★阿修羅♪ > 議論24 > 120.html
 ★阿修羅♪
Re: 倭の広がり、半島、そして列島
http://www.asyura2.com/0601/dispute24/msg/120.html
投稿者 健奘 日時 2006 年 8 月 02 日 20:25:33: xbDm84QDmOFmc
 

(回答先: 質問です>縄文時代には天皇制はありません 投稿者 秋元健一 日時 2006 年 8 月 01 日 23:36:20)

倭の広がりは、考古学、民俗学に、よれば、8000年〜7000年前に、殷をつくった人々が、四方に広がっていく中で、捉えられるようです。

高床式の住居、鳥居、注連縄、などの、広がり方(物証)と、その後の、中国文献からです。

広がりの中に、半島に出、さらに、列島に出た、人々がいたと考えられています。列島に出た人々は、弥生人となっていきます。

その中で、対馬に出た人々は、後に、商人として活躍するようになったらしいです。この人達が、半島と、列島の間の、交流を支えるわけです。

かくして、列島の人々と、半島の人々は、’鉄’を求めて移動したことが、文献に記されています。紀元前後です。また、’木材’を求めて、移動したことも、想像されています。

列島に出た弥生人たちは、一度に、万を超える数で、押し寄せる事は、不可能で、それ以前の縄文人を制圧する数ではなかったと言われています。大方は、縄文人と棲み分けていったと、考えられています。巨岩、巨木に、注連縄をする風習は、縄文人の考えと、弥生人の考え方が融合した結果との、仮説もあります。

いずれにせよ、倭人は、当時、半島にも、列島にも棲み、半島と列島とで、行き来があったことは、紀元後、200年ごろ、300年ごろからの、言い伝えが語っています。

一方、半島には、北方系が住みついていました。北方系、倭は、共存と戦争を繰り返していきます。

以外にも、後に、列島の倭は、半島の倭の拠点が無くなった後、百済と同盟を結びます。百済は、北方系であることが分かっています。北方系民族が、半島を、そして、列島を制圧するという、単純な図式ではないことは、はっきりしてきたようです。

百済滅亡後、百済からの、言わば難民が、列島に来ます。あちらに、100人、こちらに、200人という規模だったと、伝えられています。(現在の人口密度との比較で言えば、万の数となりますから、大きな数ですが。)

   −−− ところで

ヤマトに、弥生人が多く集まるようになったころ(300年〜400年)、その南の吉野は、依然として、縄文的だったのだろうと、推察されています。

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      HOME > 議論24掲示板


フォローアップ:

このページに返信するときは、このボタンを押してください。投稿フォームが開きます。

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。