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科学が、”個”を扱うとしたら、それを、観察する事から始めます。もちろん、どのような観測方法があり、どのような観察から、個を体系づけるか、という課題は、あります。
一方で、哲学が、”個”、”物”、”我”、”事実”、”因果関係”などなどを、論じる立場があります。
しかも、観察が、いまだに不充分な場合、哲学は、その場合における科学を行うための、方法論を、論じる事ができます。
どちらの立場で議論するか、区分けする努力が必要でしょう。
科学で、”個”を扱うときは、連続性が観察できる事に行きつきます。結果、電子レベルになると、”個”を扱えなくなります。ひとつひとつの電子の挙動を、連続しては、観察できないからです。電子が、いまここにあったとして、次の瞬間、どこにあるかは言えないのです。確率分布的には、言えます。一方、大量(10の20乗個というような数)の電子あるいは光子をのまとまった挙動は、連続の中で、扱えます。結果、ひとつのみかんを、扱う事ができます。
科学で、人の挙動を扱うとすれば、やはり、連続して得られるセンサー値を元に、組み立てます。そして、その人の、過去の観察から、将来の挙動を予測するわけです。
”我”を、科学が扱う場合でも、一人一人から得られる観測値を集大成し、その”我”が、次に、何をどのようにするか(その人が、どう振る舞うか)を、言う事になります。
哲学が、”我”を扱うとすれば、いまだ、科学が語らない −− つまり、予測できない −− ”我”を、語ることになるでしょう。予測できないから、哲学が語る”我”論を、評価する方法、そして、”我”論の評価点も出せないでしょう。人気がある、という評価はできますが。