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(回答先: 靖国神道は、じつわ道教でしょうね 投稿者 Kotetu 日時 2006 年 8 月 16 日 20:03:11)
異議あり。
道家は基本的に、道家より発展した中国の民間信仰とされる。そして道教で最も尊ばれている人物は大上老君とも呼ばれる老子であり、彼の著書とされる「老子(道徳経)」は道教の重要な経典とされている。そこには、君主のために死んだ者のみを顕彰する靖国神社的思想とは正反対とも言えることが記述されいる。
楠山春樹(早稲田大学名誉教授/中国思想史)「老子入門」(講談社学術文庫より)
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−−−−−−−−−−−−(以下同書抜粋)−−−−−−−−−−−−−−−
P76
夫(そ)れ唯(た)だ兵は不詳の器なり。物、或(つね)に之(これ)を悪(にく)む。故に有道の者は処(お)らず。君子は、居(お)れば則(すなわ)ち左を貴(とうと)び、兵を用うれば則ち右を貴ぶ。
『まことに武器というものは「不詳の器」(不吉の道具)である。だれもがつねに忌み嫌うものである。だから、有道者はそれから遠ざかろうとする。君子は、平生は左側を尚(たっと)ぶが、武器をとるときは右側を尚ぶ』(中略)
兵は不詳の器にて、君子の器に非ず。巳(や)むを得ずして之を用うるときは、恬淡(ていたん)を上と為(な)し、勝ちて美とせざれ。而(しか)るに之を美とする者は、是れ人を殺すことを楽しむなり。夫れ人を殺すことを楽しむ者は、則ち以って志を天下に得べからず。
『武器は不吉の道具であって、君子人の道具ではない。やむを得ずして用いるときは、あっさりとした態度で臨むのがよい。勝利を収めたからとて喜んではならない。もし、喜ぶとすれば、それは人を殺すことを楽しむことである。そもそも人を殺すことを楽しむようでは、志を天下に得ることなどできようはずがない』
吉事には左を尚び、凶事には右を尚ぶ。偏将軍の左に居り、上将軍の右に居るは、喪礼を以って之に処るを言うなり。
人を殺すこと衆(おお)ければ悲哀を以って之に莅(のぞ)み、戦い勝つも喪礼を以って之に処る。
『一般に吉事には左を貴ぶが、凶事には右を貴ぶ。ところが軍隊では、副将軍が左におり、上将軍が右にいる。それは戦争を葬儀と同じく凶事と考えるからである。
多くの人を殺す戦争には悲哀をもってこれに臨み、戦い勝っても葬礼をもってこれに対処するのだ』(中略)
P78
凶器とは、もともとは葬礼に使用する道具のことである。喪葬の事と軍事と、両者を併せて凶事とすることは、必ずしも『老子』のみのことではなく、中国一般の慣習でもあった。しかし、戦争が葬儀と並ぶ凶事であることを、かくも特筆大書した人物が老子だけであることも、また事実であって、非戦論者老子の面目はこの点において躍如としているともいえる。
P79
一九四五年五月七日、ドイツ軍が降伏してヨーロッパでの第二次世界大戦が終了したとき、シュヴァイツアーはアフリカのランバレネ(現ガボン共和国)の病院で相変わらず黒人患者の医療に当たっていた。たまたまラジオで大戦終了のニュースを傍受したヨーロッパ系の患者から聞いて、このことを知った彼は、その日の夜、仏訳の『老子』をひもといて、心静かにこの一章を玩味(がんみ)したという(山室三良氏、中国古典新書『老子』<明徳出版社刊>による)。
黒人の救済に生涯をささげ、のちにノーベル平和賞を受賞したシュヴァイツアーに関する、興味深いエピソードである。