★阿修羅♪ > 不安と不健康12 > 380.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu133.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
--------------------------------------------------------------------------------
「Dr.コトー診療所」は地域住民の期待に応えている。残念ながら
現代の医療は「Dr.コトー診療所」とは正反対の方向へ進んでいる
2006年12月2日 土曜日
テレビドラマはやはりハイビジョンで見ると映像だけでも美しい
◆Dr.コトー診療所へのコメント 地域医療のページ
http://www7.plala.or.jp/machikun/kotoh12.htm
昌代は麻痺が残った。
右片麻痺+右顔面神経麻痺+運動性失語(相手の言うことは理解できるが言葉が発せられない状態)である。前編の項でも書いたけれども、あのような手術を要する脳内出血で麻痺が残らないことはあり得ない。昌代が完全に治癒すればブラックジャックとなってしまうところであったが、さすがにテレビで放映されるだけあって、かなり医学的には正確な(すなわち等身大に近い)ドラマ展開となった。(ただ昌代の病名「重症被殻出血」であそこまで回復することは非常にまれだと思う。たいていは大脳の高次機能の障害が残るのが普通であり、救命はできてもほとんど寝たきり状態で、むろん意思の疎通などできない)
そして後編の物語はこの昌代の介護と原剛洋の進学問題(+ひなとのプラトニックラブ)という二つのテーマを軸に進み、最後に両テーマが合体するという成り行きとなる。これまではどちらかというと脇役ではあった二人がドラマ後編の中心になり、コトーはむしろ脇役的に島の人たちを見守る、というドラマ進行である。筆者の予想はまったくはずれてしまった。
それにしても昌代役の朝加真由美の演技は迫真的だった。あれは多分医師の指導をちゃんと受けたんだろうね。顔面神経麻痺の患者さん特有の表情がよく出ていた。右目が少し半開きなところや(まばたきが正常だったのが気になったけど、まあそれはしょうがない)口の開け具合、食べ物のこぼし具合など本当の患者さんか?と見まがうほどの演技で、あれならば医療関係者が見ても満足するできばえであったろう。
前半のみどころの一つはやはり昌代の夫正一の献身的な介護であろう。昌代が倒れた時に酔いつぶれてしまって何もすることができなかった正一は後悔にさいなまれ、安定期に入った昌代を退院させて家で介護をすると言い出す。そしてそれまではおそらくまったくやったことがなかったであろう炊事洗濯や掃除から昌代と一緒に書き取りの練習までおこない、ほのぼのとした夫婦の愛情がよく描かれていた。
思うにこのような状況に置かれて初めて夫婦の愛情というものが試されるのだろう。何十年も連れ添った夫婦の本当の愛情というのを垣間見た気がした。(私も訪問診療などで脳卒中後で麻痺が残った奥さんの世話をかいがいしくやっているご主人というのを何人も見たが、本当にあんな感じである)
ところが正一は昌代が書いた「死にたい」の一言を見て呆然となる。いったい自分のやっていることはなんだったのか、途方にくれてしまう。そしてそこへコトーがやってきて、コトーもまたその書き付けを見てしまう・・・。
正一はこれまで家で何もしなかったことを取り戻さんばかりに役所も休職して賢明な介護にあけくれた、コトーはとにかく医学的にできるだけのことをして昌代を救命した、しかしその結果が・・・・「死にたい」・・・・
二人が愕然となるのももっともである。しかし考えてみればしゃべることもできず、麻痺が残ったまま生きていかねばならない昌代はもっとつらいはずだ。ドラマでは昌代の高次機能はほとんど失われずに残っていることになっているのでこれはつらかろう。食事もシモの世話も受けなければ生きていけないのだ。
落ち込んでいる正一に重さんがやってくる。正一は重さんに昌代のこの言葉の書きつけを見せた。しかし重さんはこれを破り捨てて言った。「オレの女房は介護をする間もなく逝っちまった。お前の女房は生きているじゃねえか」この一言で正一はわれに返ったのである。
とにかく昌代の病気により、星野家は一変してしまい、彩佳は昌代を内地のリハビリ施設に入れたいと言い出し、休暇を取って施設さがしに島を出てしまった。あとから彩佳が告白したようにそれはしかし彼女の現実からの逃避に他ならなかったのだ。彼女もまた昌代が倒れた日にその訴えをよく聞いてあげなかったことを後悔していたのである。
