★阿修羅♪ > 国家破産44 > 148.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
http://ch.kitaguni.tv/u/5238/%b0%e5%ce%c5/0000306313.html
2005年もあと半日を残すばかり。暖かい家庭でお正月が迎えられることこそ「しあわせ」というものだろうが。
昔は貧しさを表現するのに「正月が迎えられない」という言い方をした。正月の準備には多少なりとも金がかかる。その上年末には借金取りがやって来て、貸し借りの精算を迫る。
国民皆保険制度のなかった時代には、病・医院にかかるのに診療代を後払いしてもらっていた人も多かったという。農村は米の収穫を済ませ、出荷してやっと収入になる。1年の間ほとんど現金収入がなく、年末も迫る時期になってやっと手にした金で、借金を返す。今では認められていない医療機関のツケ払いも、昔は地元に密着した医者が信用貸しの代わりに患者を診て、診療代は後で請求したのだという。
制度が整った現代、そのような赤ひげ医者などいなくても誰でも最低限の医療は受けられるかというと、実はそうでもない。むしろ制度にがんじがらめにされることで、赤ひげ的な医者は存在しづらくなっている。
次の記事の悲劇は氷山の一角だと思える。
http://www.asyura2.com/0510/social2/msg/432.html
数年前に来院したある患者のケース。
30代後半の女性が今にも倒れそうにふらふらになってやってきた。彼女はこう言った。
「検査はしないで下さい。治療費が払えないので元気になれるよう注射だけして下さい」
見た目に黄疸もあり、このまま帰せる状態ではない。
「診療代のことは心配しなくていいから検査はさせて。それよりも生活保護を受けたらどうね」
彼女は中学生の娘と二人暮しで、夜働きながら生活費を稼いでいた。
「生活保護には入れないんです。学資保険を解約して使ってしまわないとダメだと言われました。私が先に死んだら身寄りのない娘は一人になります。少しでも子どものために残しておきたいんです」と。
このままでは彼女の命はそう長くない。そう判断して説得し、結果保護費の給付が受けられるようになって入院・治療出来ることとなった。あれからしばらくして彼女は元気になったというが、今どこでどうしていることか。
保健所で働いていた私より年長の友人が言った。
「医療を提供する以前の問題が山ほどある。糖尿病の持病のある人の家を訪問したら、半開きのドアをかたくなに押さえて中に入れようとしないのよ。何故だと思う?貧しいから家を見せたくないんだって。治療が必要と言っても、その人は今をただ生きることが精一杯で、治療できずに死んだとしてもそれは仕方のないことだって言うの。医療を語る前に福祉の問題が立ちはだかっているんだよ」
彼女はそういって大学に入りなおし、福祉を学ぶことにしたという。卒業したら是非現場で生かして欲しいと思っている。
医療を語るとき、高度先端医療の現場では「より良い医療を、患者が納得する形で」と息巻いているが、高度医療を受けられる人への医療費の配分が、最低限の医療を受けられたら死なずに済んだであろう人の医療費の何人分にもなる事を考えると、医療の進歩を単純に喜べない自分がいるのである。
自治体の国民健康保険財政は高額医療を受ける少数の人のために益々ひっ迫するというやりきれない事情も抱える。
国の医療・福祉政策は自治体に責任と財政負担を押し付けて、財政赤字の改善とする。一方で混合診療や未承認の海外の治療薬を自己負担が増えても要望する声は大きくなってきている。
富める者の声はより一層大きく響き社会を動かすが、貧しい者の声は届かずかき消される。いやそういう境遇にある人は声を出す元気もないのだ。
格差社会を支持するかのような現代の風潮に、本来小さな地域社会に根付いていた助け合いの互助精神は、より良い社会をめざす目的であるはずの制度によって押し潰されようとしている。
感情論で言っているのではない。これが日本の現実なのだ・・・と。
投稿者:nanaya at 12:25