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非線形な世界
21世紀に先進各国が取り組むべきさまざまな課題 ―― 環境問題、資源・エネルギー問題、経済格差問題、社会保障問題 ―― はどれも、人間が非線形な世界を線形なものとして扱おうとしていることに原因がある。
そして、この世界の線形化の原動力は、自由主義の名のもとに放任された貨幣経済である。
線形性とは、簡単にいえば足し算と掛け算が成り立つ性質のことであり、非線形性とは、それらが成り立たない性質のことである。線形性をもつ現象は、持たない現象より数学的な処理が簡単であるため、解析が簡単になる。実際、光や音、一部の電気回路など、自然界にも線形性をもつ現象は存在しており、それらの解析ツールとして、線形の数理・考え方は、きわめて有用なものといえる。
が、もちろん世界のすべてが線形に記述できるわけではない。むしろ、自然界には、非線形な性質を示すものが少なくない。大気の運動や海流、プレート・テクトニクスなど、無生物のマクロな動きは非線形な法則を持っているし、生物個体の動きや、その集合である生態系の振る舞いも非線形である。
そうである以上、人間が自然に働きかけたときにかえってくる応答も非線形である。同じ土地面積に2倍の資源をつぎ込んでも、作物の収穫高を2倍に増やせるわけでもないし、生活水準をそのままで2倍の人間を住まわすこともできない。漁船の数を無限に増やしても漁獲量を無限に増やせるわけはなく、むしろ将来の漁獲量を減らす結果となってしまう。
また、人間も生物であるから、われわれの日常も非線形な事象で満ちている。食事の量を2倍にしても、あるいは摂取する栄養分を2倍にしても、それによって2倍健康になるわけではない。また、幸福感や満足度という数値化できない感覚についても、食事や衣服、住居や車などの資源や物品、サービスなどの量や質を高めたからといって、それに比例してどこまでも上昇していくものではない。これは、経済学で限界効用の逓減と呼ばれるものであり、数学的な証明はないものの、直感的に理解できる性質のものである。
このように、自然のふるまいや人間と自然の関わり、さらには人間自身についても、非線形な現象を数多く認めることができる。特に重要なのは最後の点、すなわち、幸福や満足を求める人間の欲望は、さまざまな資源・物品・サービスと非線形な関係にあり、それらを青天井に求めるものではない、ということである。多くの生物と同じように、人間も本来は、自然の中で社会を持続させてゆく素養を持っているのである。
それらとは対照的に、貨幣というのは線形である。1万円あれば千円の商品を10個買うことができるし、2万円の商品1つには1万円の商品2個分の価値があるのだ、というような比較も可能になる。先に述べたように、線形性とは非常に便利な性質であり、貨幣の発明によって人類社会は飛躍的に発展した。
が、貨幣経済の発達には、非常に重大な弊害があった。それは、人間の欲望の線形化である。線形化した欲望は、さらなる幸福や満足のために、無制限の物質的豊かさを要求する。
この、貨幣という抽象概念に魅せられ暴走した人間の欲望が、現実世界のもつ非線形性との間で起こした軋轢の集合体、それが冒頭に上げたような諸々の問題なのである。線形に増え続ける人間の欲望に非線形な自然界が悲鳴を上げているのが環境問題であるし、資源・エネルギー問題にも同じ構図がある。そして、自然が線形に応答しなくなったことによる不足分を人間社会の中から補おうという発想が、国家間では南北問題、国家内でも所得格差や社会保障の問題として現れているのである。
では、貨幣はどのようにして人間の欲望を線形化するのか。2つの原因が考えられる。
第一に、貨幣の保存機能が問題になる。1年分の食料を渡されたり、一生分の衣類を手に入れたりしても、喜ぶ人はまずいないだろう。食料も衣類も、時間と共に劣化する。また、仮に保存のきくものであっても、それらを保管するためのコストが生じることになる。そのため、貨幣のない原始的な社会においては、必要量を大幅に上回る資源・物品を持っていてもいいことはないのだ。
ところが、貨幣というのは時間がたっても劣化しない。1万円はいつまで経っても1万円で、激しいインフレの起きない限り、その価値は大きくは変化しない。これは、腐った食べ物の価値がほとんどゼロになっていまうことと対照的である。
さらに、貨幣は保存のためのコストをほとんど必要としない。帳簿・電子ファイル上の抽象的概念として扱われるようになってからは特に、である。つまり、貨幣には所有の時間的・空間的限界を取り払う効果があるのだ。
この効果には、将来のリスクに備えることができるという利点がある反面、過剰で不必要な富に価値を与えてしまうという欠点がある。安定して不足のない生活を送っている者が、腐る前に食べきることのできないだけの食料を手に入れたら、自分が持っていてもしょうがないから、貧しい者に分け与えることを考えつくだろう。
が、貨幣経済の元では、それに加えて換金ののち貯蓄という選択肢が加わる。人間社会の重要な機能の1つである富の再分配は、万物は時間と共に劣化するという自然の非線形な法則に影響を受けてきたわけだが、貨幣という線形な抽象概念は、それを阻害する恐れをはらんでいるのだ。
第二に、こちらのほうがより深刻な問題なのだが、貨幣自体が人間の欲望の対象になることが挙げられる。
