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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu116.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/a421a016548578436b06cc55d3e1e2ba
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日本人の品性はいろいろな面で非常に上品で、
世界の常識とはまるで違うくらいに高級だ。(日下公人)
2006年3月17日 金曜日
◆第21回 日本は「質の経済」、アメリカは「量の経済」 日下公人
http://nikkeibp.jp/sj2005/column/p/21/index.html
日本人は「クオリティが高いか低いか」に敏感だ。それに比べると、外国人はクオリティがほとんどわからないのではないかと感じる。彼らは日本人とつき合って、だんだんとわかるようになってくるのだ。それで、日本の商品を買うようになったり、日本風に物事を考えたりする外国人が増えてきた。アメリカ人などもそうだ。一言でいうと、日本は「質の経済」でアメリカは「量の経済」である。あるいは外交なら、日本は「モラルのある礼儀正しい外交」で、アメリカは「力一本槍の外交」。これは日本人から見れば野蛮だが、アメリカ人はそうは思っていない。
日本人の品性はいろいろな面で非常に上品で、世界の常識とはまるで違うくらいに高級だ。だから、昨今の憲法改正論で僕が「一番ここを変えてもらいたい」と思うのは憲法前文だ。前文には「世界の国はみんなよい国だ、日本さえ悪い気を起こさなければ世界は平和である、だから日本は何もかも他の国にお任せする」と書いてあるのだが、それは現実とは違うことに国民が気づいている。
そこで僕は、前文を「世界には程度の高い国と低い国といろいろあって、日本はそれに応じておつき合いいたします」と改正してもらいたいと思っている。悪い国とは悪くつき合う、立派な国とは立派につき合う。そういう憲法前文にしておいたほうが現実に合っていて、しかもそういう「程度の調節」ができる国は日本しかないのではないか。相手がどんな程度の高い国でも、日本はきちんとつき合うことができる。ただ、程度の低い国とのつき合いが最近はできていないことが問題で、それをこれから大いに開発すべきだと僕は思っている。
しかし、日本の指導者は「程度の低い国とはつき合うな」という話をしない。これに国民のほうが、じれったくなっている。国民の意識に変化が見られるのだ。「悪い国には悪いといったらどうだ。上品なことばかりいっていても、らちが明かない」と国民は思い始めている。ただ、国民はメッセージとしては曖昧な「らちが明かない」というようないい方しかできない。新聞やテレビはそうした声を取り上げない。それでも、現実を見抜いている「庶民の声」は、どんどん高まっている。
「質の経済」の話を日本人に向かってするのは難しい。しかしアメリカ人にはしやすい。理由は2つある。第1に、日本人に向かって「日本人はハイクオリティをたいへん好む」といっても、「そうですよ、だから実行しています」と応じられてしまうだけだから、わざわざいう必要がないのだ。
第2は、その日本人のなかでも、学歴の高い人はクオリティの話ではなくて、もっとデータに基づいた話を聞きたいというからだ。そういう人は、クオリティの話は非科学的で、非学問的であると思いこんでいる。もっとスペックやモジュールになるような、数値になるような話を聞きたいと思っている人が増えている。そういう人に「クオリティ」の話をしても、聞き損だと思われてしまう。もっと数字や統計を挙げて、欧米の先例や理論をいってくれというのが彼らの要望だ。
でも僕は、「そんな数字になるようなものは程度が低い」と思っている。アメリカ人は、スペック化して、モジュール化して、これで合理化した、生産性が上がった、ハイクオリティの生活をしていると思っている。そんなことしかしていない。しかしそれは、我々日本人からすれば野蛮な生活に見える。社会秩序についても、普通の日本人は「そんなことでいいんですか」とアメリカに対して思っている。(中略)
今、世界で最もクリエイティビティのあるマーケットは日本だ。だから、日本で日本人が気に入ってくれるものをつくって、気に入ってくれるようなやり方で販売しなければいけない。それを考えられるのは、やはり日本人が適役なのだ。日本人のなかでも一部の人ではあるが、それは「他国のクオリティの低さに汚染されていない人」だ。アメリカはほとんど参考にならない。
日本の産業は、すでにそういう段階に入っている。そうした成功例がたくさん出てきている。それにもかかわらず、数字になっているような、統計的裏づけのあるような話を求める人が多い。「数字を求めるなら、クオリティの話はできませんよ」と僕はいいたい。
(私のコメント)
日米間における牛肉の輸入再開問題は先日も論じましたが、アメリカ産牛肉は効率性を徹底的に追求した結果、成長ホルモン剤を使用して飼育の効率性を徹底的に高めて、さらに抗生物質を使用して病気にもかからないようにして、徹底した合理化がはかられている。確かにそうすれば効率的な畜産経営ができるのですが、BSEに対する検査体制は杜撰だ。これでは日本に輸入しても買う客は限られるだろう。
中国からの輸入野菜についても農薬の過剰使用の問題が起こっている。確かに安くて見た目がよければ最初は売れるのでしょうが、農薬汚染や抗生物質や成長ホルモン剤や遺伝子組み換え作物など問題になれば日本では売れなくなるだろう。それだけ日本では品質が問題になるようになっている。
これは農畜産品のみならず工業製品でも同じであり、自動車などアメリカ製のみならず韓国製や中国製の自動車などは、なかなか日本に参入できない。特にアメリカ製自動車などはヤナセなどは仕上げ直して売っているくらいだから品質的に日本ではとても売れない。日本では安くて見た目がよければ売れるものではなく、品質がよくなければ売れない。
しかし品質はなかなか数字データー化しにくいから製品に生かすことが難しい。食品に有害なものが含まれていないかは調べるのが大変だし、自動車も故障の発生割合などを調べるのも大変だ。それよりもどうしても値段や見た目の方が分かりやすい。アメリカや中国などではそれでも商売になるのでしょうが日本ではいったん評判を落としたら商売は出来なくなる。
これは商品や製品だけではなく国家や人間にも当てはめられるものであり、アメリカでは成果主義で業績は数字化されて給与や待遇に反映されるシステムですが、それではサービスの品質が悪くなってしまう。成果主義では自分以外は全て敵だから助け合う事は無く、裏に回れば足の引っ張り合いでサービスが向上するわけが無い。
外交交渉でもアメリカなどではがんがん圧力をかけて相手を屈する交渉して主張を押し通せば成果主義では得点を上げることになりますが、相手からは恨みを買って敵を作ってしまう。中国なども靖国で攻め立てれば日本の政治家は屈してきたからそれでよかったのですが、内政干渉しては中国の品性を疑われるだろう。
しかしアメリカや中国にもっと上品な外交を要求しても無理な話で、それは彼らが作る商品や製品にもどうしても現れてしまう。ヨーロッパにはブランド品があるがアメリカにはブランド品と呼べるものが無い。アメリカ企業は安さを求めてみんな外国へ工場を移してしまってブランド価値をなくしてしまった。中級品以下のものはそれでもいいのでしょうが、高級品は品質が決め手になるから品位の無い国で作る事はできない。
竹中大臣は何でもアメリカのやり方を日本に取り入れて構造改革したいらしいが、成果主義を取り入れた企業はコストのかかるベテラン社員の首を切り、未熟な社員ばかりになってかえって業績を落としている。正社員からパートの社員に入れ替えれば人件費は低くなるがサービスの品質は低下する。ノウハウの蓄積も無いからマニュアル以上のサービスが出来ない。
だから低品質の総理大臣と低品性の竹中大臣は日本社会には合わないのだ。だからホリエモンのような低品性の日本人が出てくるようになってきたが時代のあだ花だろう。