神話では人も神も行動が支離滅裂(であるが故に神は非超越的)。「〈世界〉は確かにそうなっている」との納得を与えるためだ。
■古代ギリシアはドーリア人侵入後400年の暗黒時代を経て紀元前8世紀のホメロス時代から再文明化する。連載でも述べた通り、ギリシア神話は、暗黒時代の教訓から「人も〈世界〉も結局名指しがたい支離滅裂なものだ」というメッセージを伝えるために考案された。
■「森の熊さん」に私はこうした「神話的な寓話性」(〈世界〉は確かにムチャクチャだ)を感じる。だから『メルキアデス〜』を観て「森の熊さん」を思い出した。この映画では、主人公の牛飼いにしても国境警備隊員にしても悪い奴なのか良い奴なのか分からないのだ。
■彼らはあたかも熊さんの如し。「悪い奴に見えて良い奴」なのでも「良い奴に見えて悪い奴」なのでもない。「悪い奴が悪い奴のまま良い奴」なのであり「良い奴が良い奴のまま悪い奴」なのだ。この解離ぶり──出鱈目さ──こそまさに「熊さんの如し」なのだ。
■因みに「人間万事塞翁が馬」(終ってみないと何が良いのか分からない)という神話的モチーフとも違う。塞翁が馬は「世の摂理は人知を越える」の時間的不可知性だが、「森の熊さん」的出鱈目は〈世界〉をシンボルで名指すことの範疇的不可能性にこそ言及する。
■前々回、ベンヤミンが「事前決定的=規約的」なシンボルが覆い尽くす近代の不自由に負けない作法を「事後決定的=非規約的」なアレゴリーに見出したと述べた。アレゴリーとは「砕け散った瓦礫たち」の中で一瞬星座が浮かび上がる刹那に身を任せる作法だった。
■彼やアドルノを含む批判理論第一世代は、初期ギリシア(プラトン以前のギリシア)を通底する「〈世界〉の未規定性へと開かれた感覚」を、初期ロマン派(シュレーゲルやフィヒテ)を経由しつつ、賞揚する。出鱈目や支離滅裂の擁護は現代哲学にも繋がる伝統だ。

【幸せこそ不幸/不幸こそ幸せ】
■『下妻物語』で名を挙げたCF界出身の中島哲也監督による『嫌われ松子の一生』には、こうした思考との類縁が見られる。自堕落な毎日を送る若者の所に最近殺された叔母松子の遺骨を抱えた父が現れる。松子のぼろアパートで遺品整理をしながら所縁の人々の話を聞くにつれて次第に松子の人生が明らかになる。病弱な妹ばかり構う父親へのトラウマから、人に愛されようとする余り、ダメ男によって奈落の底に落ちていく──。これがCGやアニメを多用した絢爛たるミュージカル仕立のジェットコースター映画に仕上げられた。
■巷では二種類の不適切な批評が出回っている。第一は「暗い話と明るい演出がミスマッチだ」とする。悲惨な運命をギャグ化するのは如何か云々。第二は「個々のエピソードや関係性に浸る暇を与えないこんな作品を映画とは呼べない」とする。共に見当外れである。
■それぞれ密接に結びつくが、まずは個々に反論できる。第一点について。中島監督は「幸せに生きることは幸せか/不幸に生きることは不幸か」という問いを投げている。第二点について。中島監督は「距離化からの距離化」によるコミットメントを推奨している。


