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なぜ医師不足が生じたのか ? ―― 不確実性への無理解が生む社会保障論の混乱 ―― 慶應義塾大学教授 権丈善一
http://www.asyura2.com/0601/health12/msg/332.html
投稿者 どっちだ 日時 2006 年 11 月 14 日 21:14:11: Neh0eMBXBwlZk
 

http://www.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/seminar/
権丈のホームページ

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/main.htm
仕事のページ

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare48.pdf
2006年9月25日 勿凝学問48

なぜ医師不足が生じたのか ? ―― 不確実性への無理解が生む社会保障論の混乱 ――

2006 年9 月12 日 慶應義塾大学 商学部 教授 権丈善一

不確実性への無理解が生む社会保障論の混乱..............................1

今日的「医師不足」の概観..............................................4

池上直己氏の医療経済学者批判と小松秀樹氏のメディア批判との類似性.... 11

参考文献.............................................................15

今日的「医師不足」の概念図...........................................17

不確実性への無理解が生む社会保障論の混乱

医師不足が言われている。その原因についていろいろと考えてみると、「不確実性」に直面する際のこの国の人びとの対応の仕方に、深い原因があるのではなかろうかというところに行き着く気

がする。

医師不足が起こった原因のひとつに、2000 年頃からの医療事故に対する報道のあり方に問題があったのではないかと、小松秀樹氏は『医療崩壊』のなかで指摘しているように思える。この本で

は、メディアが医療には「不確実性」があることを理解しないままに「医療事故」を報道した姿勢が指摘されているのであるが、実は、このメディアの「不確実性」に対する姿勢は、今日、社会

保障論に混乱をもたらしている人たちの「不確実性」に対する姿勢と共通する特徴をもっている。たとえば、医療経済学のなかでも混合診療全面解禁を主張する新古典派医療経済学的な考え方1

をする人たちの姿勢、さらには年金論議における人口推計や経済予測・医療論議における医療費予測が外れたときに激しく予測者たちを非難するメディア・研究者たちの姿勢は、医療行為には「

不確実性」が伴うことを理解しないままに「医療事故」を報道し今日の「医療崩壊」を引き起こす原因を作ったメディアの姿勢と同じなのである。彼らは、本質的に「不確実」であり「リスク」

のともなう出来事に対して、不思議と、あたかもそこには「不確実」や「リスク」など存在しないかのような論を展開する傾向がある。そして芳しくない結果が生じた場合には、医師、病院や厚

労省年金局、厚労省保険局の無能や無責任ゆえにそうした結果が生じたと決め込み、彼らを一方的に責め立てる。


今日の大きく混乱している社会保障論の世界をながめながら、いったいなにをどのように説けば、社会保障論議に落ち着きを取り戻すことができるのかなどを、暇つぶしに考えたりするのがわた

くしの趣味のひとつでもある――そして、どうも根っこは、「不確実なものを不確実なものとして受け入れない人びとの思考方法」あたりにあるように思える今日この頃である。人様の思考方法

を変えるとなると、その途は遠く険しそうでもある。しかしながら、ちょうど今「医療崩壊」問題がわれわれの目の前に現れてきていることを好機に、この問題を多くの人に深く考えてもらうこ

とによって、「不確実なものを不確実なものとして受けとめないでいると、いったいどのような事が起こるのか」を少しでも分かってもらえれば、ひょっとすると社会保障論議の全般に大きな前

進をもたらしてくれるのではないかなどと思えなくもない。そこで、今日もひとつの雑文をまとめることにした――といっても、この雑文、相も変わらず第1 の読者として想定しているのは、大

学講義の履修者ではある。君たちは、参考文献も含めてしっかりと心して読むように。


さて、いきなりで申し訳ないが、わたくしの年金論の一部を引用させてもらう。この雑文を読み終える頃には、一見、今日の「医師不足問題」となんの関係もないようにみえる次のわたくしの年

金論が、実は今日の「医師不足問題」と大きくかかわっていることを理解してもらえるかもしれない。そうなれば、医療問題、年金問題、双方の問題の根は、実は同根であることも分かってもら

えるはずである。

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権丈(2004)『再分配政策の政治経済学U』p.18.

