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2006-09-08 22:48:04
OhmyNews 、帝国の新聞として成長中! [ジャーナリズム]
紀子さまとお子さま 同室に
秋篠宮妃の紀子さまは、6日東京都内の病院で男のお子さまを出産された。紀子さまとお子さまの経過は順調で、7日朝から同じ部屋で過ごされているという。
NHKによると、紀子さまは、手術から1週間ほどで抜糸の処置を受け、その後数日のうちにお子さまとともに退院される見通し。6日夜は、紀子さまは4階の個室で、お子さまは同じ4階の新生児室で休まれたが、お二人とも経過は順調で、7日朝からは4階の個室でいっしょに過ごされている。宮内庁によると、誕生したお子さまはすこぶる健やかな様子で、元気な泣き声をあげられているという。
http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000000922
紀子さま 静かにお過ごしの様子
秋篠宮妃の紀子さまは6日、東京都内の病院で、皇室にとって41年ぶりとなる男のお子さまを出産された。
NHKによると、紀子さまとお子さまの経過は順調で、7日から同じ部屋で過ごされる見通し。宮内庁によると、誕生したお子さまはすこぶる健やかな様子で、新生児室のベッドで元気な泣き声をあげられているという。また、紀子さまの手術後の経過も順調で、7日からは4階の個室でお子さまとともに過ごされる見込み。ただ、手術のあとということもあり、少なくとも数日間は、秋篠宮さまと2人のお子さまのお見舞いを受ける以外は、静かに過ごされる予定だという。紀子さまは、手術から1週間ほどで抜糸の処置を受け、その後、数日のうちにお子さまとともに退院される見通し。
http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000000904
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攝津正
私も疑問を感じたので、オーマイニュースに以下の文章を投稿してみました。私のは
てなのブログにも掲載しました。
タブーを問う
オーマイニュースの皇室報道の姿勢に対し、例えばそれが全く不必要な敬語表現を用
いていることなどについて、ネット上でも幾らか議論になっているようだが、私も不
満を感じた。それを整理して展開してみたい。
1)現代日本社会のタブー
「自由」で「民主的」と称される(何しろ長い間「自由民主」党が政権党なのだ)こ
の日本社会にも、厳然たるタブーが幾つかある。その代表が、天皇制と「拉致」問題
だ。それをあからさまに、公然と批判する声は多くの場合、封殺される。『政治少年
死す』の発表を契機とした大江健三郎への脅迫や『風流夢譚』事件などから窺えるよ
うに、天皇制を公然と批判する者には有形無形の暴力が振るわれる。
現代の天皇制は、日本国憲法にも明記してある通り、「象徴」天皇制である。「象徴」
天皇とはどういう意味か。天皇は或る種の記号、但し特殊な記号──内容空疎で、政
治的権力は持たないとされているにも関わらず、日本「国民」の統合を意味するされ、
人々の感情=心を支配する装置であるという意味で──である、ということである。
天皇は記号であると言うことには、何ら批評性はない。天皇は記号であると言ったと
ころで、それが機能し続けている現実を変革することにはならないからだ。天皇は敗
戦後、「人間宣言」したが、それは特殊な記号であるという自らの特権性を自己批判
的に放棄したという意味ではない。神が人となって現れるという神話を否定しただけ
で、「日本」や日本「国民」の統一性を意味する特権的な存在であるという位置を棄
ててはいない。
「象徴」天皇は、公的な政治的権力は持たない、とされる。しかし、日本「国民」の
ナショナリティの「象徴」という特権的な位置に留まり続けることを通じて、隠微に、
人々の感情=心=内面を支配する装置であるという性格は変わらない。昭和天皇=裕
仁がA級戦犯の靖国合祀に反発し、合祀以降靖国参拝を取りやめたことに触れ、「そ
れが私の心だ」と語ったとされることが話題になり、政治的論点にもなったが、裕仁
の「それが私の『心』だ」という言葉は、人々の「心」にこそ焦点を合わせ感情的・
情緒的に同一化を促し自発的に国家権力に服従するようにさせるという、天皇制の機
能を言い当てる皮肉な言葉だった。裕仁こそ、戦争責任・戦後責任を取ることから逃
げ続け、帝国主義日本のアジア侵略の最高責任があったにも関わらず、戦争責任の問
題は「文学」の問題だなどと言って開き直り──つまり「心」の問題だというわけだ、
首相小泉が自らの靖国参拝についてそう言って開き直ったように!──、裁かれぬま
ま生を終えた人物である。
日本の憲法は、それを文字通り素直に読むならば、立憲君主制である。「象徴」天皇
という曖昧な記号が、戦争責任を取らぬまま浮遊・君臨し、日本「国民」と称される
人々を感情的・精神的に統合している、と言われる国である。そのような現代日本の
現実を批判的に捉えるとは、天皇制を「解釈」したりいろいろに意味づけたりするこ
とではなく、端的に天皇制の廃止を訴えることであるほかない。王、君主は要らない、