■さて噛み砕こう。小さい頃は将来が輝いて見えて、だから〈世界〉が輝いて見える──蝶よ花よのCGがそのことを示す。それとの落差で長じてからの「こんな筈じゃなかった」感が強められる。これを暗く(或いはシニカルに)描くか、それとも笑い飛ばすか、だ。
■『松子〜』は笑い飛ばす。哄笑する。但し悲劇に喜劇を対置するのではない。例えば「悲劇に見えて素晴らしいこともある」と言うのではない。「こんな筈じゃなかった」こと自体が輝きだとする。キングクリムゾン「エピタフ」的に言えば「混乱こそ我が墓碑銘」だ。
■「人間の不完全さにこそ祝福あれ。人生の不幸にこそ祝福あれ。人の望む完全さや幸福の何と浅薄なことよ」ということだ。こうした逆説的な方向づけを可能にしているのが、「ミュージカル仕立」ならびに「ジェットコースター化」という演出パッケージなのだ。
■「ミュージカル仕立」と「ジェットコースター化」は三つのことを可能にする。(1)圧縮表現、(2)距離化、(3)寓話化。三つは関連する。まず、圧縮表現が、設定や関係性への没入を抑止する。次に、没入抑止=距離化が、「よくある話」という入替可能化をもたらす。
■その結果、そこに浮き沈みの激しさが描かれているとしても、個別の「浮き」や「沈み」への集中を解除し、メタ的視座に立たせられる。メタ的視座とは先程述べたアレゴリカルな視座。「人生って、〈世界〉って、そんなもの」と、“一瞬の星座”的な納得へと通じる。
■別言すれば、幸せだったり不幸だったりする人への集中から、そういう人がいがちな〈世界〉への集中へのシフトを可能にする。これは一見シニシズム(冷笑主義)を帰結しそうに見える。だが実際には後述するメカニズムを用いてむしろコミットメントが推奨される。
■それを寺脇研は「人間への信頼」と呼ぶ(朝日新聞2006年6月7日東京版30面)。即ち、不安ベースの実存が拒否され、内発性ベースの実存が推奨される。不信ベースのコミュニケーションが拒否され、信頼ベースのコミュニケーションが推奨される。反シニシズムだ。
■神経質さより、何でもありが良い。排除的であるより、包摂的であるのが良い。未規定性に閉ざされた態度より、未規定性に開かれた態度が良い。理屈に依存するより、問答無用で屹立するのが良い。主知主義的より、主意主義的が良い。総じて、左より、右が良い。
■即ち「それでも日は昇る」「それでも人は生きている」的な開き直りと笑い飛ばし。そう。確かに人生は思い通り行かない。だから苦界や任侠に「身を落とす」。だが「身を落とす」ことそのものに「もののあわれ」がある。だから「浮かぶ瀬」などなくても良い。

【サードオーダーの推奨】
■前述の通り、この態度は初期ギリシア的であり、それ故に初期ロマン派的であり、それ故に批判理論的だ。批判理論第四世代ボルツは、初期ロマン派のアイロニーを踏まえ、アイロニーへのアイロニーを「サードオーダー」と呼んで擁護する(『意味に飢える社会』)
■アイロニーとは全体を部分へと対応づける梯子外しで、距離化に当たる。またシステム理論では観察の観察をセカンドオーダーと呼ぶ。そこでいうファーストとは相対1次。セカンドとは相対2次。セカンドを相対1次とする相対2次があり得るから、無限背進する。
■ボルツのサードオーダーとは、直前の相対2次を相対1次とする相対2次という距離化ではなく、そうした無限背進ゲームそれ自体からの離脱という意味での距離化だ。むろん論理的には離脱できないが、離脱不能性に実存的に巻き込まれる事態から離脱せんとする。
■先に「〈世界〉の未規定性へと開かれた感覚」と述べたが、相対2次を相対1次とする相対2次…という無限背進ゲームから論理的に離脱不能であることが、「〈世界〉の未規定性」だ。更に「未規定性に開かれる」とは、「無限背進に怯える実存」からの解放だ。
■ボルツは問う。批判的コミュニケーションには根拠が必要か。必要ならば無限背進による根拠剥奪に怯える以外ない。だが現実には承認(ホネット)の可能性への信頼(ルーマン)さえあれば前に進めるし、現に進んでいる。根拠もなく人々は承認可能性を信頼する。
■人々は「〈世界〉は確かにそうなっている」と根拠もなく信頼する。しかも「どう」なっているのかをシンボルで名指すのは難しい。ベンヤミンは、過去から現在に渡って散らばる瓦礫たちが、束の間の関係を取り結んで屍体として甦る瞬間に、身を晒せと推奨した。
■そう言われる迄もなく我々は、何の根拠もなくそうした瞬間があり得ることを先取りし、日々前に進む。フレーム問題として知られる通り、事前決定的=規約的に見えるシンボルによる指示でさえ、指示内容の確定は、無限の文脈の参照を要するので実は不可能なのだ。
■その意味で我々のコミュニケーションは、アレゴリーによってその都度の束の間に極く曖昧にしか参照出来ない瓦礫たちの海(全体性)に浮かんで揺れるイカダのようなものだ。人々はなぜか何の根拠もなく、そうした瓦礫たちの海を共有することを信頼してきたのだ。
■かくして不動の土台を求めるある種の神経質さが、自立ならざる依存として批判される。ボルツはこうした批判を「距離化への距離化」によって達成しようとする。但し、個別の距離化に距離化の「屋を重ねる」のでなく、距離化の無限背進的営みの総体から距離化だ。
■アリストテレスはこうしたタイプの距離化を「観照(テオリア)」と呼んだ。「ミュージカル仕立」と「ジェットコースター化」が可能にする「(1)圧縮表現、(2)距離化、(3)寓話化」における距離化メカニズムとは、単なる相対化というより、むしろ観照であるのだ。

