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「市民」の少ない日本で社会改革を実現するには政府の広報戦略を学ぶことも必要
http://www.asyura2.com/0601/dispute23/msg/405.html
投稿者 heart 日時 2006 年 6 月 14 日 23:15:33: QS3iy8SiOaheU
 

(回答先: 本質暴露は必要 投稿者 ワヤクチャ 日時 2006 年 6 月 13 日 23:21:35)

ワヤクチャさん、こんにちは。

>本質暴露は必要
>社会構造の本質を暴露する活動が一番必要です。

必要だとは思いますが、一番必要かどうかはよくわかりません。
例えば共産党はある程度社会構造の本質を暴露していると思いますが、限られた数の人からしか支持を得られていません。

>運動というのはそのような本質暴露の情報に触発されて構築されるものです。

それはそうかもしれません。
運動の担い手は、後で述べる、「市民」に当たる人たちだと思います。
「市民」は社会についての意識が高いですから、ワヤクチャさんのおっしゃる面はあると思います。

>富裕層に反発されないような無難な表現を用いてどれだけの人が関心を寄せるでしょうか?

残念ながら、無難な表現でないと賛同しない人が多数派ではないかと思います。

>曖昧な論理では支配者側も利用します。
>支配者が絶対に利用できないような論理を構築する事。
>これが革命の出発点です。

支配者に利用されてはならないことはもちろんのことですが、
支配者も従わざるを得ないような言葉と論理を構築する必要があると思います。
民主主義政治が続く限り、少なくとも「表」の政府は、国民の多数意見に沿った政治をしないといけません。マスゴミ報道によってどうにでもなる面はありますが、マスゴミをも味方につけられるような、少なくとも、マスコミが、国民側の立場に立った論評をしやすくなるような言葉を使う必要があります。
その際、あまりに過激すぎる表現では、国民が拒否反応を示します。
運動の成否は、多数派になれるかどうかにかかっているといっていいと思います。
温和で平和的な言葉を用いる必要があると思います。

>誰から税を取るか?
>これが根本的な問題です。
>確かに財産の没収と言うと金持ちでなくても反発する人がいるでしょう。
>しかし累進的課税の実態は没収です。
>ここまで所有の格差が広がってしまればほとんど没収に近いニュアンスでなければ問題は解決しないでしょう。

実態は確かに没収です。
しかし、没収という言葉は穏やかではありません。
下手をすると、没収される側だけでなく、没収する側からも、没収される側への同情の声などが出てしまうと思います。

それでは「革命」は成功しません(たぶん革命という言葉もあまり使わない方がいいのでしょう)。

例えば、「黒字企業は法人税で応分の負担をして社会に対する責任(CSR=Corporate Social Responsibility)を果たせ」
とかいう表現の方が、正面切って反対しにくいと思います。この表現なら、多くの国民もそのとおりだ、と思うでしょう。
CSRということは既にだいぶと言われてきていますが、環境に配慮していますとかいう美辞麗句を並べたてているだけの企業が多いのではないかと思います。
なので、
「法人税を上げることがCSRにつながる、それに反対する会社は社会的責任を果たしているとは言いがたい」
と言って非難するのもありかと思います。

同じ非難をするのでも、言い方をやわらかくすれば、共感を持つ人が増えるのではないかと思うのです。

>ビル・ゲイツや孫正義に対してどれだけ課税できるのか?が問われているのです。
>又、そのような事をハッキリと語った方が運動の起爆剤になります。

運動の起爆剤には確かになると思います。
しかし、過激と取られかねない運動がこれまで成功してきたでしょうか。
特にこの日本では、過激な運動は成功しないと思います。

具体的な政治要求の面だけでなく、標語的なことでも、言葉の工夫が必要だと思います。
「利己より利他の精神を」とか、「競争一辺倒から共生型の社会へ」とか。


運動を成功させるためには、共鳴してくれる人が多く出てこなければなりません。
しかし、社会をよくしたい、そのために積極的に何かしたい、と思っている人というのは、ひょっとするとあまり多くないのかもしれません。