公的年金を論じるという行為には自己矛盾がある、とわたくしは常々考えてき
た。なぜか? 公的年金は、将来予測に対して<人知の限界>があるゆえに存在
する制度であると考えられるのに、公的年金を議論するためには、将来の話をし
なければならないからである。これを<公的年金のパラドックス>と呼ぶことに
しよう。金利、株価や為替、それに生産性の推移やライフ・スタイルの変化をは
じめとする経済社会の状況に対して、人間が的確な予測力をもつのであれば、勤
労世代から退職世代に所得を再分配する現在のような賦課方式の公的年金など
必要ないであろう。しかしながら、何十年も先の経済社会状況を予測することは、
どんな方法をとってもいかに費用をかけても、実のところ不可能なのである。

権丈(2004)『再分配政策の政治経済学U』pp.22-3.3

たとえば、わたくしが講義のなかで、公的年金の役割と財政再計算の存在意義
を説明するためには、まず、学生たちの予測可能性信仰を壊す作業からはじめな
ければならない。そして人間という生き物は繰り返しバブルを引き起こしては痛
い目に遭う愚かな生き物であること、経済学者や人口学者が将来予測をやってい
ることから彼らが将来予測をできると勘違いしてはならないこと、将来予測に経
済学者や人口学者が失敗しつづけてきたのは、彼らのモデルにおける方程式の数
やコンピュータの計算能力が不足していたからではなく、社会科学上の予測は自
然科学上の予測とは本質的に異なり決してうまくいかないこと、年金経済学者は
不幸なことに将来について議論をせざるを得ないのであるが、多くの年金経済学
者は自分が生きている間に自分の予測した未来とは異なった場面に直面し、前言
を翻したり自らの研究者としての信頼を失ってしまったりしていることを教え
なければならない。

ドラッカーは、「未来は予測不可能である。未来を予測しようとすれば、現在
の自分の信用を落とすだけだ」という言葉を残している。まったくその通りであ
る。しかしながら、講義のなかで未来は予測不可能であることを学生に納得させ
るには、相当に時間がかかる――時間をかけても、最終的には成功していないか
もしれない。このように時間をかけた後に、財政再計算という仕組みとセットに
なった公的年金制度が、理にかなった側面をもつことを説明するという手順を踏
む。けれども、講義に出席している学生を説得するのに相当に時間がかかるよう
な話しは、それがいかに正しい話しであっても世の中に流布するのは難しい。

権丈(2004)『再分配政策の政治経済学U』pp.99-101.

本章では、<予測に対する人知の限界>を前提にして、年金論を展開してきた。
こうした視点から年金論を展開する研究はこれまであまりなかったように思え
るし、この視点から賦課方式の年金を支持する論法もわたくしは知らない。それ
に歴史的には、公的年金は、積立方式が想定されて発足し、しだいに賦課方式へ
と移っていったのであるが、その過程で、予測に対する人知の限界と賦課方式と
の密接なつながりが、積極的に意識されていたわけではない。しかしながら、よ
くよく考えてみると、公的年金について、意見が割れる分岐点は、その研究者が
人間のもつ予測能力に対して、強い信頼感をもっているか、それともそうした予
測力を見限っているかにあるようなのである。そしてわたくしは、人間、特に経
済学者をはじめとした社会科学者たちの予測力に対して、桁違いに不信感をいだ
いている経済学者である。社会構造に変化がないかぎり予測は当たることもあ
る。しかしそれは学者でなくても誰でも当たる代物であり、問題は、いくら費用
をかけようがどんなに時間をかけようが、構造の変化を予測することは難しいこ
とにある。もっともわたくしは、学問は、予測をするために行うものであるとも
思っている。こうした予測に対する逆説的な考えを理解してもらうために、権丈
(4)(2001)「序章」に記した一文をもって、本章を終えることにしよう。

「予測を生業とする職業は、人類史上、2 番目に早く成立した職業と冗
談めかして言われるほどに、たしかに予測に対する需要は強いようであ
る。そして、根強い需要に支えられた予測者というものは、古来、素人に
は理解できない方法で予測して見せては素人を驚かすのを常としてきた
ものであり、今日の研究者も、データの数や方程式の数を競い合って素人
目には理解することが難しい方法で多くの予測をしてみせている。しかし
ながら、社会現象に関して定量的な長期予測をするということは、どだい
無理なように思える。過去になされた多くの予測の成り行きを比較検討し
たW.シャーデンが結論づけるまでもなく、いま、実際に行われている複
雑な方法による予測の精度は、定規を使って過去のトレンドを未来に延長
する方法などの単純な方法による予測精度と変わらず、そのほとんどが外
れてしまっている。それゆえに、分からないことは分からないと言い、分
かることはここまでであると明言することはいたって大切な研究姿勢で
あるのであって、今日の研究者には、古来の予言者の真似をしないことを
おすすめする。ただし、将棋の上手・下手があるように、政治経済現象、
すなわち人間の動きに対する定性的な読みの能力は、学問をすること――
経験と思索を重ねること――によって鍛えられるものであるというのは、
わたくしの口癖であることも、ここに記しておこう」。

