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343 名前: 牛のように草を貪り、骨は青銅、肋骨は鉄の如く 投稿日: 01/10/12 22:37 ID:s/GMFVEg
無敵艦隊の敗北は、スペインとポルトガルがアジアに有していた植民地の防衛にも
大きな影響を及ぼした
第一に、無敵艦隊のイングランド遠征が、スペインが蓄えていた財源、将来の帝国発展のために
必要とされていた資金を食い潰した
アチェへの攻略作戦とモンバサの要塞建設計画が中止された
公式の理由は、イングランド遠征へ全力を傾けるためとされていたが、実際には、将来を担保にしなければ無敵艦隊を動かすだけの十分な資金が捻出できなかったためだった
第二に、資金と艦隊の損失によりアジアにおけるスペインの作戦が十分に行えなくなったため、
1590年代になってインド洋にオランダ船が、続いてイングランド船が出没するようになったことだった
ポルトガル領インドは新たな脅威に直面することになった
これ以降、ゴアの副王が本国へ送る報告書には、「ヨーロッパから来た敵国」の仕業と脅威が文面を埋めることになるポルトガル領インドは、本質的に領土拡大のための橋頭堡ではなく、交易網の重点であったためとりわけ攻撃の標的となった
ポルトガルの植民地経営の関心は、資源の獲得や生産よりも流通に、支配権の確立ではなく友好的な取引相手の獲得にあった初代総督フランシスコ・デ・アルメイダは、植民地の統治にあたって現地人を徴発したり、土地の諸侯を取り込むような真似をせず、自分の手勢しか用いなかったゴア、マラッカ、ディウ、ホルムズ等の拠点を獲得してからも、ポルトガルの植民地運営の第一目標は依然として航路の確保にあったこの任務は、ポルトガルがやってくるまではそれ程困難ではなかった1502年にヴァスコ・ダ・ガマがインドの藩主カリカットのサムリの艦隊を敗った時、ポルトガル艦隊の18隻は全て小型で、ガマの旗艦でさえ16門しか搭載していなかった20年後、ポルトガルは60隻の艦隊と要塞6基を持つようになっていたが、それでも艦砲と要塞砲の
装備する砲の総数は1073門に過ぎなかったしかも、沿岸交易の支配を使命としていたポルトガル艦は排水量に比して軽装備で、搭載する砲も大半が小口径だった
一説によると、3ポンド砲より大型の砲を一切装備していなかったという
その上、これらの砲は常に有効に働いた訳ではなかった
1510年、副王アルフォンソ・デ・アルブケルケの率いる艦隊がスマトラの大型商船とマラッカ海峡で遭遇戦になった時、ポルトガル艦隊は全艦で大型商船を包囲し相手めがけて砲撃を始めた
しかし、スマトラ船は全く動じる気配もなく航行を続けた
そこでポルトガル艦隊は相手のマストに砲弾を撃ち込み、ようやくスマトラ船は帆を降ろしたしかし、スマトラ船は甲板が高く、オランダ艦は接舷斬込をかける訳にもいかなかった
ポルトガル艦の砲撃はスマトラ船に全く損害を与えられなかった
スマトラ船は船体に厚板を4枚重ねていたが、ポルトガル艦はアルブケルケの旗艦(400トン)の
主砲でさえ2枚以上貫通できなかった
結局2昼夜にわたる無益な砲撃を繰り返した挙げ句、アルブケルケは舵を狙うことにした
これでようやくスマトラ船は降伏した
そんだけ
344 名前: 嵐の夜に雷とともに空を飛ぶ狼の群 投稿日: 01/10/13 20:24 ID:cxCmc6i2
このようなやり方が許されたのは、現地の船舶がいずれも火器を装備していなかったからだった
だが、アジアの船が火器を搭載するようになるとポルトガルの航路支配は脅威に晒されるようになった
最初の挑戦者は、紅海からたまに艦隊を派遣してくるエジプトのオスマン帝国だった
1508年、帆船6隻と大型ガレー6隻からなる艦隊が、スエズからチャワルに進み、 そこでグジャラートの艦と合流してポルトガルの戦隊を撃破した
しかし、1509年、ポルトガル海軍はインド近海の戦闘艦艇全て(19隻)を投入し、 停泊していたエジプト艦隊の大半を撃沈した
オスマン帝国は、「ムスリムの商船に危害を加えるポルトガルの海賊」を駆逐しようとしたがほとんどうまくいかなかった
1538年に派遣されたエジプト艦隊は、紅海の入口にあたるアデンを攻略したが、
ディウ沖の海戦で壊滅した
