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青木雄二氏・・・「日本企業が過去に急成長したのは、技術の優秀な貿易立国だからと思うのが大間違いなんや。」
http://www.asyura2.com/0601/hasan47/msg/639.html
投稿者 hou 日時 2006 年 9 月 11 日 00:21:35: HWYlsG4gs5FRk
 

http://www.journey-k.com/~riku/article/013.html

貨幣の不思議

 
「お金は淋しがり屋、たくさんある方へ寄っていく」
 これは、1998年和歌山市の夏祭りでヒ素入りカレーを人々に食べさせた疑いで話題になった主婦の夫が言った言葉である。この家族は夫婦とも無職なのにもかかわらず、立派な家を構え、裕福な生活を送っていた。なぜそのようなことが可能だったかというと、保険金詐欺をはたらいていたためと後に判明した。自分や知人に多くの掛け金で保険をかけ、保険会社をだまして多くの保険金を受け取っていたらしい。
 その夫は悪事が明るみに出てしまうかもしれないといのに、得意気にテレビの記者にこう言っている。
「あんたらサラリーマンは、1日に何百万も儲けることはできんやろ」
 なんともお間抜けな人物だとは思うが、けっこう資本主義の本質を心得ていたところが恐ろしい。労働者あるいは下請けとして、どうせコツコツ地道に働いたところで、手にすることができるお金は、死なない程度に生かされるだけのものだということに気づいていたのだろう。それなら、人をだましてうまくやって、毎日好きな麻雀をやって暮らすことができればいいじゃん、というわけだ。

 資本主義社会は、お金を持っている人の方が圧倒的に有利な社会だ。お金持ちは、それを他の人に貸して金利をとることができる。会社をつくって労働者を雇い、儲けのうわまえを取ることができる。資本がない貧乏人は、自分を労働力として売ることしかできない。お金持ちは100の努力で1000を得ることができるが、貧乏人は100の努力で10を得ることしかできない。貧乏人が1000を得ようとすれば、かなりの才能と努力が必要になる。

 マンガ『ナニワ金融道』の作者として知られる青木雄二氏も『ナニワ金融術 唯物論』(徳間書店)で次のように書いている。
「ええか。日本企業が過去に急成長したのは、技術の優秀な貿易立国だからと思うのが大間違いなんや。労働者を8時間働かせて、そのうち1時間半分だけ賃金として与え、残る6時間半分は何十年にわたって搾取し続け、蓄積してきたからこそ、急成長できたんやで」

 わたしも同感だ。労働者は自分の労力に対する「正当な対価」を受け取っていないのが現状だと思う。
 だいたい自分の身体感覚から判断すると、人間の労働時間というのは、1日に6時間ぐらいでいいのではないかと思う。あとの時間は家族や友人と過ごしたり、地域社会のために何かをしたりする生活が望ましいと思う。なぜ、そういう生活ができないのだろうか。考えてみると不思議だ。

 さらに不思議なのは、たとえばアメリカの場合、人口の1%の人々が、他の99%の人々より多くの富を所有しているという実態だ。なぜ、お金はより多く集まっている方向へ吸い上げられていくのだろうか。このままでは、貧富の差がどんどん開いていってしまう。
 わたしたちは何か「貨幣」について、間違った認識をもっているのではないかと疑ってみる必要があると思う。

 そもそも貨幣とは、人間の抽象的な観念を具現化した、ただの「象徴」である。貨幣そのものに確たる「価値」はない。
 日本語では、貨幣の「幣」とは、「神を降ろす形代(かたしろ)」のことだ。また、同時に「神へのささげ物」のことも指す。要するに、神と人との間をとりもつ「橋がかり(媒介)」のようなものとして位置していたものだと思う。貨幣は、神と人との「交流」の「場」だったのである。

「神」とは、「外部」「他者」のメタファーである。人間がなぜ貨幣という象徴を持ったのかというと、それは、他者との交流のツールとして便利だったからなのだと思う。「言葉」と同様にコミュニケーションの道具として役に立つものだったに違いない。