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今日的「医師不足」の概観

今日的な「医師不足」が起こった原因に関する有力な仮説は、大方、次のようなものである。医療事故報道に端を発し、患者は、医師への不信感を高めて攻撃的となる。医師は、医療の正当性を

保証するための仕事が増えるのみならず、患者からの攻撃が受けやすい診療科を忌諱するようになる2。そこに2004 年からの臨床研修制度の導入が重なって医師不足を加速する。ある種、<風が

吹けば桶屋が儲かる>のような原因と結果までの距離が遠い仮説ではあるが、この仮説は、風が吹けば桶屋が儲かる式の話とは異なり、論理の結節がしっかりしている。それを実感し、医療の現

場でなにがおこっているのかを確かめてもらうためには、事例も豊富に紹介されている小松秀樹氏の『医療崩壊』を読んでもらうしか方法はないようにも思える。

ところで、医療の現場をめぐるこうした趨勢のなか、いまなにが起こっているのかを第
三者の立場から観察しようにも、直近の『医師・歯科医師・薬剤師調査』(2004 年度版)や『医療施設調査』(2003 年度版)、ほかに『地方公営企業年鑑』(2004 年度版)など、医療供給の

実態を知る上での定番データブックをながめてみても、実際のところ未だなにも観察できない。しかしながら、いま医療の現場で何がおこっているのかを、かすかに「予測」できないわけではな

い――「予測」という言葉は、わたくしのなかでは、過去現在未来の事柄に対して、そこでいったい何が起こっているのかという問いに仮説で接近する知的行為をさす(権丈(2006), pp.13-4.)。

まず、『医師・歯科医師・薬剤師調査』から得られる人口10 万対医師数をみてみよう。

1985 年までに人口10 万対150 人の医師を確保する国家目標が立てられたのが1970 年である。その目標は1985-6 年辺りで達成され、いまは人口10 万対201 人となっている。この値だけをみる

と、医師は過剰なのではないかとさえ思える。実際、いまからわずか8 年前の1998 年の10 月に、「医師の需給に関する検討会」は、次のように医師の不足どころか医師の過剰を憂えた報告書を

出している。

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「地域的にみて医師の配置に不均衡がみられるものの、現在の医師数の状況は全体と
しては未だに過剰な事態にいたっていないが、診療所医師数の増加がある程度つづい
た後は医師の過剰問題がより一層顕在化しはじめる」

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ところが、「医師の需給に関する検討会」が将来の医師過剰を予測した1998 年の翌年から、事態は急変する。朝日、日経、毎日、読売新聞で「医療事故」をキーワードとした検索ヒット数をと

ってみる。

主要新聞における「医療事故」ヒット数は、1999 年から急増する。その発端は、1999年1 月11 日に起きた「横浜市大病院 患者取り違え手術」である。心臓と肺の手術部位を取り違えた患者取

り違え事故として、われわれの記憶にも新しい。これを機に、メディアはいっせいに、医療にまつわる多くの出来事を「医療事故」として取り上げるようになった。そして、「医療事故」報道が

勃発した1999 年頃から医師患者関係が変化しはじめ、医療の現場では、次のようなかたちで医師は困惑することになる。

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患者の多くは、病院が100 パーセントの安心・安全を保障できるし、保障する義務
を負っていると思っている。病気やケガのために苦しむ患者の心情は理解できる。し
かし、苦しみが大きいのだから、医師にはそれを治す義務があり、治さなければなら
ない、と決めつけられると、医師は困惑してしまう。さらに、治せなかった医師は悪
い医師だから報復しよう、となると、医師は医療サービスを放棄して逃げ出すしかな
くなる。

小松(2006), p.14.