七月号の「世界」(岩波書店)の「『言葉のチカラ』と新聞、そしてテレビ」(佐柄木俊郎)に、10年ほど前にNHKが行った世論調査を分析する論文(『放送研究と調査』97年12月号所収、牧田徹雄「市民的意識と情報発信行動」)について少し書かれているのですが、
それによると、
「あなたの生き方は強いてあげれば次のどれに近いか」という設問(調査対象は全国の16歳以上の3600人)で、

@周囲の人たちとなごやかな生活を送り、世間に迷惑をかけないことや義理人情を大切にすることを心がけている。
A社会はこうあるべきだという自分なりの考えをもち、みんなと話し合いながら、世の中をよくするように心がけている。
B自分の生活や楽しみを充実させることを第一に考え、ほかの人の生活や考え方に深く立ち入らないように心がけている。

の三択から選ばせ、
@を「庶民的意識」、Aを「市民的意識」、Bを「私民的意識」と想定して分布状況を調べたところ、
@の「庶民」が最も多く56%、Aの「市民」が13%、Bの「私民」は28%
という結果だったそうです。

著者のこの三つの分類についての説明を抜粋すると、
-----------------------------------
「庶民」はいうなれば、伝統的な共同体志向の人々であろう。
分布状況では農林漁業、自営業、家庭婦人といった伝統的職業層と高年層に多かった。
これに対し、「市民」と「私民」は自立した「個」への志向という共通点を持つが、社会へのかかわり方という点で反対の立場に立つ。
分析では「私民」は若年層で、「市民」は知的職業層で多いという大雑把な傾向が読み取れるとしていた。
-----------------------------------

私なりにこの三つの分類を考えると、

「庶民」は、社会の絆を大事にする面がありますから、共生の概念やコミュニティ作りに比較的共鳴しやすい人たちである反面、世間に迷惑をかけまいとする意識から、ともすれば事なかれ主義(http://ameblo.jp/warm-heart/entry-10011674306.html)に陥りやすいと思います。社会をよくする運動についてはナイーブな人たちだと思います。

「私民」は、別に悪い生き方ではないと思いますが、利己的精神に凝り固まって他を利するということを考えない、社会がどうなろうと私は私、みたいな感じで、悪くすると社会貢献せずに社会に弊害を与えるタイプ(言ってみればホリエモンタイプ)になってしまう可能性があると思います。

「市民」は、自立の精神と協調性を持って、社会に働きかけていこうとしているタイプだと思います。ある意味「庶民」と「私民」のいい面を足し合わせたタイプかもしれません。(「市民」を持ち上げすぎ?)

私自身は、「私民」の面ももつ「市民」、という感じです。
目指す社会は、@の「周囲の人たちとなごやかな生活を送り」「義理人情を大切にする」、と、Bの「自分の生活や楽しみを充実させ」、「ほかの人の生活や考え方に深く立ち入らない」をごっちゃにしたような社会ですが・・・。

阿修羅に集まっている方の多くも、「市民」の部分を多分に持っていらっしゃると思います。

私たちは、社会をよくしたいと思っています。
そのために、運動が必要だという立場だと思います。
運動に積極的に関わろうと思ったり、賛同の立場を取る人というのは、多くは「市民」の部類に入る人たちだと思います。
しかし、その市民の部類に入る人というのは、残念ながら少数なのだと思います。

この調査が行われた90年代後半、市民的意識を持っていると「判定」された人は13%でした。
この時期は、著者によると市民運動の高揚期だったそうです(私は意識が低かったため知りませんでした)が、その当時でさえ、市民意識を持っていた人というのはたったの13%だったわけです。たぶん今はもっと低くなっていると思います。

しかも、市民意識の高い人でも、この阿修羅で多数を占めているような意見の人ばかりではありません。
竹中路線を、心底いいことだと信じている「市民的意識を持った人」だって、いるわけです。

