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(回答先: 「絶対基準」と「主観」――“考察者K”氏の投稿「人は見たいと思うものだけを真実と考える」を手がかりとして 投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 10 月 12 日 11:02:17)
天蓬元帥さん、はじめまして、こんにちは。
考察者K氏の投稿に関する論考を拝読し、その労を厭わない姿勢に心から敬服しています。
>“人は見たいと思うものだけを真実と考える”
考察者K氏の斯かる認識もしくは定立がどんな経緯で形成されたのか知る由もありませんが、これに敢えて現象学的な解釈を附するならば[noema](思惟されたもの=思惟の対象)と[noesis](思惟すること=思惟の主体乃至は思惟の作用)の関係性を表象するア・ポステリオーリに齎される諸相の一つを提示したものと謂えるかも知れません。
これまでにも考察者Kさんはこうしたご自身の認識の状態を時折、しかも唐突に提示されることがありました。おそらくその時々の“考察”の成果或るいは経過報告ではないかと受けとめてきましたが、それにしても視点がぼやけているものや観点の定まらないものが多く、詰まるところはご自身の反芻したものの吐瀉物ではないかとの結論に達した次第です。斯く言う私も膨大な量の反芻物を抱えております。その大部分を50冊程度の大学ノートに、最近ではCDに吐瀉してきましたが、そうした中途半端なものを拙速に加工を施して公にすることは私にはどうしても憚れるのです。勿論、個人のブログならばその限りではないでしょう。
>氏は次から次へと「真実」を量産する。もちろん慎重に限界付けられた「真実」なのだが、そのたわ言の山は、真摯に歩を進めんとする人々の苛立ちを招いてしまう。だが、氏を突き動かしているかに見えるある種の創造性は、より洗練された技術によってコマーシャリズムの領域に君臨しているものだとも言える。その意味で現代的と言うべきなのだろう。氏と同時代を生きる我々もまた、そうした創造性に毒されていないとは言えない。
一方で、現代のコマーシャリズムが称揚する捏造された創造性に毒されながらも、考察者K氏が氏なりにそこから抜け出そうと苦闘していることもあり得ないことではないでしょう。多分その辺は氏を批判している面々も“感じてはいる”と想っています。しかしながら、相変わらず氏の論考に進化が見られないことに苛立ちを覚えて、それが投稿姿勢にたいする批判にまで転化してしまっているのだと推察しています。その点は私も同罪の謗りを免れ得ません。
>結局、氏は反面教師である。氏の様になってはいけないと我々に気付かせるため氏は登場したとも言える。我々を監視し、うるさく付き纏う検閲官として。「絶対基準」を摘発する正義の味方として。そうした氏の努力に助けられつつ我々は探求し続けようではないか。「絶対基準」を。
考察者K氏が反面教師であるのは確かですが、氏の論考や氏という存在それ自体が我々にとって「絶対基準」を究明していくためのParameterになるかどうか甚だ疑問であると考えています。尤も、考察者Kさんご自身はそんなことは殆ど意識されてはいないのではないでしょうか。誰かがどこかで考察者K氏のことを“脳内引きこもり”と評していたのは言い当てて妙なのですが、仮にこれからも我々が考察者K氏を反面教師と見做すことが可能だとして、学ぶべき契機は案外そんなところに潜んでいるのではないかと推測しています。
また、会いましょう。