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http://www.bund.org/culture/20070125-2.htm
ありきたりの生活をちょっとだけよくする
科学にすがる現代人がふと思い出すもの
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350年も壊れなかった信玄堤昔の治水技術は優れていた
森澤 清
国土交通省が国の管理する河川の堤防調査を全国的に進めたところ、133河川5922qのうち、117河川2113qで、粗い砂への水の浸透により強度が弱くなって破壊に至る浸透破堤の危険性があるという(読売新聞2006年9月25日)。
現在大きな河川にある堤防は川砂を盛って造られたものが大部分だが、浸透破堤だけでなく、越流破堤(水が堤防を越え、あふれて決壊)や洗掘破堤(強い流れで堤防が削られる)の危険性も大きい。私は地質調査の仕事で、堤防の強度調査をする機会があり、治水技術には関心があったが、現在の土木や治水の技術で大丈夫なのか、常々疑問に思ってきた。その危惧を証明しているような国土交通省の発表だ。
そうしたなかである機会に350年も壊れなかった信玄堤のことを知った。昔の技術の方が優れていたのかと思う。正月休みを利用して信玄堤を見に行ったが、その卓越性に舌をまいた。
自然の力と地形を利用した治水技術
山梨県の甲斐市(旧中巨摩郡竜王町など合併)と南アルプス市(旧中巨摩郡八田村、白根町など合併)、韮崎市の境界付近は、暴れ川の釜無川と御勅使(みだい)川の合流する所で、かつて洪水が多かった。甲府盆地を洪水から守るために、戦国時代に武田信玄の命により作られたのが信玄堤だ。1542(天文11)年から工事が始まり、研究と失敗を繰り返しながら20年かけて完成したといわれる。
信玄堤は現在の河川にあるようなただの堤防ではなく、自然の力と地形を最大限に利用して作られている。特に御勅使川の洪水の流れを、上流から段階を踏んでコントロールしていく所に特色がある。まず御勅使川上流に「石積出し」があり、川岸から川の中に向かって石積みを突き出すことで、流れを川に戻す働きを作り出してる。
次に「将棋頭」と呼ばれる将棋の駒の尖った頭のような形(上空から見て)の石積みで、川の流れを二分する。将棋頭から人工の河道が造られ、その直下流には「堀切」と呼ばれる石積みがあり、釜無川との合流点にある「高岩」へと流れを導いていく。「高岩」は小高い丘が釜無川によって削られた崖だが、御勅使川の流れをぶつけることで、流れの勢いを弱めようとしているのだ。崖が崩れないかと心配になるが、崖の地層は非常に硬い砂岩主体のもので、まず大丈夫だ。
高岩で弱められた川の流れは、その下流にある「霞堤」で受け止められる。「霞堤」は川の流れに対して逆八の字の形で石積み堤防を造り、上下流の石積み間に隙間が開いているのが特色だ。この隙間により、洪水で水があふれても再び川へ戻る働きがある。
これらの施設は、高岩を除いて基本的には石積みが主体だが、石積みは石と石の間に隙間があるため、洪水の流れを吸収する働きがあるのだ。石や土、木を最大限に利用して造られている堤は、これで350年間も持ちこたえてきたのである。
現在の技術と比較して
信玄堤は、それぞれの場所に応じて自然の力を活用し、それらを組み合わせて総合的な治水事業としているのである。見学してそれがとても面白かった。
現在のように丈夫で連続した堤防を造る知恵や技術のなかった当時の技術は、流れを柔らかく受け止めるものであった。これが洪水から村落を守り、1893(明治26)年に堤防決壊するまで350年も壊れなかったのだ。非常に優れた治水技術だったのである。
現在では、多摩川や利根川などの大規模河川で、スーパー堤防が部分的に整備されている。スーパー堤防は現在の堤防背後の陸側(堤内地)に盛土して造られる。盛土の重みで堤防を支えることにより堤防の決壊を防ぐ技術だ。しかしいくら陸側から盛土で支えても、現行の堤防がそのまま利用される状態では、各種の破堤は解決出来ないと思う。特に洗掘破堤が起これば、陸側の盛土も崩れかねないのだ。まだ信玄堤にはかなわない感じだ。
現在信玄堤は一部が残って展示物化しているだけだが、それと案内看板を頼りにして、当時どうやって洪水を防いだのかを想像すると、文明の進歩とは何かなどと感じてしまう。現代では高度な技術で治水が行われているから、大規模河川に信玄堤を築く訳にはいかないとまず考える。しかし技術で自然を制するよりも、自然の力を受け流す日本古来の方法こそ正しい解決策の一つなのではないか。
(地質調査会社勤務)
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実家で年越しにブリを食べたサケの家もある?
