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靖国神社の元宮に招魂された46人中29人は要人暗殺グループのメンバー
http://www.asyura2.com/0601/cult3/msg/319.html
投稿者 たけ(tk) 日時 2006 年 8 月 20 日 06:06:19: SjhUwzSd1dsNg
 

靖国神社に元宮というのがありまして、公式ホームページによるとつぎのように説明されています。
靖国神社自体が「最初の元をなす神社」としていますので、靖国神社の正体を知るためには重要でしょう。
(歴史的に見て元宮を靖国神社の起源とみなせるかどうかには異論があるだろう。しかし、靖国神社側の主観として「最初の元をなす神社」とみなしている、ということが重要)。

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靖国神社の公式ホームページの「元宮」の説明。
http://www.yasukuni.or.jp/annai/keidai/4.html
4.元宮
幕末の戦争の真っ最中に倒れた志士の御霊をなぐさめるため、京都の同志たちが幕府にかくれてひそかに建てた小祠(神さまを祀る小さな社)です。
それから70年後の昭和6年、靖国神社に奉納され、最初の元をなす神社として、「元宮」と呼んでいます。
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「幕末の戦争の真っ最中」というのは文久2年(1862)12月と文久3年(1863)7月のことで、「京都の同志たち」というのは福羽美静を中心とした津和野藩の人間たちです。

福羽美静は維新直後に明治政府の神祇事務局、明治4年宣教次官事務、明治5年3月−5月教部大輔、神祇少副(明治2年7月8日〜明治4年8月5日)、神祇大副(明治4年8月5日〜明治4年8月8日)などを務め、その間は明治政府の神祇行政の実権を握っていたようです。(http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43_1.htm

文久2年(1862)の霊祭では「特別に祭神が明記されてなかった」ということなのですが、「文久2年12月の霊祭の祝詞」には「或ルは三月に吟行(さまよ)ひ、或ルは正月望に契友(此?)の類の忠士輩を、・・」という部分があり、3月は桜田門事件(1860)の、正月は坂下門事件(1862)の月なので、文久2年(1862)の霊祭の時点ですでにそれらの暗殺グループのメンバーの招魂を意図していたことは明らかです。(http://wiki.fdiary.net/moikomi/?%CA%B8%B5%D7%A3%B2%C7%AF%A4%CE%BA%D7%CA%B8

暗殺グループのメンバーの魂を招いて何をしたかったかというと、「文久3年、津和野藩士が執り行った招魂祭の祝詞」によると「天下四方 国辺 山の奥 野の壁の 民草迄も 雄心振起して 夷賊等を討払ふ精神 弥進に進往べく・・守幸へ給へ」と恐み恐みも申(かしこみかしこみもうす)とのことです(http://wiki.fdiary.net/moikomi/?%CA%B8%B5%D7%A3%B3%C7%AF%A4%CE%BA%D7%CA%B8)。

つまりテロリストの魂を招いて、国民全員に攘夷の精神を鼓舞することを目的とする祠が靖国神社の「最初の元をなす神社」だということになるでしょう。

文久3年の霊祭で招魂された人びとにつき、barbaroi というメーリングリストで調べてもらった所によれば、46人中21人は桜田門事件、8人は坂下門事件という要人暗殺グループのメンバーであることが分かりました[barbaroi:4467]。釣洋一『処刑一覧』、明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑』(全4巻)、井出孫六監修/栗原隆一著『斬奸状』(学芸書林、昭和50年11月)、『靖国神社忠魂史』『久坂元瑞の『江月斎日乗』などが原資料ということです。(http://wiki.fdiary.net/moikomi/?%CA%B8%B5%D7%A3%B3%C7%AF%A4%CB%BE%B7%BA%B2%A4%B5%A4%EC%A4%BF%BF%CD%A4%D3%A4%C8