貨幣は抽象概念であるから、現実世界の非線形性とは無関係に、人間の脳の中でどこまでも増え続けることができる。1億円を目標に資産を増やし、達成したら次は2億円を目標に、ということも可能である。この欲望は、自然の摂理とも限界効用の逓減とも無関係であり、したがってそれらに抑制されることもない。
加えて、貨幣経済の元では、資源や物品、サービスなどに値段をつけることで、それらを擬似的に線形なものとして扱うことができる。
重要なのは、線形だから値段をつけるのではなく、値段をつけられたものが線形とされる、いう点である。本来は人間にとって非線形な資源や物品、サービスが、貨幣によって線形と近似されることで、抽象的で無尽蔵な欲望の対象範囲に取り込まれてしまうのだ。人間の命や尊厳さえも、その気になれば線形性を持つものとして扱うことができるし、それは現に行われている。
以上、貨幣が人間の欲望を線形化するプロセス、および線形化された欲望が現実に引き起こしている問題を見てきたが、これらの問題はこの数十年で特に顕著になったものであり、数千年にわたる貨幣の歴史と必ずしも二人三脚ではない。この点は、歴史上のさまざまな文明・国家・社会に、貨幣の欠点を補うシステムが存在したこと、および、近年、自由主義経済の名の元に、それらのシステムが次々と破壊されている事実で説明できる。
非線形な世界と線形な貨幣を調和させる種々のシステムは、大きく3種類に分けることができる。
@人間の欲望を非線形に保つ
社会の通念として、必要のない過剰な富に執着するのは悪だ、という共有意識を育てる方法である。こうした意識は、育てようと思って育つものではないし、一朝一夕で育つものでもない。一度根付いてしまえばこれほど有効なシステムはないが、逆に、一度破壊されると、再生させるのは難しい。
近代社会は蓄財の自由を認めるところにその源流を持っているため、この種のシステムは、この数百年で世界的に滅び去った感がある。が、万人が過剰な貯蓄の犯罪性を認識することは、冒頭に挙げたような諸問題を解決するための最短経路ではないだろうか。
歴史上では、たとえば、古代ローマ共和国/帝国における公共事業のシステムがこれに当たる。街道、上下水道、浴場、医療、教育などのローマの公共事業は、国家予算でまかなえる規模のものではなかった。では不足分はどうしたかというと、公職に就いた支配階級の者が、私財を投じて補ったのである。人の上に立ち、人より多くを受け取るものは、人より多くの義務を果たすべきだという考え方が、その根底にあった。ノビレス=オブリージェ(高貴なる義務)という言葉は、この古代ローマの精神から来ている。
A強制的に再分配する
国家・宗教などの権力が、税金などの形で富を集め、再分配する方法である。古代からさまざまなバリエーションが存在し、今日の世界でもっとも多く用いられている手法でもある。
収入に応じて税率が増す累進課税や、タバコ・酒などの嗜好品にかけられる税が、その代表である。そうして集めた貨幣を、その社会の構成員全員が等しく恩恵を受けることができるような形で再分配するのである。国家の役割が、構成員から不幸を取り除くことである以上、この再分配はこれからも必要な手法であろうし、また有効であり続けるだろう。
累進課税を富の再分配に用いるという考え方は比較的新しいものだが、その理念なら、はるか昔から存在した。中世のヴェネチア共和国には、戦争などによる臨時費用の調達のために、所得に応じた量の国債を国民に強制的に買わせる制度が存在した。共同体に共通の利益を守る時には、生活に余裕のある者ほど多くの負担を負うべき、という考え方である。
以上2つの方法は、必ずしも独立したものではなく、相互に関連を持っている場合が多い。
たとえば宗教は、喜捨と慈善事業の組み合わせで富の再配分を行う反面、その教義を通じて、人間の欲望を抑制する役割を持っていた。また、例に挙げたヴェネチア共和国についても、当時の富裕層は貴族階級であるから、ローマ人のようなノビレス=オブリージェを持っていたと考えられる。
B貨幣を非線形にする
ドイツの商人・経済学者であるシルヴィオ・ゲゼルによって提唱された考え方で、貨幣を強制的に劣化させるシステムを作り、非線形な現実との調和を図ろうというものである。
このシステムが稼動した例は少ないが、第一次世界大戦後のドイツ・シュヴァーネンキルヘンや、オーストリア・ヴェルグルにおいて一時的に成功を収めた例がある。
これらの実例を元に、特定地域内でのみ流通する地域通貨の研究・実践が、ヨーロッパ諸国を中心に行われているが、継続的な成功を収めている例は少ない。
これらの3点は、いずれも現代の日本社会においては必ずしも前向きに検討されている類のものではない。持続的な経済発展を国家の目標としてしまえば、それは無尽蔵の欲望を燃料として必要とするし、無尽蔵の欲望は、国家による再配分を拒絶するだろう。
しかしながら、冒頭に挙げたような諸問題の解決のためには、これら3点のシステムを何らかの形で組み合わせ、貨幣経済の活動に一定の枠を設けることが必要である。非線形な世界を非線形なものとして扱う、当たり前でありながらこれまで省みられてこなかったそのような態度が、21世紀を野蛮な自己中心主義者の時代としないためには、欠くことのできないものではないだろうか。
2005年11月 洞夏屋楽文
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