白川美子
昨年12月、職場で新巻き鮭をお裾分けしてもらった。新巻き鮭といえば、誰もが知るお歳暮の代表格。年越しには欠かせない縁起ものだ。
それならばと、珍しく実家の母に「お歳暮で家に鮭を送ろうと思うんだけど……」と電話した。いわく「年越しに食べる魚はブリでなきゃダメ」。「ブリ?」。うっかりしていた。私の育った家では、ブリは年越しそば以上に、大晦日にはなくてはならない年越しの縁起ものなのだ。
職場の人に聞いてみたところ、ここ関東ではブリを年始年末に食べる習慣はないとのこと。基本的にブリを食べるのは西日本の習慣らしい。なるほど、寒流系のサケが東日本に、暖流系のブリが西日本に定着するのはもっともだ。フクラギ→ヤズ→ハマチ→メジロ→ブリと、成長に応じて名前が変わる出世魚・ブリ。「縁起もの」として担がれるのも納得がいく。
ちなみに母の生まれは南信濃・飯田市だ。今は亡き、歴史学者・網野善彦は、糸魚川から静岡に走る大地溝帯(フォッサマグナ)を境に、東と西とでは歴史的に文化や社会組織に大きな違いがあることを指摘した(『東と西の語る 日本の歴史』)。フォッサマグナの西端に位置する飯田市は「西日本文化」のまさに行き着いたところなのだろう。それで「ブリ」というわけか。
かつて信州は、千曲川を遡った南佐久群北相木村の遺跡からサケの骨がでるほど、サケの水揚げが豊富な地域だった(1930年代以降、ダム建設による影響でサケの水揚げはゼロになった)。そのためか、北信・東信では今でも大晦日はサケと決まっているらしい。それなのに、南信では江戸時代からブリを食していたというから驚きだ。
その昔、富山湾で水揚げされたブリは塩づけされて飛騨高山へ、高山からは野麦峠を超えて松本へ、さらに松本を越えて伊那へ、諏訪、木曽谷へと運ばれたという。これらのルートは「ブリ街道」と呼ばれた。
女工哀史で有名な野麦峠は女工ばかりでなく、ブリも運んだのだ。飛騨高山から野麦峠を越える道は雪が深いことで有名だ。冬の野麦峠を人が何十キロものブリをかついでわたったとは――。
年末帰省したとき、弟の話から、実家で大晦日の食卓にブリが並ぶナゾが解けると、目の前のブリが急に輝いて見えた。 面白いのは、富山では「寒ブリ」、越中街道を経て高山では「越中ブリ」、野麦峠を越えると「飛騨ブリ」、松本から他にわたると「松本ブリ」と、ブリが山を越え、谷を越えるたびに呼び名を変えていくことだ。ブリは、「出世魚」のみならず「地名魚」でもあった。いくつもの称号を与えられた名誉?な魚だとわかると、先のブリがよけいに輝いて見えた。
大晦日にまつわるちょっとしたエピソードを知って、なんだかんだといっても、日本には「古き習慣」が様々なところに残されているのを感じた。それがもっとも顕著に表れるのが年始年末だろう。
コマをまわし、凧あげをする子ども達はいなくなっても、どこの家庭でも「おせち料理」だけは綿々と受け継がれている。「年取り魚」「年越しそば」を食べるのもそうだ。それだけ日本人は、縁起をかつぐ人種だということなのか。
「急激な変革への懐疑、合理的で理性的なものよりも非合理的で伝統的なものへの愛好」。京都大学教授・佐伯啓思は、「保守思想」のエッセンスをこう語っている(詳しくは実践社刊『理戦』86号参照)。年末にサケやブリやソバを、年始にはおせち料理を食べて神社にお参りにいく。神社では、その辺のガラス玉が「婦人病のお守り」に変身して高値で売られる。
しかし、なぜか多くの人はそれを「アホらしい」とは言わない。「アホらしい」と言いつつも、母から「婦人病のお守り」と渡されると、ちゃっかりカバンにつけている私こそ、保守的な存在なのかもしれない。実際の生活習慣から考えると、「保守思想」と言われていることを私達は実行しているんだと、思わざるをえなかった正月だ。
(出版社勤務)