以下にそのリストを挙げておきます。先頭の数字は、[barbaroi:4467]での整理番号です。

【坂下門関係】8人

坂下門事件というのは文久2年(1862)1月の、老中安藤信正暗殺未遂事件。その同じ年の文久2年の12月に第1回目の霊祭がおこなされている。

9)大橋順蔵之命(同)〔儒者。老中安藤信正要撃(坂下門の変)の黒幕として捕らえられ病死。毒殺ともいう。文久2年7月12日〕

38)相田千代之允之命(同)〔不明〕→高畑総次郎胤正

39)朝田儀介之命(水戸藩)〔不明〕→浅田磯助:小田彦三郎朝儀

42)豊原邦之介之命〔不明〕→河本杜太郎惟一

43)細谷忠斎之命〔水戸藩士・平山兵介繁義。文久2年1月15日、坂下門にて闘死〕

44)三島三郎之命〔医者。河野顕三。文久2年1月15日、坂下門にて闘死〕

45)横田藤太郎之命(下野藩)〔坂下門事件後捕らえられ、文久2年6月11日、獄死〕

46)吉野政介之命〔水戸藩士・黒沢五郎。文久2年1月15日、坂下門にて闘死〕

* 坂下門事件の実行メンバーは、高幡総次郎(38:相田千代之允)・小田彦二郎(39:朝田儀介)・川本杜太郎(42:豊原邦之介)・平山兵助(43:細谷忠斎)・河野顕三(44:三島三郎)・黒沢五郎(46:吉野政介)。全員が変名で入っている。

* 実名で入っているのは、9:大橋順蔵と45:横田藤太郎 の二人。直接の実行グループではない。

* 【不明】の2人は上の名簿で欠けている40,41の部分にある。

【桜田門関係】21人

桜田門事件というのは万延元年(1860)3月の、井伊直弼暗殺事件。文久2年(1862)の霊祭の2年前の事件。

10)佐久良静之命(大阪住)〔京都妙法院の侍。桜田門外の高橋多一郎父子をかくまったために捕らえられ、獄内で絶食死。万延元年6月27日〕

11)嶋 男也之命(同)〔高橋多一郎とともに攘夷運動。文久元年11月5日、獄死〕

12)稲田重蔵之命(水戸藩)〔万延元年3月3日、桜田門外で闘死〕

15)大関和七郎之命(同)〔桜田門事件で自訴。文久元年7月26日、斬〕

16)大貫多介之命(同)〔高橋多一郎に従って大阪に先行(桜田門外要撃の別動隊)、捕らえられ、万延元年7月29日、獄死〕

18)金子孫二郎之命(同)〔桜田門要撃計画を指揮。文久元年7月26日、斬〕

19)黒沢忠三郎之命(同)〔桜田門外要撃で負傷して自訴。文久元年7月11日(26日とも)、斬〕

20)鯉淵要人之命(同)〔不和神社祠官。桜田門外要撃で重傷、自決〕

21)佐野竹之介之命(同)〔桜田門外要撃で負傷、自訴。文久元年7月26日、斬〕

22)斎藤監物之命(同)〔静神社祠官。桜田門外で重傷、3月8日没〕

23)杉山弥一郎之命(同)〔桜田門外要撃で負傷して自訴。文久元年7月26日、斬〕

24)関鉄之助之命(同)〔桜田門要撃に参加。文久2年5月11日、斬(元年7月26日とも)〕

25)高橋多一郎之命(同)〔井伊大老襲撃を謀議。万延元年3月23日、幕府の追及が迫り、父子ともに自刃〕

26)高橋庄左衛門之命(同)〔上の多一郎の長男。父とともに自刃〕

27)蓮田市五郎之命(同)〔桜田門外要撃で負傷、自訴。文久元年7月26日、斬〕

28)広田子之次郎之命(同)〔桜田門外要撃で負傷、自決〕

29)森五六郎之命(同)〔桜田門要撃、斬。文久元年7月26日〕

30)森山繁之介之命(同)〔桜田門外要撃で負傷、自訴。文久元年7月26日、斬〕

32)山口辰之介之命(同)〔桜田門外要撃で重傷、自刃〕

33)岡部三十郎之命(同)〔桜田門外要撃に参加。文久元年7月26日、斬〕

36)有村次(治とも)左衛門之命(薩州藩)〔桜田門外要撃で井伊の首級をあげるも、重傷を負い自決〕

【その他】14人

1)佐禰津武之大臣之命(三条贈右大臣)=三条実万(さねつむ)〔三条実美の父親。将軍継承問題では一橋派として、通商条約調印問題では尊皇派として奔走。安政の大獄では幕府の忌憚に触れて隠棲。安政6年10月6日没〕

2)奈里安紀良之命(水府贈大納言)=徳川斉昭〔水戸藩主。攘夷論の扇動につとめたが、井伊大老就任で挫折、勅許を待たずの条約調印に怒り、不時登城して大老を難詰して謹慎処分、さらに水戸への密勅降下で幽閉中没。万延元8月15日〕