 かつて貨幣は、共同体と共同体との間の交流(交換)手段として有効だった時代もあったのだろうと思う。お互いに「正当な対価」という「納得」があれば。要するに「等価交換(give-and-take)」である。そして、それはあくまでも貨幣は交換の「ツール」として人々に認識されていた場合の話である。

 しかし貨幣は、どこでどう間違えたのかツールとしての機能を離れ、貨幣自体が価値あるものとしてひとり歩きを始めてしまった。「利潤」を生み出す「打ち出の小槌(錬金術)」として。株式取引所で扱われる貨幣が、その典型である。

「利潤」を生み出すシステムとは、いったいどういうものかというと、基本的には「安く買って高く売る」ということである。わたしたちは、このあからさまな基本原理を忘れがちだ。

 安く買ったものに「いい仕事」という「付加価値」をプラスして「正当な対価」としてお互い納得し、「等価交換」できる場合は問題ない。ところが、その納得できる「正当な対価」という領域がなんとも「曖昧」で難しい。

 貨幣は、それそのものには「価値」はない。しかし、その「価値がない」という本質こそ、貨幣の「価値」なのである。要するに、観念しだいでどうにでもなってしまうのであり、そのどうにでもなってしまうところが「価値」だということだ。
 そして問題なのは、本当は価値がないのに、あたかも価値があるように人をだますという詐欺的な要素が入り込む余地が充分あるということなのだ。

 たとえば手抜き工事の欠陥住宅を売りつける業者などもその典型である。不良債権も、それほど価値がないものに不当な価値を上乗せしたため、つじつまが合わなくなった結果である。

 貨幣は「言葉」と同様、本来は単にツールに過ぎず、内容をほのめかすだけの存在だ。そこには「騙り(かたり)」の危険が潜んでいる。人を豊かにする反面、人を傷つける可能性もある。貨幣にも倫理的な問題が潜んでいるのである。

 今のところ、資本主義は他のシステムよりましなものなのかもしれない。しかし、コントロールできないと暴走してしまうのも事実だと思う。考えなければならない問題は山積している。

 たとえば、利潤を上げるために、賃金の安い労働者のいる中国で製品を作って日本で売るとする。中国の労働者は「正当な対価」を得ているのだろうか。また、
そのことで、仕事にあぶれた日本の労働者はいないのだろうか。

 会社の利潤を上げるために、従業員をリストラする会社も多い。しかし、それでいいのだろうか。会社とは、単に利潤を得るためだけの存在なのだろうか。本来は、人の生活の基盤を保証する社会的存在ではなかったのではないだろうか。いや、そうあるべきだとわたしは思う。そう考えれば、もっと他の解決法があるのではないだろうか。

 利潤を上げるという価値観は、人に競争を強い、人の関係を分断し対立させ、勝者と敗者の格差をどんどん広げていく。「金の切れ目が縁の切れ目」「骨肉の争い」「友人に金を貸してはならぬ」などの言葉があるように、貨幣は人の関係をおかしくしてしまうところがある。家族内の関係や、人の心さえも、貨幣によって分断されている場合も多いと思う。

 現在の世界をかえりみれば、環境の悪化も、貧富の差も、そろそろ臨界点に近づいてきているように思える。人々が目先の利潤を追いかけるあまり、来るところまで来てしまったという感がある。
 もう充分世界は貧乏で、お金持ちが吸い上げるお金など、どこにもないのではないだろうか。行き詰まった金持ち国アメリカが突破口として選んだ選択肢が戦争とは、なんともお粗末な顛末である。

 いま、わたしたちはそういう世界の現実から目をそらさずに、自分は人とどういう「関係」を持ちたいのか、よく考えてみる必要があると思う。
 貨幣は、人がどのような観念をもつかによって価値が変わるものだ。人との間で何をやりとりするのか、自分は人に何を差しだすのか、扱い方によっては貨幣は「神が降りてくる場」なのである。

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