【「コレが幸せ」も「幸せは幻」も眉唾】
■中島哲也監督は、距離化からの距離化、即ち個別のシニシズムに対する観照的態度の徹底を通じて、「幸せに生きることは幸せか/不幸に生きることは不幸か」という逆説的な問いを浮上させる。これは昨今の若手監督の手になる日本映画に対する痛烈な批判である。
■批判の意味を理解するべく迂回する。戦後思想の巨匠を三人挙げるなら丸山眞男・吉本隆明・江藤淳だろう。三人のうちで最も不快な読後感を残すのが江藤淳。それは彼が何を論じるにしても明に暗に専ら実存の問題(ぷよぷよとした醜悪なもの)に照準するからだ。
■江藤によれば思想の正しさは問題ではない。一夜明ければ国民が丸ごと皇国史観から民主主義に鞍替えするのだから。民主主義は正しかろう。だが正しい思想を奉じる人の側は正しいか。年長世代の豹変に衝撃を受けた小国民世代(江藤・吉本・石原)的な発想だ。
■批判の字面は日本的共同体主義批判で、戦中世代の丸山と大差ない。だが丸山が真の「正しい観念」を持ち出す(が故に啓蒙主義的な)のに対し、江藤らが「正しい観念」なるものを疑惑する点が違う。故に江藤と吉本は共通して知識人の啓蒙主義を疑惑する方に向う。
■食うために、生きるために、皇国史観だろうが民主主義だろうが何にでも乗るのが大衆だ。これを批判するのは頭でっかちで、この種の頭でっかちの年長世代こそが戦前戦中の日本主義(国粋主義)を吹き上げたのだ、と。吉本はそこから「大衆の原像」の方に向う。
■だが江藤の「大衆批判・批判」は、大衆批判とは戦後没落した名家の跡継ぎたる自意識のなせる業ではないかとの「自意識の疑惑」に由来する点、吉本と違う。同じ疑惑が、大衆に原像を見る視座にも向く。インテリ的罪障感からのロマン主義ではないかというのだ。
■江藤には「大衆から距離をとろう」(丸山)とするのも「大衆に原像を見よう」(吉本)とするのも脆弱な自意識(江藤の言葉では「ぷよぷよした醜悪なもの」)のなせる業と見える。だがこの「自意識のぷよぷよ」が彼自身のルーツ意識をも象るところが捩れている。
■捩れは、一方で「自意識のぷよぷよ」の権化である太宰治に耽溺し、他方で米国流プロテスタンティズムに憧憬する点に、如実だ。プロテスタンティズムの存在は、誰もが自意識の煩悶を抱えることの証で、煩悶の相互承認と煩悶の吸収装置を、同時に与えてくれる。
■宗教的な煩悶吸収装置があればパブリックな政治コミュニケーションに自意識が漏れ出さずに済む。だが日本には装置がない。これが江藤が漱石に仮託して死を憧憬する理由だ。三島的な「散華の思想」ではない。「自意識のぷよぷよ」が自身の核なら死しか道はない。
■江藤の自死がそれを証す。江藤の凄さは自身が徹底してダメであることだ。生活者たる道を絶たれた幽霊でしかないことを自覚するが故に、高邁な普遍思想を語る者のダメさを見通す。ダメ存在から逃れる悪戦苦闘自体が人々をダメ存在に縛り付けることをも見通す。
■それは例えば「生活者たること」と「生活者たらんとすること」の差異への敏感さとして表れる。だから江藤の語りは不快だ。日本の「知識人」を軛するものの本質を穿っている。研鑽によって軛を逃れることはできない。日本という社会空間に由来する軛だからだ。
■宗教的吸収装置を欠いた日本的空間に入り込むと、そうでない筈の者までダメ存在へと頽落する。ところがそうした日本的空間こそが自分の子宮であり母であると自覚する。父親たらんとする江藤の振舞は、そうなれると思ってのことでなく、自覚永続の工夫である。
■かかる日本的空間では「コレが正しい/誤った思想」「コレが幸せな/不幸な生き方」というメッセージを真に受ける訳にいかない。「ソウ言うお前は一体誰だ」という問いから逃れられない。問いは日本的空間では解決がつかない。解決がつけば日本から遠ざかる。
■こうした空間でこそ、根源的な未規定性へと開かれるための、観照的態度が要求される。距離化総体への距離化が──免疫を獲得したコミットメントが──要求される。そこでは、コレこそが幸せだとするベタも、幸せなど幻だとするベタも、双方拒絶されねばならない。
■中島哲也監督『嫌われ松子の一生』はこうした問題意識に応え得る。そのことで、西欧思想の初期ギリシア的伝統にも、日本固有の江藤的問題設定にも、一切の教養を持たない若手映画人による、上述した二つの意味でベタな映画作品群が、何ゆえに低レベルなのか教える。

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