3)公知之大命(姉小路贈参議近衛権中将)=姉小路公知〔三条実美とともに少壮公家代表として尊攘を主張、文久3年5月20日、宮中からの退出の途中暗殺さる〕

4)梅田源次郎之命(京住)=梅田雲浜〔朱子学派の儒者。在京志士をリード、井伊大老に憎まれ、安政大獄に際して第一に捕らえられ獄死、安政6年9月14日〕

5)小林民部権大輔之命(鷹司殿諸大夫)=小林筑前守良典〔前関白の鷹司政通を開国から攘夷に転じ、将軍擁立では一橋慶喜を推したために安政大獄に連座。配所に赴く寸前病没。毒をもって刑したとも伝えられる。安政6年11月19日〕

6)成就院感法印信海之命(京都清水寺)〔兄月照の行方を糾問され、拷問死。安政6年3月18日〕

7)頼三樹三郎之命(京浪子)〔頼山陽の第3子。尊皇攘夷を議し、安政の大獄に連座、斬。首切り浅こと7代目山田浅右衛門吉利に斬られたという。安政6年10月7日〕

8)飯泉(いいずみ)喜内之命(江戸住)〔三条家家臣。将軍継承問題では一橋慶喜を興して橋本左内らと画策、幕府失政を批判して奔走。下田のロシア陣営探索の疑いで捕らえられ、安政の大獄へとつながる。死罪、安政6年10月7日〕

13)鵜飼幸吉之命(同)〔次の吉左右衛門の長子。京都留守居役助役。尊攘の議に加わり、獄門。安政6年8月27日〕

14)鵜飼吉左衛門之命(同)〔京都留守居役。京における尊攘運動と宮廷工作にあたり、死罪。安政6年8月27日〕

17)茅根(ちのね)伊予之介之命(同)〔水戸奥右筆。藤田東湖の高弟、斬。安政6年8月27日〕

31)安島(あじま)帯刀之命(同)〔安政5年7月、水戸藩家老。よく斉昭を助ける。安政大獄に連座、8月27日、切腹刑〕

34)橋本左内之命(越前福井藩)〔将軍継承問題では藩主松平慶永が推奨する一橋慶喜周旋運動に奔走。井伊直弼の失脚を図ったが失敗、死罪。安政6年10月7日〕

35)吉田寅次郎之命(長州藩)〔云うまでもなく、吉田松陰、斬。安政6年10月7日(27日とも)〕

37)日下部裕之進信政之命(同)〔京都で勅諚降下を策し、拷問死。万延元年閏3月3日。殉難志士として靖国神社に祀られた者のうち最初に位置する人物〕

【不明】2人

40)内田万介之命(薩摩藩)〔不明〕

41)建忍海豊真楯男大人之命〔不明〕

* 名簿の38から46まではすべて変名であり、40,41以外はすべて坂下門関係の関係者。なので坂下門関係ではないかと思われるが、同定できなかった。

* 坂下門事件では、ほかに児島強介(宇都宮商人)、石黒簡斎(大洲藩)などが獄死していおり、水戸藩士川辺治左衛門が長州藩邸で自刃している。

* 「内田万介之命(薩摩藩)」というのが疑問。坂下門事件で薩摩藩関係のひとは見当たらない。

* 桜田門関係で次の人びとが事後に刑死している。このうち、金子孫冶郎は桜田門関係でリストアップされているにもかかわらず、同行していた薩摩藩士有村雄助が名簿にないので、「内田万介之命(薩摩藩)」というのは有村のことかもしれない。

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http://bakumatu.727.net/shiika/shiika-sakuradamon.htm

有村雄助 ありむら ゆうすけ 薩摩藩士 <品川で襲撃成功の報を受け、薩摩藩挙兵をはかるため、金子と西上するが、藩の追跡を受けて四日市で捕縛。国許に護送される。安政7年3月24日 藩命により薩摩にて切腹 28歳>→(36:有村次左衛門とは別人)、桜田門関係の名簿から抜けている。

金子孫冶郎 かねこ まごじろう 水戸藩士 <品川で襲撃計画を指揮。襲撃成功の報を受け、有村と西上するが途中、薩摩藩により捕縛。伏見奉行所に引き渡され江戸に護送される。文久元年7月26日 江戸にて刑死 58歳>→すでに実名(18:金子孫二郎)で入っている。

関鉄之助 (桜田十八士) 水戸藩士 <事変後、薩摩藩同志との約により西下・入京するが薩摩藩挙兵はなく、薩摩に向うが入国拒否にあう。越後に潜伏中捕縛。文久2年5月11日 江戸にて刑死 39歳>
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* http://asyura2.com/0601/dispute24/msg/188.html では「46人中30人」としましたが、見直して見ると【不明】とすべき人が混じっていたりしたので数字が変わってしまいました。

* この投稿は http://www.asyura.com/0304/bd25/msg/514.html の続きです。

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