また、たぶん、「庶民」と「私民」も、分布が逆転するか、拮抗するくらいのところまでいくのではないかと思います。
比較的若い世代の実感として、周りにいる同世代の人間は、「私民」的な人が多いです。
利己心に凝り固まっているか、というと、そうでもないと思いますが、社会についてはあきらめている人が多いような気がします。まだ若いのに達観しちゃっている、というか(苦笑) もしくは、社会をよくしようという気があっても、私から見れば間違った方向の社会をよしとしています


要は、私たちのような、運動をしようという立場の人は少数派だということです。

しかし、運動自体に携わる人が少なくても、運動の持つメッセージに共感する人が多数派になれば、社会を変えることは可能です。
民主主義政治が続く限り、「庶民」、「私民」、「市民」のいずれであれ、選挙で政治家を選び、政治を変えることができる立場にあります。
ですから、私たちが思い描いているような社会の実現を目指している人に多く票が集まるようにすれば、そして政治家が公約をきちんと守ってくれれば、投票者の政治意識が高かろうが低かろうが、社会を変えることができます。ある意味当たり前の話ですが。

ということは、政治意識が低い人、つまり、「庶民」や「私民」にも共感を持って受け入れられるような言葉でもって政治や社会のあり方を語ることができるかどうかが、運動の成否、社会改革の成否を左右する、ということになると思います。


例えば、共産党はなぜ票が伸びないのか。
過激さを嫌う「庶民」、「私民」が多いからではないかと思います。
共産党=あまり近寄らない方がいい党、というようなイメージを植え付けられてきているから、という面もあるでしょう。

社民党はあまり過激なイメージはないかと思いますが、低迷しています。
理念的なことを語らせると結構魅力的だと思う人は多いのではないかと勝手に思っていますが、票が伸びません。
これは、社会民主主義という「もう一つの社会」というものの打ち出し方が弱いからだと思います(メディアが取り上げないという問題もあるでしょうが)。


長々と書いてきましたが、言いたかったのは、
過激ととられないような表現を使わないと、権力者や富裕層だけでなく、本来味方になってくれるべき一般の国民からも支持が得られず、運動がうまくいかず、社会を変えることもできないのではないか、ということです。
運動を成功させるためには、温和な雰囲気と言葉というイメージ戦略が必要なのではないかと思うのです。
ロクなことをしない現政府ではありますが、彼らの言葉の戦略には見習うべきところがあるのではないかと思うわけです。

≪おまけ≫

阿修羅も、至極まともな議論が多いのにもかかわらず、過激、というイメージから敬遠する人もいるようです。
阿修羅の投稿者でさえ、過激イメージを嫌う人がいます(現在形にしときます)。
過激なことを言うから阿修羅がアクセス制限されるのだと・・・今から思えばある意味正論です。過激性をなくしてもっと読者を広げ、その中で運動を行っていけば、成功しやすいのかもしれません。
しかし、阿修羅はあくまでも真実を追求するサイトですから、過激(少なくとも大本営マスゴミ報道になれている人から見ると)になりがちだと思います。
過激さを抑えようとすれば、真実の追求が妨げられてしまい、阿修羅の存在意義が揺らぐことになってしまうと思います。
なので、阿修羅は今後も運動面においては密かな基点、といった面を有するにとどまることになるのかもしれません。
知識を得、真実を見抜く目を養い、議論をし、時にはどのような運動をするかについても意見交換する場。それだけでも十分社会に貢献するサイトだと思います。

ネットを使う運動としては、例えば、「庶民」と「私民」向けの穏健なブログを作ってそこで運動を展開し、共感する層を広げていく、というのも一つの手かもしれません。
まあ、ワヤクチャさんのブログ「小泉政治はもう沢山」(http://ameblo.jp/wayakucha/)が、9.11自作自演説やオプスデイといった、ある意味過激なことを多く扱っているにもかかわらず人気ブログであるというのは、「過激」でも浸透できる、ということの表れかもしれないので、阿修羅も今後ネットをする人がもっと増えればもっと浸透するかもしれませんが。

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