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投稿者 如往 日時 2006 年 3 月 24 日 08:16:02: yYpAQC0AqSUqI
http://www.asyura2.com/0601/dispute23/msg/150.html 一切衆生悉有仏性
如往さん、お久しぶりです。私がおしまいにします宣言をする前にレスが入っていたのを気が付きませんでした。
宗教的な話、いや哲学から見た宗教的な話と、宗教の中にどっぷりと使っている話とでは大きな相違があると考えています。私のは、どちらかというとクールな考え方、哲学として論じる宗教論であり、それは宇宙の創造を天文学・物理学的に見、生命の発生を生物学的に捉え、単細胞の生命の発生から、細胞分裂を起こし単純な形の生命体からやがて環境に適合する形で進化という手段を獲得し、長年かけて人間まで進化してきた。
最初は人間界においても類人猿となんら変わらない生存の仕方を500万年ぐらいの間してきましたが、早いところでは12,000年ぐらい前から農耕の発生と同時に、文明という名の下に階級性・ならびに階層性(人間を支配する側と、支配される側)という誤った道に踏み込んでしまいました。
そこには最初期はまだ旧石器時代の呪術的(まじない)な宗教によって社会を纏めていたと考えられていますが、やがて一部の人間の自分だけよければというエゴの虜になった者が現れ、現代社会に通じる他者の労働を私有化する不平等社会を現出させたということになります。
このままこの社会が進んで行きますと結果として現れてくるのは最終的には、競争に勝った少数の者がこの地球を完全な形で支配し、多数の人間は競争社会の中で自己の労働も必要とされない失業者、そしてやがてはホームレスという、人間としての生き方を強制的に諦めさせられた人間の集団、このままこの社会が持続していきますと、失うものが無い彼等失業者とホームレスはやがて団結し百姓一揆型の暴動を起こす側に回ります。
そこから支配する側は、彼等を不満分子として烙印を押しそれ等の者を抑える形のより管理化された社会の中で宗教が利用化されてくるであろうと捉えています。つまりこの世が苦しくても、あの世の楽園が待っていると。
現在でも生活苦から自殺する人達は最後に思い描くこと。それはこの世の落伍者である自分と、あの世では何の苦も無く、既に亡くなっている親族・友人・愛する者たちとの再会を夢見ながらある者は生を一瞬で終わらせることが出来る交通手段を麻痺させる形の最後を選んでしまう。
> 先ず、「大般涅槃経」の中心理念に「一切衆生悉有仏性」(一切の衆生はことごとく仏性を有する)があるのは周知の如くでありましょう。さらに、「法華経」は二乗(声聞・縁覚)に関係なく、すなわち皆が一乗として一切の衆生に隔たり無く仏性が内在し、それを顕現化することによって今生で成仏する方法を説いたもので、日本において宗祖となる日蓮はその代表的な実践者(体現者)であったと云うことができるかも知れません。
これはキリスト教においても同じです。「富者が天国に行くよりも、駱駝が針の穴を通るほうがより難しい」最初期のキリストも平等を説いたものでしたが、うまく大衆を平定させるために支配者に利用されてしまった。
ただ私が不思議に思うことは数百年・数千年前の教えをまだ現在の人は冷静に考えれば状況が(文明の進歩)が変化したにもかかわらず、そのままの言葉で大事にしているということです。それは人間が生物として持っていた、進化の言動力になった自己暗示から来るものではないかと考えています。この問題に対しましては紙面の関係から別の文章で書きたいと思います。
>私には創価学会を擁護する考えが全くないことはこれまでの私の論調からも推察していただけると想います。無論、殆んどが剽窃で構成されている名誉会長池田大作の言説については全く評価してはいません。それよりも私は彼やそのブレーンによる錬金術や策謀の数々とそれに踊らされ操作されている膨大な数の人達が存在することを問題視しています。
また一方で、前述しましたように、「法華経」が有するベクトルは其々の時代がもつ制約(限界性)を受けながらも或る種の運動理論(政治論)としては人々の広汎な支持を得る可能性を包蔵していると考えています。しかしながら、創価学会が国立戒壇の建立を究極のゴールとしているのか否か本心を開示していない現状では「立正安国」の世界観は見えて来ませんし、その限りにおいて学会は上層部に位置する者達を利するための錬金装置でしかあり得ません。政教分離云々どころか今までに培ってきた錬金術を阻害するとみれば理念の追求でさえも即座に捨て去ってしまうというのが池田創価学会の本性ではないでしょうか。
これ等は充分に私も感じています。ただ錬金術でもいいです、私が恐れるのには人間には弱さがあるゆえ、民主主義という名の選挙を通し政教一致を企んでいることです。なんとしてでも政教分離を、人間的立場から守らせることだと考えています、これからも根本から宗教を問いかけていくつもりです。
>それから、創価学会の人にあの世のことやそこでの個別的生があるかどうかを尋ねてみても詮無きことのように想います。何故ならそもそも釈尊の教えは頗る現世に限局されたものですし、学会の宗旨にもこの世での成仏が説かれている訳ですから、それを信じている人達に来世を問うてみてもまともな回答が返って来るだろうと期待できるはずがありません。これは自身の学生時代のことや青年部の連中がオブザーブしていた座談会で対論したときの落胆にも近い感慨でもあります。
どのような宗教にもあの世が無い宗教はありません。私はあの世があってこそ宗教は成り立つと考えています。ただ宗教の唯一の弱点は根本から宗教を問われることだと考えています。そこからの疑問を投げかけられないために、ただそのように装っているだけです。私が40年以上前に読んだ創価学会の本の中には戸田城西(はっきりとした漢字は忘れましたが)が獄中で木の葉が落ちたのを見て生命という意味を悟ったと書いてありました。そして「科学と宗教」という本の中には「生命は宇宙と共に発生し後でもなければ先でもない」という創価学会の教義の本質が書かれてありました。
もし、如往さんでしたら「悟りとは何な、のか」ということがお解かりでしょうか。
申し訳ありませんが時間をかけて書いたものが埋もれてしまいますので、上に入れさせていただきます。