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ここにいわれている、「医師への報復」のひとつが、医療現場への警察の介入である。

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警察官は医療について、一般の患者と同様の認識しか持っていない。医療への過
大な期待を患者と共有する。容易に患者やその家族の心情に同調する。2002 年頃よ
り、警察は、医療に対する十分な知識を持たないまま、医療現場に踏み込むことが
多くなった。これまでなら、民事事件になるはずの紛争が、簡単に刑事事件になる
ようになった。被疑者は、暴力を背景にした強引な事情聴取と、メディアによる人
格攻撃で、送検前に実質的に罰を受けることになる。医療行為が普通のまじめな医
療従事者にとっても危険なものになってきた。

――――

民事裁判は立証責任、訴訟費用の問題があり、敷居が高い。そこで、行き場のな
い患者は警察に訴えるようになった。不満の受け皿がない以上、こうした患者の行
動は理解できるし、必然的結果である。

小松(2006), pp.41-2.

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「医療事故」報道が勃発した1999 年から4 年ほどのタイムラグをおいた2003 年に、「医師不足」報道も勃発する。

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医療現場に警察が立ち入ることが多くなり、善意の医療も、結果次第で犯罪とし
て取り扱われるようになってきた。また、患者の権利意識は、社会の後押しのため
に肥大化している。患者と医師の齟齬が表面化する場面で、多くの医師は口ごもる
ことを余儀なくされている。理不尽としか思えないことも、たしなめることすら許
されない。

こうした中、勤務医が、激しい労働条件の中で、じっと我慢して患者のために頑
張ることを放棄しはじめた。そもそも、大病院の勤務医の収入は多いものではない。
日本の勤務医は、経済学が前提とする、常に自分の利益の拡大を図る経済主体では
ない。自らの知識や技量に対する自負心と、病者に奉仕することで得られる満足感
のために働いている。このため、ハードワーク・ローリターンに耐えてきた。とこ
ろが、これにハイリスクと患者との齟齬の煩わしさが加わった。当たり前の話だが、
理不尽な攻撃を受けながらだまって相手に奉仕せざるをえない状況が続けば、人間
の誇りと志気は大きく損なわれる。この状況はイギリスに酷似している。

日本全国で、勤務医が、楽で安全で収入の多い開業医にシフトしはじめた。今、
日本全国の病院で医師が不足している。小児救急は全国的に崩壊した。産科診療も
崩壊が進行している。そもそも小児救急という分野は、最近まで日本には存在しな
かった。通常の救急で対応されてきた。親の不満と攻撃のために、小児救急という
分野が新たに出現した。最初から崩壊すべき運命だったのかもしれない。いまや、
小児救急への攻撃は小児科診療まで破壊しようとしている。私は、日本でもイギリ
ス型の医療の崩壊が始まったと感じる。

私は、この現象を「立ち去り型サボタージュ」と名づけた。友人は、これを「逃
散」と表現した。「逃散」とは、歴史用語で、中世・近世に、農民が申し合わせて土
地を捨て他の領地に逃亡したことをいう。領主の搾取に対する農民の消極的対抗手
段として行われた。私は、まだ「逃散」までには至っていないと考えるが、「立ち去
り型サボタージュ」は社会からの攻撃に対する医師の消極的対抗手段といえなくも
なく、似た状況であることは間違いない。

小松(2006), pp.157-8.

現在、地方の病院で医師不足が目立っている(4)が、これは地方だけでなく、都会で
も同じである。

小松(2006), p.186.

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そこに2004 年の「臨床研修制度」の導入が重なったのであるが、この新制度導入自体を、小松氏は、医師不足の本質的な原因とはみなしていない。

#(4) 第1稿を読まれた大規模病院の副院長より、次のアドバイスを頂いたので、付け加えておきたい。

# 医師不足についてのご意見先生のおっしゃる通りです。新臨床研修制度は基本的には
# 医師不足と関係ないことも同じ考えです。触れられていない点を2、3挙げさせて頂
# きます。若手医師は地方の病院へアルバイトに行って生計をたてていました。地方病
# 院は赴任医師だけでなくアルバイト医師でなりたっていました。新臨床研修制度にな
# って一時的に大学病院で若手医師が不足し、若手医師のアルバイト要員が不足して地
# 方病院へ行けなくなりました。赴任医師は当直が増えたり忙しくなり地方病院を嫌う
# ようになります。若手医師は、患者のQOL(Quality of Life)からQOML(Quality of
# My Life)に変貌してきています。我々の時代と違って情熱で医療を支えることが不可
# 能となりました。