と明確な言葉で主張することが必要だ。日本は後進的なので、秩序を保つためには天
皇制のような制度が必要なのだ、とか、天皇制は日本固有の貴重な「文化」なのだ、
といった意見もあるが、私はそれらの意見を支持しない。天皇という記号を抹消し、
棄て去っても、日本に住まう人々──国籍を持つ狭義の日本「国民」に限らない──
は、日々の暮らしを継続できるし、自己統治的且つ民主的に社会を構築することもで
きるだろう。端的にいえば、多数多様な複数の人々の、相互の平等を基盤とする民主
主義こそ必要なのだ。
ついでに言っておけば、「女系天皇」を容認することがリベラルな姿勢の徴しである
かのような欺瞞は、止めるべきだろう。男系か女系かということではなく、もっと根
本的に、天皇制そのものの是非を問うべきなのだ。喩えていえば、女系天皇を容認す
るのはジェンダー的な観点から素晴らしいなどと語ることは、女性も兵士として対等
に軍隊に参加しているイスラエルは素晴らしい、などと語ることと同様欺瞞的なのだ。
問題は、軍隊や戦争、占領、権力関係といった現実を批判的に変革することにあるの
であって、それは男であれ女であれ、或いは男でも女でもない人であれ、関わりなく
問われることなのである。
「象徴」天皇は、端的に言って、全く不要な存在である。にも関わらず、「象徴」天
皇制という制度が存続しているのは、感情=心=内面をこそ支配するという、ナショ
ナリズムの根本的機能をその記号が担っているからだ。右翼やナショナリスト、ファ
シスト達は、「日本」という意味を「天皇」という記号によって指し示し、そしてそ
れに自らを同一化し、且つ(そのような感情的な倒錯を望まない)他者達にも自らと
同じように振る舞うように──要するに、服従するように──強制する。そのような
強迫的=脅迫的な身振りは、かれらの不安の裏返しの表現である。かれらは自らのア
イデンティティとしての「日本(人)」が批判的・分析的に解体されるのが怖いのだ。
その不安から逃れるために、かれらは「天皇」という記号に帰依する(且つ、かれら
と同じように振る舞うことを望むとは限らない他者達にも、自らと同じように振る舞
う=服従することを時に隠微に、特にあからさまに強制する)。
このような権力構造に加担しているのは、一部のファナティックな(確信犯的な)右
翼やナショナリスト、ファシストだけではない。広汎に存在している中途半端に右寄
りな人々──かれらは感情=心=内面のレベルで情緒的に「象徴」天皇という記号に
安心感を覚え、その記号の存続を意志している──がこの権力構造を支えているのだ。
この頽廃を断ち切るには、端的に天皇制を廃止すべきことを、明確な言葉で訴えてい
くほかないはずだ。吉本隆明のように「大衆の動向」に追随して翼賛化すべきではな
いし、柄谷行人のように大衆から遊離した知識人の特権的な位置に自己満足すべきで
もなく、現存社会に対する公的な批判を、社会的に提起していく必要があるだろう。
言い換えれば、社会総体に内在する論理や知性に訴え掛け続けていくべきだろう。
2)主語の問題、実名原則の問題
オーマイニュースは「市民メディア」を自称している。そして、「市民記者」には実
名で、個人として発言することを要求している。しかし、今回の出産問題を巡る馬鹿
騒ぎに加担した一連の文章において、署名は「OhmyNews」となっており、どの個人が
書いたのか、実名で明らかにされてはいない。
私は批判精神を失う時、そのメディアの生命は涸れると考える。今回皇室報道で、オ
ーマイニュース、それも一般の市民記者ではなくその編集部という公的な機関が、全
く不必要な敬語付きの報道姿勢を示したことは、それ自体として批判されるべきだが、
さらに深刻な問題なのは、この件での責任者が誰なのか──記事を書いた者の実名─
─が明らかにされていないことだ。天皇制を批判する個人が実名でリスクを負うべき
だというなら、心を支配する装置としての天皇制を支持する集団的な同調化に加担し
ている記事を書いた者も、個人として実名で責任を負うべきである。天皇制に反対す
る者が実名で危険に身を晒すべきだというなら、天皇制を事実上支持し容認している
者らも実名で責任を負うべきことは、当然ではないだろうか。
倫理は個人にしかない、とすれば、全ての言説を原則的に個人の実名の署名付きにす
べきである、と私は主張する。そうでなければ、公正とは言えない。現存社会を批判
する者にはリスクがあるが、現存社会を支持する者らにはリスクも責任もないことに
なるからだ。
--
攝津正
linda@kza.biglobe.ne.jp
「地域コミュニティフリースペース芸音ホール」
http://geion.e-city.tv/
「交流イベントスペースあかね」←第1・3・5水曜当番に復帰
http://akane.e-city.tv/
「PAFF・フリーター全般労働組合」
http://a.sanpal.co.jp/paff/
「femmeletsの日記 Queer Linda Diary」
http://d.hatena.ne.jp/femmelets/
「夢目記」
http://www.fastwave.gr.jp/diarysrv/realitas/
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