後半はかなり凄惨だった前半終わりから一転して剛洋とひなのデートの場面から始まる。しかし嵐がやってきて二人ともずぶぬれになり、ひなは島に来てからはなかった喘息発作が起こってしまう。頼みの綱はメプチン吸入器。しかし剛洋はひなのそれを岩場で落としてしまう。(余談だが、ひなの口唇チアノーゼのメイクやひなの喘息発作の演技もなかなかホンモノっぽくってよかった) 怪我をしながらも必死になってメプチンを取り上げた剛洋。そしてそれをひったくるように奪い、必死になって吸入するひな。この場面はドラマ全体の進行からはあまり重要ではないのだが、私はとっても感激した。(やっぱり私も医者のはしくれなんでこういった場面は好きなんです)
その後剛洋は将来医学部に行くために本土の学校へ転向することを決意し、お別れ会が開かれた。子ども達が「Believe」という歌を熱唱、それを正一が昌代を連れて見に来る。ここでこれまで一時間にわたって平行していた剛洋関連の話と昌代関連の話がアウフヘーベンされるのである。この歌の場面こそがこのドラマのまさに頂点といってよいのではなかろうか。
昌代の本土行きは結局中止となった。それは昌代自身の強い意志であったし、誰がみても彼女は島にいて島のみんなと一緒に過ごす方がよかったからである。一時は役所をやめて昌代とともに本土で過ごすことを決意した正一に、役所の仲間は「自分達も昌代さんの介護を手伝うからどうか昌代さんを本土に行かせないでくれ、お前も役所をやめるな」と大合唱する。コトーが意に添わぬままに書いた紹介状は幸い無駄になった。
最後、剛洋がいよいよ島から出て行くときにコトーは剛洋と約束をした。「待っているよ」と。コトーはあらためて島で骨を埋める決心をしたのである・・・。
後編もまたさまざまなテーマが入り組んではいたが、それぞれのテーマは有機的につながり、よく消化されていた。あらためてとてもよいドラマだなあ、と思った次第である。さすがに2時間半もあるとこうしたドラマ展開が可能なんですな。一時間物だと続きものであっても一つのテーマだけで終わっちゃうのが普通だもんね。
私はこのドラマを見てあらためて島の人はやはり本心では島での医療を望んでいるのではないか、と思った。現代の離島医療は自治医大方式(私の勝手な仮称)が主流であり、島ではあまり深い医療は行わず、基本的には少しでも重症な患者は中核病院に搬送する、というのが時代の流れである。たとえば昌代のようなケースでは島外に緊急搬送され、そこで手術を受け、運良く一命を取り留めたらその後の長いリハビリも内地でおこなうというのが普通だろう。
だから昌代のようなケースでは彼女は島での生活はできない。当然家族もまた島外へ移住せざるを得ない。(星野課長が一度は決心したように) また移住とまでいかなくとも、家族が病気になって島外の病院に搬送されてしまったためにその付き添いでずっと家族が島を離れざるを得ないというケースは多いものだ。島の人たちはこうした現代の離島医療のあり方をどう思っているのだろうか、と私は常々疑問に思ってきたのである。
自治医大方式はDr.コトーのようなスーパーマンでなくても、卒後3〜4年目の医者でも離島医療が行えるという点では確かによい。しかし、彼らは私から見れば「え?なんでこんな患者さん搬送すんの?」と思うような患者までどんどん搬送してしまうから、利便性という点ではおおいに問題がある。つまり自治医大方式は合理的ではあるが島の住民にとっての利便性がない。(この点に関しては離島医療におけるオープンシステムとクローズドシステムのページ参照のこと)
コトーはリハビリの専門家ではない。しかし昌代は内地での専門スタッフによる合理的なリハビリよりはコトーを始めとした、島の人たちに囲まれながらの不完全ながらも楽しいリハビリを望んだのである。だからコトーが正直に「自分はこれまでリハビリをしたことはない、昌代さんのために勉強中なのです、一緒にやっていきましょう」と言った時、素直にうなずいたのだ。
離島に限らず、医療の原点はまさにこれなのではないか。臓器別の専門家ではなくても、気心のしれた信頼のおける”かかりつけ医”に自分の身体全部を死ぬまで診て貰いたい、国民は医療にそうしたことを本当は期待しているのではないか。
「Dr.コトー診療所」の主人公Dr.コトーはまさにそうした地域住民の期待に応えている。この番組の人気の秘密の根源はそんなところにあるような気がする。
残念ながら現代の医療は「Dr.コトー診療所」とは正反対の方向へ進んでいる。
Dr.コト−は心臓外科から脳外科までこなすスーパードクター
(私のコメント)