# 掲載許可を頂いております。

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病院診療を取り巻く環境が厳しくなりすぎたために、日本中の病院で医師不足が
進行しつつある。2004 年に始まった研修義務化も影響しているが、それだけではな
い。私は幾人かの自治体病院院長と個別に現在の医師不足について意見を交換した。
多くの病院長は、研修義務化も医師不足の原因の一つだが、中堅の医師が病院勤務
を辞めて、開業していることがより大きな問題だと考えていた。

厚生労働省の「医師の需給に関する検討会」でも医師不足が問題にされている。
北里大学医学部長の吉村博邦委員は、医師不足が顕在化した要因として下記七点を
あげている。

1. 医療の専門分化、高度化による細分化の影響
2. インフォームドコンセントなど患者への説明時間の増加
3. 医療安全、危機管理などへの対応
4. 女医の増加
5. 勤務医のQOLの低さと若年医師の開業医志向
6. 旧労働省(現厚生労働省)による、医師の勤務条件、労働環境改善への指導
7. 新医師臨床研修制度の導入による大学医局員の減少と、これに伴う、専門医
養成システムならびに医師の派遣システムの崩壊

同検討会の泉陽子委員は、「地方の不足感が、病院、とくに地域医療を支える二次レ
ベルの病院に強い」ことを指摘している。さらに、「医師−患者関係の変化をはじめ
とする医療環境の変化等、長期的・構造的な要因も大きいと考えられる」と医師−
患者関係の悪化が病院の医師不足となっていることを示唆している。

小松(2006), pp.160-1.

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医師不足をとりまく最近の状況は、おおよそは上記のようなものである。以前、次のような文章を書いて、医療制度を評価する際の自分の価値基準を顕示したことのあるわたくしからみれば、最

近の日本の医療は、「医師患者関係の悪化」がさらにすすみ、ただひたすらに悪い方向に進んでいるように思える。

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医療や福祉サービスについては、

• 何よりも、必要な時に必要なサービスを受けられる体制ができる、
• サービスの供給者を猜疑心をもってながめるような制度ではなく、われわれ
消費者が供給者を信頼し、その信頼が報われる制度を作る、
• 支払能力に応じて、医療サービスへの利用格差が生まれるという、人びとの
嫉妬心をいたずらに煽る怖れのある制度には慎重になる、

などの条件を満たしてくれさえすれば、われわれは費用負担の増加に対しても支持す
るばあいがあるかもしれないのである。

権丈(2005)〔初版(2001)〕, p.180

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そして、先月末の2006 年8月31 日、厚生労働、文部科学、総務の三省は、医師不足が深刻な10 県の各大学医学部の定員を2008 年度からそれぞれ最大10 人、最長10 年間増やすことなどを認め

る「新医師確保総合対策」を発表した。1982 年に医師が将来増えすぎるとの懸念から医学部定員の抑制方針が初めて示され、旧厚生省の「将来の医師受給に関する検討委員会」が1986 年「医学

部の定員を最低10%削減する必要がある」との医師削減策を提言して、はじめての方向転換となった。もっとも、三省と財務省は同日、今回の定員増を「当面の医師不足を解消するために、将来

の医師の養成を前倒しするにすぎない」とし、1997 年の医師数を抑制するという閣議決定の趣旨を改めて確認したという認識ではある。

ちなみに、G7+スウェーデン8 カ国の人口千人対医師数は、下記の通りである。

図 1 人口千人対医師数(2002年)

そして医師多忙さを推し量る一次接近として、医師1 人当たり外来患者数と医師1 人当たり病床数をとってみた。他国医師の外来患者数、医師1 人当たり病床数(入院患者数の代理指標)は、と

もに日本の医師の3 分の1から5 分の1程度である。

図 2 医師多忙さを推し量る一次接近

資料)OECD(2006), Health Data.
注)
医師1 人当たり外来患者数=
(Doctors‘ consultations - Number /capita )/(Practising physicians - Density /1000 pop. )
医師1 人当たり病床数=
(Total hospital beds - /1 000 population /Practising physicians - Density /1000 pop.)


池上直己氏の医療経済学者批判と小松秀樹氏のメディア批判との類似性

ところで、次のふたつの文章を見比べてもらいたい。まずは、池上直己氏による、新古典派系医療経済学者批判の文である。


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池上直己(2005)「医療保険の給付範囲を巡る論点――混合診療と特定療養費制度」
『LRL』p.5.

