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(回答先: 縄文ビトさん、こんばんは。 投稿者 haru 日時 2006 年 4 月 01 日 22:05:32)
それまでの自身の経験に基づいた判断基準のみで、物事の常に結果を知ろうとすれば、青い結果に終わる。それではろくすっぽなにもできない。
人は自身の一生で得た経験というものが、「真理がなにかを知る」ことなどよりも大切であり、またそれが真理そのものの中に生きるということなのだ。
つまり知ろうとせずとも普段の変わらぬ生活の中で一所懸命に身に修めばそれが真理となる。無知といわれようと無知ではない。
真理がなにかとささやく者よりも、真理とはなにかと追い求める者よりも、普段の生活の中で一所懸命正しいことを願い、実践するものこそ「知っている」のだ。
人は経済的状況に追い詰められた時こそ、自身で思い切って自分の甘さの一切を突き離してしまえ。それは与えられたすばらしい贈り物だ。
常に自分に向き合う時を作り、やる気を自身の中に張り巡らせる。
自分というものの本当の価値を知るものは、自身の中の善心、そこから生まれた精神性の強さを究極まで突き詰めて信じきること。そうすれば恐れはない。
苦労を越えて手に入れられるものほど輝かしいものはない。
しあわせとはすべてだ。
経済的なものであれそうでないささやかな気持ちであれ。
なんでもかんでも否定する気持ちが不幸を招く。
不平・不満・愚痴、すべては際限のない欲に囚われたものが吐き出す。
自分はそう感じている。
私はつい先日、人の世などもう捨てよう、と思い立った。
それまで培ったものすべてを忘れて、もう自分自身だけの為に夢を見ようと思った。
あさましい群れの姿を見ることに嫌気を差した。しばらく客観的に見るだけの能無しになってみようと人を捨てた。
そう思い立つとすぐに、自分から憑き物が取れたように、すぐ深い安堵の眠りに就いた。
みた夢は変わった面白い夢だったが、ここでは話さない。
明けてその日、今日から自分の為に一日は回転するのだと自分に言い聞かせてみた。
出勤して仕事に就くと、普段と違うことにすぐに気がついた。
自分から違和感が離れない。
一日中ちょっとしたことにイライラしだす自分に救いようの無い苦しさを覚えはじめた。
この苦しさはしばらく体験したことの無かったものだから、戸惑った。イライラしだすと歯止めが利かない。人の喧騒がけたたましく勘に触れ、それまでちょっとしたなんでもなかったことが、実に腹立たしい。
心に余裕が無くなったことに危機感を覚えた。そして妙な焦燥感の沸き起こることにさらに苛立ちを覚えた。
なんと余裕の無いことか、とイライラのおさまりがコントロールできない。苦しさは追い討ちを掛けた。
すぐに自分は音を上げた。
こんなに苦しいものだったのか。普通の人はこれを毎日つづけているのかと。
おかしくもなるはずだ。自分には真似できない。
そして再び気づかされた。
「こんなことなら、やはり他人の為にと、自分の欲なぞ先に捨てたほうが春香に気が楽だ」
そのとおりで、気が楽、気が楽と居れば、余裕が出来る。
余裕が生まれればどんなことにも笑顔で対処でき、
笑顔が出来れば人との争いなど笑って飛ばせる。
子供達の心のために何か出来ることはないかと、思案を廻らせていても、
そこに余裕や笑顔も無ければ、なにをどう助けられようぞ。
世のすべては苦痛の為になど出来ているのではない。
何生み出そうとして、イライラしていては何一つ思い浮かびもしない。
人の為になることを思うのならば、まず自分のためになることをしなければならない。
欲は如何に自身を磨くか、の命題の為に与えられているような物だ。細かく言えば、欲を与えられているのではなく、生きるために必要な欲というものに対して、自身がそれとどう向き合っていくか、その線引きは各々が判断すべきこと。それもおのおのの学びだ。
そう考えればすべてに基準という物など無い。
いや、世に誤った基準はいくらでも在る。それに従う振りをして従わなければそれでいい。社会常識、一般常識というものもまた、「ものさし」である。
自分は人前にどう在るべきかと”客観的に”自分をみつめていれば、そこに真理とやらも目覚めよう。それもまたものさしで測ることなどできぬもの。が、自分を生かす指針となる自分だけのかけがえのない真理である。
今の自分はあれに懲りて、もう人を捨てようなどとは思わなくなった。
あんな苦しみはもうゴメンだ。
そこでまた、いい経験になった、と感謝できる。
どんなことにも無駄はない。無駄にするのもその人次第。
どんなことが身に起きてもそこに学びの感謝を最後に忘れなければ良い結果を生む。
縁や運とはそうした上り下りの中に積み重なって出来ていく。
縁とは物事の出会い。運とは苦労した分蓄積されるポイントのようなものである。
使えばなくなる。なくさず大事にせよ。
そうして遊び心を持って、余裕の中努力を忘れなければ、ツキは廻って必ず得をするだろう。
自身の中にちょっとした遊び心と笑いと笑顔を持てばしあわせは無限に作ることは出来る。
それさえ出来ればストレスを溜めることも知らないまま暮らせる。
できないと日々苦痛だろうからなるべくならやろう、ぐらいが調度いい。
苦労の先にちょっとした知恵が身につけば、欲というものを幾らでもコントロールできるようになる。
反省することはして、不要な苦労はせず、正直であれば気持ちがいい。
何も捨てるものがない状況に陥っても、人を捨ててはならない。
どんな状況下に於いても人は喜びを見出そうとできる。
捨てて拾うものもある。
救いを他に求めるのではなく、救いは自分が生むものだ。
しあわせという言葉は人を思い続ける為にある。人を想うことができる。
それこそがしあわせだ。
経済的に生み出されたしあわせもあろう。それはそれでいい。それをまた喜ばしきことと思えることもしあわせだ。そうでなければしあわせなどという言葉はいらない。
ある家族が裕福でしあわせであるのは、その想いが正しかった為だ。
裕福では在るがしあわせでない家族は救いを見ない。
一度落ちれば真にしあわせというものには行き当たる。
それを信じて進むかそうでないか。
すべてが倒れてはならない。
そうした時に知恵を。正しい知恵は心が生んでくれる。人の為にと。人のしあわせの為にと願い続ければ。経験の無い者は心にすがれ。自身の心を知ろうとせよ。
類を見ないどんな状況下に陥っても、苦しいという想いが何年続こうが、心を捨てるな。そして何かに気づき、手がかり足がかりと邁進すれば、僅かな中にも安らぎは必ず訪れる。
欲捨てて心を捨ててはならない。
人の住む都の木々がまた切り倒されていく音を聞く。
町の樹が一本倒れるほどに、人を繋ぐ心も倒されては居ないか。
人として生活するのならもはや都会を離れて暮らしてみるのもよい。
ほどほどを生きる。その為には多くの経験が要る。
それがすべての信仰のおおもとだ。
欲はすべてを食い尽くす。
浮浪者となった彼らを支援しようという粋なミニコミ冊子を作るグループがあることを最近知ったが、ちょっとした周りの知恵助けひとつで、彼らをひとつの輪とみて、幾らでも生活力を向上させていく手段は幾らでもあるだろう。
大都市にはそうした活動のグループがあることを知ったが、あなたがたの街にはないのか。
現実的な物の見方をすれば資本主義はなくならないし、なくす必要も無い。別にもうひとつの本流をつくればよい。それは共同的な生産社会、またそれに支援する団体、資本もいるだろう。二つの本流が活きて、この危ない奔流を人はなんとか渉っていける。