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縄文ビトさんが自信たっぷりに
『我とは何か、Humeの言っていることは間違っています。
これからなぜ間違いかを説明いらします。母親のお腹の中にいる胎児を考えてください。
その胎児は母親のお腹の中では、まだ何の知識も持ち合わせていませんし、何の認識もしていません。しかしお腹の中で自分なりの活動をします。つまり足を動かし母親の腹を蹴飛ばすという行動をです。それは知識以前の、認識以前の「我」という自我がそこにあるからです、彼はやがてこの社会に出生してきます、そして生きるための行動「我」が行動を起こさせます、母親の乳房から父を吸うこと。それは誰に命令されたのではなく既に知識・認識以前の「我」がそこに芽生えているからに過ぎません。その「我」がやがて母なり父なり、周りにいる人達から知識を受け取り、その知識を基に自分なりの外界に対する認識(個性)をしていくわけです。』
というように述べていらっしゃいます。胎児は最初何も認識していないが認識以前の「我」という行動プログラムで本能的行動をし、やがて「我+知識」となり「個性」が生まれてくる。・・・なんだか分かったような分からないような説明ですね。結局、縄文ビトさんはこうして形成される「個性」が人格であり自己であって魂などどこにも無いと思っておいででしょうか?
こういうものの考え方の方に何かを説明しても無駄な気がしますが、次のことを探して読んでみてください、何かのヒントになると思います。
それは「退行催眠」における過去の記憶です。
精子と卵子が結合したときに魂が生まれるわけではないということや、肉体の非連続性とは異なり魂と呼ばれるものは連続的であることなどが分かります。勿論「退行催眠での記録などは妄想の類だ」と決め付ければそこから何かを学ぶことはできないわけで結局は無駄ですけどね。
縄文ビトさんが自信たっぷりに受精時のことで「魂はどちらだ?」と述べておられますが、こういう姿勢一つで縄文ビトさん自身が自分の限界を曝け出してしまっていることを気がついていらっしゃいますか?受精という瞬間は肉体の形成の出発点に過ぎず魂とは別個の出来事と考える方も少なくないと思いますよ。