医療において「ベーシック」な範囲を規定することは困難である。八代尚宏(1999)
は、DRG-PPS(症候群別包括支払方式)に基づいて必要最小限の医療の内容を規定
し、公的保険による給付をその範囲に留めることを提唱しているが、それは医療サー
ビスを自動車の販売と同じに捉えた認識に基づいている。すなわち、車種ごとに付属
品なしの基本モデルがあるように、病院という生産工場にも各DRG(症候群別分類)
に対応して必要最小限の基本的な医療サービスの組み合わせがあり、この基本モデル
に対して消費者である患者は、自動車にCD コンポやカーナビをつけるように、混合
診療によって好みの医療サービスを自由に追加注文する、という考えである。

この第1 の問題は、消費者は追加的なCD コンポやカーナビの効用と費用に基づ
いて各人が適切に判断できるが、医療の場合は追加的な薬剤や材料の適切性の判断が
難しいことになる。そもそも費用を追加的に負担して得られるのは治癒する確率の改
善であり、自動車の付属部品のように形のある物ではない。しかし、患者は一般に危
険回避型の行動をとるので、医師から勧められた場合には、ほとんどの患者は受け入
れることになろう。

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次は、小松秀樹氏による、(おそらく)司法関係者、さらに彼らに影響を与えるメディアに向けられた批判の文である(5)。

(5) 次の文がわたくしには印象的であった。

# 「ある司法関係者から聞いたことだが、裁判官には、自らの判断が社会に何をもたらしているのか、認識する手立てが、メディアの報道以外にないという」〔小松(2006), p.30.〕。
# それと、「医師はメディアの構造的被害者といってもよい」〔小松(2006), p.264.〕も記憶に残る言葉であった。

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小松秀樹(2006)『医療崩壊』pp.11-2.

医療の不確実性は人間の生命の複雑性、有限性、各個人の多様性、医学の限界に由
来する。医療行為は生体に対する侵襲を伴い、基本的に危険である。これを患者に正
確に分かってもらえるようにするのは至難の技である。私の過去の文章から、手術の
不確実性について書いたものを引用する。

手術は工業製品の大量生産とは大きく異なる。プレス機でスプーンを作る場
合、材料となる鉄板は厚さ、堅さ、熱伝導度、膨張率、自制、いずれをみても
極めて均質である。これを同じ金型で同じ強さで同じスピードで打ち抜くと高
い確率で同じ製品が出来上がる。一方、医療の対象となる患者では、年齢、遺
伝子、既往歴、職歴、生活環境いずれをとっても同じ人間はいない。しかも、
人間の体は鉄板よりもはるかに複雑であり、生命現象を逐一モニターして説明
できるほど医学は進んでいない。さらに、生命は有限である。死は不可避であ
る、いつ訪れるか予想できない。

手術操作も標準化できるようなものではない。人間の臓器は鉄板のように寸
分の差もなく一定の場所におかれているわけではない。手術の対象となる臓器
を、術野で、その臓器であると認識できるようにすることが難しいこともしば
しばある。手術操作は力、方向、スピード、時間などの物理的条件を入力する
と自動的にできるようなものではない。基本的にプレス機と同様の意味での再
現性はない。手術は毎回新しい独自の作業なのである。しかも、手術を実施す
る医師の技量にも大きな差が存在する。

複雑、多様かつ有限な人間の生命を、技量の異なる医師がその都度新しい独
自の手術操作で扱うのであるから、当然、結果は不確実にならざるをえない。

小松秀樹(2004)『慈恵医大青戸病院事件』pp.12-3.

小松秀樹(2006)『医療崩壊』pp.87-8.

医療について理解するためには、医療の基本的言語が統計・確率であることを認識
しておかなければならない。医療の結果は確率論的に分散する。同じ条件の患者に対
する同じ医療行為から、よい結果も悪い結果も発生するのである。

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繰り返すが、池上氏は混合診療の全面解禁を主張する医療経済学者への批判を書いているのであり、小松氏は司法関係者および医療事故を報道したメディアへの批判を意識する文章を書いている

のである。これらふたつの文章を読んで思うことは、池上氏、小松氏が批判する人たちには大きな共通点があり、その共通点とは、医療サービスにまつわる不確実性というものを彼らはどうにも

理解しておらず、ゆえに、彼らには医療サービス市場があたかも工業製品が売買される市場と同じようみえているということである。

ここからわたくしの思考は、最近の社会保障論の大混乱の真因は如何という問いにまでおよぶことになる。医療論議での混乱原因の過半は、(わたくしの表現を用いれば)「診療効果すなわち生

産物の不確実性、個別性=属人性(6)」をしっかりと理解している者とそうでない者とが世に存在するから生じていると言ってもよいと思う。そして年金論議の混乱原因の過半も、将来の出来事

に対する不確実性をしっかりと理解している者とそうでない者とが世に存在しているから生じているということが、従来からのわたくしの持論である(7)。

(6) 権丈(2006), p.432.

