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(回答先: 民族 投稿者 ワヤクチャ 日時 2006 年 9 月 03 日 20:48:20)
上記レスの抜粋です。
民族とは人工物であり共同主観であり闘争によって強固に意識されたものであるという見解が妥当なのではないでしょうか?
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政治学者でアジア研究者のベネディクト・アンダーソンの有名な「想像された共同体」(imagined community)を借りることで、この問題に前進をもたらすことができる。「nation とはイメージとして心に描かれた・想像された政治共同体である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される」。アンダースンによれば nation は一種の人工物(artifact)であり、一個の「想像された政治的な共同体(imagined political community)」である。しかし、このことは、nation が「虚偽の(fabricated)」存在であることを意味しない。採用すべき戦略は、想像の様式(style)、及びこの想像を可能にした制度(institutions)を用いて、この二つの点での nation の特殊性を理解することなのである。後者についてアンダーソンが挙げている例は「印刷-資本主義(print-capitalism)であり、またそれによって出現した、nation を一個の社会学的な共同体へと変えた新しい文学のジャンルであるところの、新聞と小説である。(Anderson 1991)
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まさしくこうした意味において、アーネスト・ゲルナーは一方では、まず闘争がはじめにあって、そのあとに、 nation がやって来ることができるということを主張し、他方ではまた、ひとつの nation はかならず、互いにひとつの nation に属しているとみなしている人々からなる必要があることを強調する。(Gellner 1983, 48-9)。
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実際、こうした現代の研究者が nation の主観的な構築性を指摘するはるか以前に、こうした観点はいまでは古典となっている社会科学の著作のなかにはやくから現れていた。社会学の巨匠マックス・ウェーバーは民族体(nationhood)の間主観的側面を強調し、グループのいわゆる客観的特質は、 nation を定義するのには役に立たたず、そのため、 nation という概念が、「価値的領域(sphere of values)」に属していることを発見するに至った。 nation という概念は、主として、本質的に、「ほかのグループを前にしてもつ一種特別の連帯感情」の上に作り上げられている。(Weber 1958, 172)。
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主観的な意識による定義
nation の本質は主観的な意識(subjective consciousness)なのであって、それが政治的、文化的、生物学的なものであるかどうかにかかわらず、客観的に共有される特質にはよらないとする議論もある。
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民族
http://www.asyura2.com/0601/dispute24/msg/295.html
投稿者 ワヤクチャ 日時 2006 年 9 月 03 日 20:48:20: YdRawkln5F9XQ
(回答先: Re: 民族は人工的なもの 投稿者 ぷち熟女 日時 2006 年 9 月 01 日 00:22:31)
民族
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%97%8F
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
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国民主義・民族主義
こうして元来「生まれを共にする集団」というようなゆるい意味での言葉が次第に特殊化していき
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「生まれと歴史を共にすると想定されたものたちによる独立への主張」
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スターリンによる、1913年の論文『マルクス主義と民族問題』(МАРКСИЗМ И НАЦИОНАЛЬНЫЙ ВОПРОС Marksizm i natsionalnyi vopros)での定義は以下のようなものである。
「Нация(ナーツィヤ)とは、言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態、の共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された、人間の堅固な共同体である。……これらすべての特徴が存在するばあいに、Нацияがあたえられるのである」
しかし、研究者の中にはこれらの客観的特質が nation の定義の十分条件をなすことを、はなはだしい場合には必要条件をなすことすら否定するものもいる。(Canovan 1996; Gellner 1983; Hobsbawm 1992; Renan 1994)
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ホブズボームの説得力のある指摘によれば、もしも、nation に一個の定義を下さなければならないならばいわゆる客観的な条件はすべて適切な基準ではない。言語を例に挙げて、ホブズボームは資料に訴えている。イタリアが1860年に統一されたとき、イタリア語を話せたのは全体の2.5%にすぎなかった。ほかにも、1789年のフランス革命の勃発時、約50%のフランス人しかフランス語を話せなかった。いいかえるならば、いわゆる民族言語というものは、主としてナショナリズムの実践の結果なのであって、ネーションやナショナリズムの原因とみなすことはできないのである。そのうえ、こうした nation を定義するのに用いられてきた「客観的」基準、言語、エトニ、その他のものも、それ自身が変化しうるものであり、明確な定義も欠いている。
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われわれはゲルナーにこうした観察に関連した論点を見ることができる。
人間を分類する自然で神与の仕方としての nation 、ずっと遅れてやってきたが生得の政治的運命としての nation 、それは神話である。ナショナリズムは、時に先在している古い文化を取り上げて、それらを nation に変えて行くこともあるし、時にそれらを作り上げることもあるし、しばしば先在文化を完全に破壊することもある。よかれあしかれ、それが現実なのであり、一般的に不可避の現実なのである。(『民族とナショナリズム』ゲルナー 加藤節 監訳 p82-83 原著1983 原文はnation は民族)
