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(回答先: 質問です>縄文時代には天皇制はありません 投稿者 秋元健一 日時 2006 年 8 月 01 日 23:36:20)
倭の広がりは、考古学、民俗学に、よれば、8000年〜7000年前に、殷をつくった人々が、四方に広がっていく中で、捉えられるようです。
高床式の住居、鳥居、注連縄、などの、広がり方(物証)と、その後の、中国文献からです。
広がりの中に、半島に出、さらに、列島に出た、人々がいたと考えられています。列島に出た人々は、弥生人となっていきます。
その中で、対馬に出た人々は、後に、商人として活躍するようになったらしいです。この人達が、半島と、列島の間の、交流を支えるわけです。
かくして、列島の人々と、半島の人々は、’鉄’を求めて移動したことが、文献に記されています。紀元前後です。また、’木材’を求めて、移動したことも、想像されています。
列島に出た弥生人たちは、一度に、万を超える数で、押し寄せる事は、不可能で、それ以前の縄文人を制圧する数ではなかったと言われています。大方は、縄文人と棲み分けていったと、考えられています。巨岩、巨木に、注連縄をする風習は、縄文人の考えと、弥生人の考え方が融合した結果との、仮説もあります。
いずれにせよ、倭人は、当時、半島にも、列島にも棲み、半島と列島とで、行き来があったことは、紀元後、200年ごろ、300年ごろからの、言い伝えが語っています。
一方、半島には、北方系が住みついていました。北方系、倭は、共存と戦争を繰り返していきます。
以外にも、後に、列島の倭は、半島の倭の拠点が無くなった後、百済と同盟を結びます。百済は、北方系であることが分かっています。北方系民族が、半島を、そして、列島を制圧するという、単純な図式ではないことは、はっきりしてきたようです。
百済滅亡後、百済からの、言わば難民が、列島に来ます。あちらに、100人、こちらに、200人という規模だったと、伝えられています。(現在の人口密度との比較で言えば、万の数となりますから、大きな数ですが。)
−−− ところで
ヤマトに、弥生人が多く集まるようになったころ(300年〜400年)、その南の吉野は、依然として、縄文的だったのだろうと、推察されています。