(7) 次の文を参照されたい。

# 私のゼミで年金をテーマに卒論を書いた学生は、いまだ一人もいない。年金を卒
# 論に選ばないように指導しているからである。彼らには次のように言っている。人
# 間の予測力、市場メカニズム、そして生活保護制度の動きへの評価が、実は年金の
# 在り方を論じる際の「分岐点」になる。ところが、これら人間の予測、市場、生活
# 保護への評価力は、残念ながら年金のみを研究していても身につくものではなさそ
# うなのである。年金を論じたいのであれば、君らの年齢の頃には、まず経済を軸と
# した歴史を学び、その歴史のなかで予測や市場がはたしてきた役割について考えて
# みたり、さらにはスティグマという公的扶助を理解するうえで必須の概念について
# 考えぬくという基礎訓練をしたほうがよいと思う。

権丈(2006)『再分配政策の政治経済学V』pp.325-6.
〔初出『日本労働研究雑誌』2004 年10 月号, p.60.〕

社会保障論の大混乱の真因は、根の部分では同根であるように思える。

医療、年金をはじめとした社会保障論議の混乱。わたくしからみれば、大方は、「不確実性」というものをしっかりと把握した者とそうでない者との論争、「制度・歴史」に詳しい者とそうでな

い者との論争なのであるから、いずれの方がよく考えているのかは、論を俟たないはずなのであるが、正しさが世の大勢を必ずしも占めるわけではないことを認めざるを得ないのも世の習い。医

療事故が起こった、その時、「不確実性」を理解しないままにメディアは報道して、医師、看護師、病院を一方的に責めた。国民はメディアの報道を受け止めた。そして医師不信を募らせた国民

の声が次のようなかたちで出てくる。

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「一般社会では、人の命を奪おうものならそれ相当の処罰を受ける。命を奪われた人
の家族のことを思えば至極当然のことだ。それなのに、医療事故を犯した医師たちは
大した罪を問われないまま平然と医療業務を続けている。

私たちには、自分や家族の命を預けるのに信頼できる医師を正しく判断して選ぶだ
けの手段がない。せめて、過ちを犯した医師らの名前はすべて公表すべきだと思う。」

〔2000 年11 月のある新聞記事より〕

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その結果――――医師、患者が相互不信のなか双方が不幸な状況に陥り、しかも今日の深刻な医師不足、小松氏の言う「医療崩壊」を引き起こしてしまった。

経済学の教育方法を変えなければ、「制度・歴史」を知らないままに社会保障を論じる浅はかな経済学者・エコノミストが金太郎アメのように再生産されるだけではないかということを、『再分

配政策の政治経済学V』の執筆時に強く意識していた。しかしながら、もっとはるかに問題の根は深いのかもしれない。はじめに指摘したように、「不確実性」に直面した人びとの対応を、経済

学者のみならずメディア人をはじめとした一般の人びとの分も変えなければ、医療、年金をはじめとする社会保障論は混乱したままであるような気がしないでもない。そして、そういう「不確実

性」に対する理解の仕方、逆に言えば、先に、年金を学生に理解してもらうために壊さなければならないものとして論じた「予測可能性信仰」を、多くの人に捨ててもらわなければ社会保障論に

は落ち着きがもたらされないような気もしてきた。もしそうであるならば、その仕事は授業で学生に「誰がどんなに専門的なスキルを磨いてみても社会現象に関する定量的な長期予測なんて無理

なんだよ」ということを分かってもらえるくらいの大変さとは、比べものにならないほどの大仕事のように思える。

もっとも、医療を考えようとする経済学徒の場合には、医療政策の「制度・歴史」をしらなくとも、「医療特有の経済問題は、疾病の発生や治療の効果に不確実性があるということに着目すれば