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主観的な意識による定義
nation の本質は主観的な意識(subjective consciousness)なのであって、それが政治的、文化的、生物学的なものであるかどうかにかかわらず、客観的に共有される特質にはよらないとする議論もある。
ヒュー・シートン=ワトソンはつぎのように主張する。
「ひとつのグループが相当部分を占め、みずからを一個の nation をなすべきと考えるようになったとき(consider themselves to form a nation)、あるいはかれらがすでに一個の nation をなしているかのように振舞うようになったとき(behave as if they formed one)、たちまちひとつの nation が存在するようになる」(Seton-Watson 1977, 5)。
エリック・ホブズボームも同様の立場をとり、 nation を定義していう。「最初の作業仮説として、人々の十分に大きな集団があって、その成員が自らを「ネイション」の一員とみなしているのであれば」(regard themselves as members of a “nation”)、それをネイションとして取り扱うことにしよう」(ホブズボーム『ナショナリズムの歴史と現在』 邦訳 p10)
まさしくこうした意味において、アーネスト・ゲルナーは一方では、まず闘争がはじめにあって、そのあとに、 nation がやって来ることができるということを主張し、他方ではまた、ひとつの nation はかならず、互いにひとつの nation に属しているとみなしている人々からなる必要があることを強調する。(Gellner 1983, 48-9)。
nation とは人間の信念と忠誠心と連帯感とによって作り出された人工物なのである。(例えば、ある領域の住人であるとか、ある言語を話す人々であるとかいった)単なる範疇に分けられた人々は、もし彼らが、共有するメンバーシップの故に、互いにある相互的な権利と義務とを持っていると固く認識するならば、その時、nation となる。ある範疇の人々をnation へと変えていくのは、お互いがそのような仲間であるという認知であって、何であれ、彼らをメンバー以外の人々から区別するような他の共通する属性ではないのである。
(『民族とナショナリズム』ゲルナー 加藤節 監訳 p12 原著1983 原文はnation は民族)
実際、こうした現代の研究者が nation の主観的な構築性を指摘するはるか以前に、こうした観点はいまでは古典となっている社会科学の著作のなかにはやくから現れていた。社会学の巨匠マックス・ウェーバーは民族体(nationhood)の間主観的側面を強調し、グループのいわゆる客観的特質は、 nation を定義するのには役に立たたず、そのため、 nation という概念が、「価値的領域(sphere of values)」に属していることを発見するに至った。 nation という概念は、主として、本質的に、「ほかのグループを前にしてもつ一種特別の連帯感情」の上に作り上げられている。(Weber 1958, 172)。
ルナンもまた1882年にはやくも指摘している。彼によれば、こうした条件、たとえば、共同の地理や地域、言語、種族あるいは宗教、そうした条件を持っているということは、少しも nation の存在の十分、あるいは必要条件とみなすことはできない。それに反して、 nation は互いに関連した二つの要素をもっている。ひとつは、過去の記憶の豊かな遺産の共有(a common possession of a rich heritage of memories in the past)であり、もうひとつは、ともに暮らし、これらの遺産を受け継いでいこうという決意(a desire to live together and pass on the heritage)である。そのため、われわれが nation の本質について認識を深めようと思うのならば、こうした特別な歴史の意識から出てきた連帯感(solidarity)の探求を進めなければならない。そのため、 nation は一種の道徳的形式(a form of morality)として理解されるべきなのである。(Renan 1994)。
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構築主義的な総合的定義
たしかに上述の主観的な要素は nation の形成過程において重要な役割を演じていることは間違いないのだが、しかし、この主観的な意識による定義は、実際に採用するにははっきりと不十分な点が存在する。集合的な連帯感はほかのさまざまな社会的団体、家族や結社、商業組織に存在しうるもので、 nation に限定されるものではない。主観的な意識は最低限の条件なのである。
解決の鍵はこうした主観的な要素が客観的な基礎の上に構築されると認識することである。現実の生活においては、nation のメンバーは、自分が集合的な連帯感によって繋がれて、ひとつの団体をなしているとはみなしていない。反対に、いくつかのそれ以外の要素を列挙する。共通の文化、祖先、歴史、政治制度、あるいは特定の地域への帰属意識などである。こうしたものによって彼らはひとつに結合されているのである。
政治学者でアジア研究者のベネディクト・アンダーソンの有名な「想像された共同体」(imagined community)を借りることで、この問題に前進をもたらすことができる。「nation とはイメージとして心に描かれた・想像された政治共同体である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される」。アンダースンによれば nation は一種の人工物(artifact)であり、一個の「想像された政治的な共同体(imagined political community)」である。しかし、このことは、nation が「虚偽の(fabricated)」存在であることを意味しない。採用すべき戦略は、想像の様式(style)、及びこの想像を可能にした制度(institutions)を用いて、この二つの点での nation の特殊性を理解することなのである。後者についてアンダーソンが挙げている例は「印刷-資本主義(print-capitalism)であり、またそれによって出現した、nation を一個の社会学的な共同体へと変えた新しい文学のジャンルであるところの、新聞と小説である。(Anderson 1991)
実際には、しかし、日々顔を付き合わせる原初的な村落より大きいすべての共同体は(そして本当はおそらく、そうした原初的村落ですら)想像されたものである。共同体は、その真偽(falsity-genuineness)によってではなく、それが想像されるスタイル(the style)によって区別される。(アンダーソン『想像の共同体』原著 1991, 邦訳p17-18 太字は引用者による挿入)
スタイル以外でも、共同体を区別するその他の基準をわれわれは当然見出すことができる。たとえば、その規模の大小や、行政組織の階層化の程度、内部での平等の程度などなどである。nation とナショナリズムを研究するうえで主要な目的は、nation にかかわる「想像された」集合的な連帯感の特殊な形式を見出すことである。クレイグ・カルフーンの提供する以下のリストは、多かれ少なかれひとつの共同体が nation として想像されるための基礎的条件になりうると思われるものをあげている。