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丹沢でみた獅子座流星群何かを忘れてきた現代人
青島海児
去年の11月、私たち4人は、夜の12時から丹沢の塔の岳に登り始めた。星を見るためだ。
知ってのとおり毎年11月の16〜18日ころ、しし座流星群が現れる。特別に多い年ではなかったが、06年は運がよければ1時間に60個くらいは見える筈だった。
私たちは期待をふくらませ、暗闇の樹林帯に入っていった。ヘッドランプをつけてもよく見えず、苦労しながらルートを探った。かれこれ1時間ほどで稜線に出た。眼下の夜景がきれいだ。もう夜の1時をまわっているというのに、秦野の街の明かりがこれほどついているなんて。しばし、その美しさに見とれた。「大都会で見るイルミネーションよりも、クリスマスツリーのライトアップよりも断然きれいだな」と話になった。
樹林帯を抜けると空がぐっと広がり星が見えてきた。だがまだ街も近く、雲もあるので、そんなには見えない。次のピークまで行くことにした。
途中、闇のなかに光るものが動いているのを発見。鹿だった。ライトで照らすと、群れをなしていてこちらの様子をうかがっている。
丹沢では、鹿の食害が問題になっているが、本来低地の動物なのに開発のため山に追いやられてしまったのだ。しかも温暖化の影響で淘汰されなくなっているという。
晴れてくれ! 5人の願いが届いたのか、やがて風が雲を流してくれた。避難小屋のある三ノ塔でついに満天の星空に迎えられた。
肉眼で天の川が見える。皆はしゃいで大喜びした。しかし避難小屋を覗くと人が寝ている。移動する。
烏尾山まで行くとさすがに冷えてきたので、キムチ鍋をしながら星を眺めた。静寂の山にストーブの炎がゴォーゴォーと鳴り響いた。
温まったところで、それぞれヤマをはって、空を食い入るように見つめる。「見えた!」の声が上がる。どんな流れ星だったか説明する者、悔しがる者。どこから現れるかわからない流れ星に、みな我こそはと競って、真剣に空を見つめつづけた。
1時間でそれぞれ5〜6個から、7〜8個は見ただろうか。私は数はすくなかったが、これまで見たこともない大きな流星を見ることができた。
そのあと塔の岳の頂上でご来光を眺めようと夜の山をまた歩いた。いくつかの小ピークや鎖場を越え、目指す山頂が近づいてきたとき辺りが少しずつ明るくなってきた。星が見えなくなっていく。
大山の山すそから太陽が登りはじめた。レスキューシートに包まりながら太陽の光の暖かさを全身に感じる。日が昇ると目の前に雪化粧した雄大な富士山が現れた。
とても贅沢な時間を過ごした。いろんなことが見えてきた気がする。私たち現代人は便利さと引き換えに、美しい星空とともに多くのものを失ってしまったのではないかと感じる。
100万人のキャンドルナイトの提唱者・辻信一さんは、その著書『「ゆっくり」でいいんだよ』(ちくまプリマー新書)のなかで、「便利の裏側にはいつもいろんな不便がくっついてくる」と訴えている。日本には「4万店をこえるコンビニ」と「555万台の自販機」が夜を明るくしている。「ぼくたち人間は便利を手に入れるために、他人に迷惑をかけるばかりか、自分自身が生きていくための土台さえ平気で掘りくずしてきたのだ」「便利で楽なことが、かえってぼくたちの楽しさをうばってしまうこともある」
それが実感できた夜の丹沢だった。現代人は何か大切なものを歴史の中に忘れてきたのだ。
(倉庫会社勤務)
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(2007年1月25日発行 『SENKI』 1235号6面から)
http://www.bund.org/culture/20070125-2.htm
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