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http://www.nikkei.co.jp/ks/desk4/20040128b171s000_28.html
西洋腑分けに学ぶ――解体新書に見るアングロサクソン精神(1/28)
資本主義発祥の地である英国について、我々日本人が「折り目正しい紳士の国」という固定観念を持つようになったのは、いつのころからでしょうか。恐らく明治維新後、西洋文明を採り入れるために洋行した政府視察団の報告書などが端緒となり、その後100年以上にわたって定着したのでしょう。「フジヤマ」「ゲイシャ」の逆バージョンと言ってもよいでしょう。
英国人は総じて懐が深く、些事にこだわらない寛容さや骨太さを持っていると思います。社会の指導層には飛び抜けて優秀な人々がそこここにいて、その意味で英国は確かに、今でも紳士の国です。
しかしながら、きめ細かいサービスや、折り目正しい物事の進め方が上手かと問われれば、「ノー」と言わざるを得ません。特に一般大衆の能天気さは、ラテン世界以上ではないかと思ったりします。
例えば、ガス会社。世界で最初に公益事業を自由化し、米国もお手本にした英国の電力・ガス事業ですが、発想や狙いの斬新さとは裏腹に、実際の事業運営は「ひどい」の一言です。既存のガス会社に比べて3割は安い料金に引かれて、新参のガス会社に申込書を送ったのですが、何カ月たっても契約先が変更されません。何度電話したかわかりません。そのたびに、「今日手続きを始める。何も問題ないから大丈夫」の繰り返し。契約が相成ったのは半年後でした。商売する気があるのだろうかと疑いたくなりました。
世界に先駆けて開通した鉄道や地下鉄、郵便制度も根太は緩みっぱなしです。鉄道はそもそも時間通りに運行されたためしがなく、駅にすべり込む電車のダイヤは、コンコースにある電光掲示板でその都度確認しないとわかりません。突然、行き先を変更することだって珍しくはありません。朝、地下鉄の駅に向かうと、「今日からこの駅は閉鎖します」という張り紙。聞けばエレベーターが故障したとかで、「いつ再開するのか」と尋ねると、「故障が直ったら」。結局、2週間後でした。しかも、再開時も何の前触れもなく。
初めは腹が立ちましたが、そのうち、あまりに度外れた「いい加減さ」に笑いがこみ上げてくる、おかしな感情にとらわれました。同時に、「どうしてこんなにいい加減な国が、七つの海を制覇できたのだろう」と漠然と考え込むようになりました。
世界を征した英国はイノベーションの博覧会場のような国です。「世界初」を挙げればキリがありません。産業革命の原動力となった蒸気機関の発明は言うに及ばず、スポーツの世界でもフットボール(サッカー)、ゴルフ、テニス、クリケット(野球の原型)、ラグビーなど、世界のメジャースポーツの過半は英国で産声を上げました。
ウォーキング(散歩)や登山も英国人が切り開いた分野です。例えば、南仏の高級保養地ニースを最初に開発したのは英国人であり、今でもニースの海岸通りは「プロムナード・デザングレ」(英国人の散歩道)と呼ばれています。スイスのマッターホルンに艱難辛苦の揚げ句に初登頂したのも英国人のエドワード・ウィンパーでした(ドラマの一部始終は「アルプス登攀記」に詳しい)。それまで「山は恐ろしく近づきがたいもの」と考えていたスイス人が、アルプス観光開発に乗り出すきっかけを与えました。
こうした英国人の独創性は、実は「いい加減さ」と表裏一体の関係にあるのではないのか――。私は次第にそう考えるようになって行きました。
冒険に失敗はつきもので、いちいち気にしていては前に進めません。自分の関心や興味に素直に従い、その果実を手に入れようとする時、付随して生じる「小さな不便」や「危険」は苦にならない――。そういう感じ方が英国人の進取精神の根底にあるのではないでしょうか。
このことは、「リスクなくしてリターンなし」という市場型資本主義の基本的考え方とぴったり一致するではありませんか。きめ細かい配慮ができ、かゆいところに手が届くけれども、些事を気にするあまり大胆さに欠ける日本人とは対照的です。リスク・テイクの精神から出発する資本市場が英国に発祥したのは、必然だった気がします。そう考えると、英国流の「いい加減」は、「良い加減」(最適)でもあるなと思えてきます。