説明しうるという考えを述べ8」た、Arrow, K.J. (1963),” Uncertainty and the Welfare Economics of Medical Care,” を読めば、ある程度の水準には到達することはできる。と同時に、理

論家アローが、医療政策の「制度・歴史」を実は相当によく知った上で、理論的な論文をまとめていることにも驚かされるであろう。

それにしても、いったい誰なのか――「20 世紀的社会科学的方法論、特に工学的方法論が社会科学にも当てはまるという信念が埋め込まれた<伝統的な経済学の方法論>9」を築き、流行らせた

人物は。こういう思想を流行らせた人は大罪であると思う。少なくとも、経済学は生物学に範をとるべしと考えたマーシャル――さらには経済学は本質的に道徳科学であって自然科学ではないと

言い切っていたケインズ10など――がいた英国ケンブリッジの経済学者たちではなかったことだけは確かだと思うのだが。

参考文献

Arrow, K.J. (1963), ” Uncertainty and the Welfare Economics of Medical Care,”American Economic Review, 53(5), pp.941-73./田畑康人(1981)「不確実性と医療の厚生経済学」『国際

社会保障研究』第27 号, pp.51-77.

池上直己(2005)「医療保険の給付範囲を巡る論点――混合診療と特定療養費制度」『LRL』No.8, pp.2-8.

伊東光晴(2006)『現代に生きるケインズ』岩波新書

権丈善一(2006)『医療年金問題の考え方――再分配政策の政治経済学V』慶應義塾大学出版会_______(2005)〔初版(2001)〕『再分配政策の政治経済学T――日本の社会保障と医療 第2 版』慶應

義塾大学出版会_______(2004)『年金改革と積極的社会保障政策――再分配政策の政治経済学U』慶應義塾大学出版会

小松秀樹(2006)『医療崩壊――“立ち去り型サボタージュ”とは何か』朝日新聞社_______(2004)『慈恵医大青戸病院事件――医療の構造と実践的倫理』日本経済評論社

(8) Arrow(1963)/邦訳(1981), p.51.
(9) 権丈(2004), p.20.
(10) 特に、伊東(2006)「第1 章 道徳科学としてのケインズ体系」などを参照されたい。

# 学生には、君たちの年齢の頃では「平成」に入ってからの<新書>を手にする時間がある
# のならば、古典をながめている方が良いと思うよといっているのであるが、伊東(2006)は例
# 外のなかの一冊である。ちなみに、ゼミ4年生の夏休みの課題に、過去一年間に出版され
# た新刊およそ7万冊のうち1冊だけを紹介する「新刊ブックレビュー 1/70000」というも
# のがある。狙いはいろいろとあるのであるが、そこでの狙いとはまれにしか関係しないの
# で<新書>は「新刊ブックレビュー」の対象から外すことをルールとしている。なお、4
# 年生の夏休みには「故人からパクる」という課題もあり、暑い暑い夏休みにアダム・スミ
# ス、マルクス、ケインズやヴェブレンの古典を読んでは、みんな一緒に仲良く楽しんでい
# たりもする(笑)――僕の勘違いか?

今日的「医師不足」の概念図

図 医療事故報道前

Ni は、診療科i の人口当たり医師数であり、L* は医療事故報道前の医師1人当たり均衡負担感。負担感は、仕事量と精神的コストからなる。

図 医療事故報道後

診療科2は診療科1よりも患者から攻撃を受けやすい診療科であり、診療科2は診療科1よりも医師1人当たり負担感が増え、次第に医師が避けるようになる。医師の仕事は、他の医療従事者に

よって代替できる側面もあるであろうが、代替には新たに人件費がかかる。ところが、医師の負担が急増しているまさにその間、この国のほとんどの人には医療の現場で何が起こっているのかが

みえておらず、医療の効率化という大義名分のもとに、医療政策史上はじめての診療報酬マイナス改定をはじめとした医療費の抑制を展開していた。似た状況を考えれば?――自分のクラスでい

じめが行われていたことに気づかなかった熱血先生のようなものか。いじめが事件に発展してから戸惑ってもらっても、失われたものは帰らない。


2002 年4 月 診療報酬マイナス2.7%改定
2002 年10 月 老人医療定率負担導入
2003 年4月 被用者保険被保険者本人 入院外来3 割
2006 年4 月 診療報酬マイナス3.16%改定

図 国民医療費変化率

以上

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