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(回答先: 難病女児の募金に批判 ネット掲示板(産経)【なぜ個人に対する募金なのか。】 投稿者 あっくん 日時 2006 年 9 月 28 日 19:33:34)
確かに目の前のわが子が、あるいは身近な人が重い心 臓病で移植しか方法が無いと聞かされれば、「お金を都合してアメリカで移植を」と行動に走るのも無理の無い話ではありますが、私は臓器移植そのものに懐疑的、否定的考えを持っていますから臓器移植、とくに心臓の臓器移植はそもそもするべきではないと叫ばずにはいられない。今回のように個人の募金をネットでというのには二重の意味で私は眉をしかめてしまう。
そもそも臓器移植は医療か?という問題が一つある。私は「臓器移植は医療に非ず」という認識だ。そもそも医療とは治癒の手助け、補助のはず。他人の臓器を付け替えるなど邪道も甚だしい。こういうと、「目の前のわが子が移植しか助からない状況にあっても同じことが言えるか?」などという批判が起こることだろう、実際、以前、阿修羅でも同様のことが起こった。少なくとも私自身は我が子に起ころうと誰に起ころうと「移植は邪道、医療に非ず」という考えであることは変わらない。
二重の意味というもう一つについては、特定個人の募金などをネットでなどこれまたすべきではない。 移植の問題とは別に、何らかの募金で救済が必要な場合は財団が募金を集め、緊急度、優先度の高い者からその基金を救済に使用するというのが望ましい。
しかし、またここでも問題がある。お金が必要という意味で言えば、緊急性、優先度が高いと判断する場合、臓器移植には限らないはずだ。1億円あればどれだけの人間が救えるかとう話にもなる。誰かを基金で(募金で)救済するというのであれば、優先度、緊急性が高いのは国内に限っても貧困層、難病の罹患者、その他諸々数え挙げればきりが無い。そして日本に限らなければこの地球上には救済が必要な人たちはこれまた数え切れないほど存在する。たった1万円あれば多くの人の命が救えるという話など誰もが知っているはずなのに、その人たちは野たれ死んでも構わなくて1億以上使って臓器移植をすることのほうが優先度が高いなんてあるはずは無い。親心が我が子を・・という気持ちにさせるのは勿論分かりはするが、世間を巻き込んでとなると話は違う。
よく美談として伝えられる「浜に打ち上げられた鯨を救う話」などでも同じだ。
一頭の鯨を救うためにヘリを出し、船を出し、人を出し、それをまた報道し、結局のところ、鯨救済のコストはどれくらいかかったのかと思えば、緊急性、優先度の判断基準からすればおかしな話だ。救うことが間違いだと言っているのではない。他にも救うわねばならぬことは星の数ほどあるということだ。それらに思いを馳せることこそが何より必要で大切なことなんだろう。美談に酔いしれるのもいいだろうけど、それは結局は自分の為の行動でしかない。そう美談の多くは偽善とさえ言える。
海の向こうのどこかの国では、理由も分からず逃げまどい、挙句の果てに身体ごと吹き飛ばされた子供たちが数多く居る、緊急性、優先度から言えば、そういう国家的規模の暴力にこそ目を向けることが何よりも優先度は高いだろう。そして理由も分からず踏み潰され、吹飛ばされ、家族を失い、家財を失い、希望そのものを失ってしまっている人達こそ救済の緊急性、優先度が高いのではないか。自分の子供だけが助かればよいといえば言いすぎだろうけど、所詮、臓器移植の募金活動などその程度の話だ。