いずれにせよ、英国人は単純な事務処理の能力や現場の熟練度の低さゆえ、精神をサービスや製品に変えることは不得手ですが、新しい概念を生み出していく力において、追随を許さないものがあります。「神は二物を与えず」と言うように、不器用だからこそ、骨太であり得たのかも知れません。実際、小さなミスに目くじらを立てていては、いつまでたっても既存のやり方を抜本的に変えることはできません。'こなれた'やり方に従えば、当面の効率性を確保できますが、現状を打破する力はその分弱まります。
話は鉄道に戻りますが、英国の鉄道では同じ線路の上を違う会社が運営する電車が走ります。それぞれの会社が自分の会社の「運行ダイヤ」を別々に作っていて、全体がどうなっているか、なかなかわかりません。保線と運行を分けたデメリットはダイヤの乱れや事故の増加など枚挙にいとまがありません。それでも、「試してみること」以外にイノベーションを生むきっかけはありません。
アングロサクソン精神の本質とも言える「好奇心本位制」の必然的帰結は「分解」であると言うこともできるでしょう。対照的に「和をもって尊しとなす」文化の帰結は「体制維持ないしは漸次変更」です。自由化でガスや電力、水道の供給会社と販売会社をバラバラにしたり、鉄道の保線と運営を別々にしたり、会社の倒産リスクを切り離してクレジット・デリバティブ化したり――と、アングロサクソンはとにかく分解と再編が大好きです。
融資債権にしても不動産にしても、そこから上がる収益やリスクを全部バラバラにして、売りたい人、買いたい人が市場で値段を付ける。一見、無秩序ですが、結果的にはリスクとリターンの最適関係が築かれ、一カ所に過大なリスクが偏在する経済の歪みが市場の力で是正されるわけです。いったんすべてを切り離し、必要な人が必要なものだけを取り込むシステムは、変化に対して柔軟な構造を持っています。労働力の流動化や、市場による資本の最適配分機能がその典型です。
銀行や生保が過大なリスクを抱え、身動きがとれない袋小路に陥っている日本とは好対照です。いったんリスクを切り離すしかないのですが、「継続性」や「組織の維持」にこだわるために、ままなりません。組織自体が命を持ってしまっている点がアダになっています。組織は必要に応じて姿を変える(パーツを出し入れする)方が、今の状況に適しているのに、それができません。
28日付では、恒常化する金融庁の銀行特別検査を巡って両者の不信が深まっている点について、金融庁担当キャップの藤井一明記者が「アングル」を書いています。本来、役所に箸の上げ下ろしまでとやかく言われるのではなく、経営の自主判断で不良債権処理を進めるのが望ましい姿なのですが、現在の日本の銀行は、そもそも市場主義の中で問題を解決していく能力に欠けている気がします。
最大の原因は、保有する融資債権を市場のルールで値付けし、いったん「分解」してしまう決断がつかないからでしょう。分解すれば、問題解決は速いはずですが、既存の体制が崩れるからです。体制維持にこだわれば、市場型の分解を忌避しつづけるしかありません。待っているのは、病状の悪化です。バイオテクノロジーでも遺伝子の切り張りにより、新しい可能性が開けています。「切り張り」はコペルニクス的転回を可能にする数少ない手段なのです。
「蘭学事始」を著した杉田玄白は、西洋版の腑分け(人体解剖)を日本で最初にやった人です。「解体新書」は、人間を個々のパーツに分解し、それぞれがどう機能しあっているかを調べるところから始まる西洋医学の原点を著した書物です。腑分けをせず、外から見た様々な情報を基に処方する漢方医学とは対極をなしています(蘭=オランダ=はドイツ北部やデンマーク辺りとともに、現在のアングロサクソンの源流に当たる人々が住んでいた土地。英語は元々ドイツ語やオランダ語から派生した地方言語であり、その意味で蘭学はまさに、アングロサクソン本流の学問です)。
腑分けをしない医学にそれなりの利点があるように、経済をパーツに分解してモジュール化しない経済も存在しえます。しかし、そういう体制をとるならば、株式市場や債券市場は廃止しなければ矛盾ばかりが拡大します。じんわり効く漢方の薬効の代償として、スピードや環境変化への対応能力が落ちることも覚悟する必要があるでしょう。そして何より重要なのは、すでに市場というものを経済のテコとして利用している日本が、それを捨てるのはほとんど非現実的だということです。
われわれは今、進んで西洋腑分けを実行する勇気を持つ以外にないのです。異様なほど大きなリスク資産を一手に抱えながら、激変を嫌ってなかなか手放そうとしない20世紀の「巨艦」たちは、西洋腑分けの対象になることによってのみ、新生を得ることができるはずです。