最近では大画面液晶テレビでハイビジョンや地上デジタル放送を見ているのですが、テレビドラマや音楽番組などは映像の美しさが引き立って、HDDに録画して楽しんでいます。ブルーレイやHDディスクレコーダーも出回り始めていますが、二十万円以上もするので今は手が出ない。テレビ画面をキャプチャーしても画面の美しさが従来のアナログ放送よりも違います。
レンタルビデオ屋でもブルーレイやHDディスクのDVDが出回るでしょうが、来年あたりはプレーヤーも安くなって楽しめるようになるでしょう。特にアダルトものは特に楽しみだ。「Dr.コトー診療所」もハイビジョンで放送されていたので見たのですが、南海の志木那島の風景が環境ビデオを見ているようで美しい。
私はテレビドラマはほとんど見ないのですが、ネットなどで評判になっているテレビドラマはレンタルビデオ屋で借りてみている。「Dr.コトー診療所」は現在もフジテレビで放送されていますが、視聴率も高いらしい。ハイビジョンで放送されたのは2004年のものですが、漫画が原作になっている。
このテレビドラマは離島で働くお医者さんのドラマですが、脳外科手術から心臓外科の手術までこなしてしまうスーパードクターが主役になっている。このドラマは役者さんもそろっていてドラマの作りもしっかりしている。医学的な検証もしっかり行なわれているようで、病気の症状なども役者さんの演技ですが本物に近いらしい。
このドラマの主題は僻地医療の問題を取り扱っているのですが、難病治療は都会の大病院で治せばいいといった安易な風潮に警鐘を鳴らしている。都会の大病院にしても医者の分業化が進んでいて、自分の専門外の医療がおろそかになり、医療の縦割り組織の弊害が現れている。
アメリカなどの医療はもっと分業化が進んでいて徹底している。金のある患者は最高度の医療が受けられますが、下手に治療を受けると数百万円もかかることがある。日本では健康保険制度が発達しているから手術を受けても数十万円で済む。市場原理主義のアメリカでは人の命も金次第なのですが、日本では地方の医師不足が問題になっている。
地方や特に離島などでの医師の不在は命にかかわる問題であり、地方自治体では医師の確保に苦労している。「Dr・コトー診療所」も離島で医師の確保に苦労していた。それでやっと来てもらった医者に居てもらおうと、柴咲コウ演ずる彩佳をひっつけようと島民達は話し合う。
日本の医師不足や医師の偏在は健康保険制度だけではカバーしきれない問題であり、医師の養成には金がかかり時間もかかる。医療のレベルアップのためには受ける側も医療への負担も増やす必要がありますが、医療費に金がかかりすぎると治療を受けたくとも受けられない人が出てくる。
日本の人口の高齢化は必然的に医療にかかる負担が増える事になりますが、高齢になるとどうしても医者がよいが日課のような人が多くなる。私なども毎年50万円以上もの健康保険料を払っているが、最近は風邪一つ引かずに医者にかかったことがない。それでも保険制度はパンク寸前なのですが、対策としては高額所得者の保険負担を増やすようにしたらどうかと思う。
何億もの所得のある人でも保険負担の最高レベルは50万円程度でカットされていますが、高額所得者に負担してもらうしかないだろう。ところが小泉構造改革は高額所得者にやさしい改革だった。そして消費税率を上げて低所得者の負担割合を増やそうとしている。日本をアメリカ並みの市場原理主義にしようと言うのだろう。
保険制度が充実すれば地方の医療過疎の問題や医師の養成も解決するはずだ。少子高齢化すればどっちみち医療に金がかかるようになるのだから、保険料の値上げと診療の自己負担割合は増えざるを得ない。日本の病院の医療設備も充実させなければならないし、誰かがその費用を負担する必要がある。
日本は社会主義国家なのだから企業や高額所得者の税金や保険料の負担を増やすべきだ。それがいやならアメリカやタックスヘイブンなどにに移住すればいい。どっちみち大企業や高額所得者は税金逃れをして資産を海外へ移転させている。プロ野球選手ですらアメリカの大リーグへ移籍しているくらいだから、それを引き止める必要はない。大企業の減税や高額所得者の減税はもともと引き止める手段にならない。
「Dr・コトー診療所」では優秀な医師さえ確保できれば、さほどりっぱな設備の病院でなくとも治療が出来ることを訴えているようですが、素人考え的には最新設備の整った大病院の方が病気が治せるように思いがちですが、的確な治療技能を持った医師の方が病気は治せると思う。最近では大病院での医療ミスが頻発していますが、医師や看護師のレベルの低下のほうが問題なのかもしれない。
島の住民達は彩佳をDr・コトーにひっつけようと企む
▲このページのTOPへ HOME > 不安と不健康12掲示板