2回目の1552年の艦隊は、ペルシア湾の入口マスカットを攻略したが、
その後ヨーロッパ人の定期的な襲撃に晒され、遂に撤退を余儀なくされた
3回目の1559年のときは、ペルシア湾から出ることもできなかった
遠征艦隊はバハレーン島攻略に失敗し、艦隊の指揮官はポルトガルに莫大な賠償金を払って 祖国への帰還を許して貰わねばならなかった
しかし、この頃になるとヨーロッパ人の侵入者がアジア近海で引き起こした混乱は、
他の手段である程度抑えられるようになっていた
西アジアでは、インド洋に接するイスラム帝国群、サファヴィー朝、オスマン朝、ムガル帝国が安定し、1550年代にはポルトガル領インドに挑戦する力を有する政府が成立していた 東アジアでは、インドネシアのイスラム諸国、特にアチェーが、そう簡単には撃沈されない大型艦を 建造できるようになっていた
紅海では1560年代に激しい遭遇線が頻発し、1570年代になるとポルトガルのガレオンと、トルコ製の砲とトルコ兵で武装したアチェーの船がシンガポール沖で戦闘を繰り広げた
これらの一連の戦闘は大抵ヨーロッパ人が勝利したが、膨大な経費が浪費された
1562年と1565年に撃沈されたアチェーの大型武装商船は、ポルトガルの大型ガレオンを
道連れにしていた
これを教訓に、ポルトガルはムスリムの船がスマトラとエジプトを結んで直接取り引きすることをやむを得ず認めることになった
同時に、カリカットを根拠地として低喫水の小型艦が展開をはじめた
ポルトガル人が「マラバールの海賊」と呼び、ムスリム年代記では「イスラム自由戦士」と呼ばれた小型艦の群は、オールと帆で進み、束になって行動し、地中海のガレーのように中心線に配置した火器を
使って凪で進めずにいる商船を襲撃した
ムガル帝国のスラート港は、17世紀にマラバールの戦隊をポルトガルの襲撃に対する防衛のために雇い入れた
18世紀になっても、この「海賊」はイギリス東インド会社の商船「ダービ」を拿捕してみせることになる
そんだけ
345 名前: 素人同然 投稿日: 01/10/13 23:53 ID:zU5Ai3wc
ポルトガルの世界帝国衰退の原因は手を広げすぎたからだった
特に、1570年以降、モザンビークとセイロンを手に入れようとしたことが大きな原因となった と言われているが、アルメイダやアルブケルケたちの戦略とは一線を画するこうした方針は、
ポルトガルの交易衰退の致命傷になった訳ではなく、むしろ16世紀以前から進行していた貿易独占の喪失に対する一つの反応に過ぎなかった
領土征服戦略に変換した原因はムスリムの復興であって、その逆ではなかった
もっとも、1600年前後にモザンビークとセイロンに夥しい資金が注ぎ込まれたおかげで、 イングランドとオランダがインド洋に進出しやすくなったことは間違いない
ポルトガルはただ、セイロンを征服し、イスラム諸国を抑えつけ、 同時にヨーロッパの敵国を撃退するだけの兵員も艦艇も火器も持っていなかっただけに過ぎなかった
インドのポルトガル商人は、リスボンの政府に征服行を思いとどまるよう何度も訴えた
しかし、宣教師たちは、キリスト教に改宗させ救済すべき魂が異教徒の手にあるという事実に我慢ならなかったのだ
従って、イングランドとオランダがアジアに進出したことは、既に傾きかけていたポルトガルの勢力をほんの一押ししたに過ぎなかった
1590年代、オランダは65隻の船でアジアへの航海を15回行い、イングランドも1回行った しかし、より一層切実になったのは、1602年にオランダ連合東インド会社が設立されてからだった
オランダ連合東インド会社が送り込んだ最初の艦隊は14隻で編成され、うち9隻は400トン以上の
大型艦だった
1603年に送られたステファン・ファン・デル・ハーケン指揮下の第2次艦隊は数こそ10隻と
少なかったが、いずれもヨーロッパの海での戦いを想定して建造された重装艦だった
ファン・デル・ハーケンの旗艦「ドレドレヒト」(900トン)は、24ポンド砲6門、8ないし9ポンド砲18門を搭載していた
この艦隊に与えられた作戦方針は、ポルトガルを倒すためにアジアの同盟者を見つけることと、ポルトガルの交易を出来る限り破壊することだった
1605年に派遣されたコルネリス・マテリーフ指揮下の艦隊に至っては、
ポルトガルの占有地を最優先で破壊せよという至上命令を受けていた
東インド会社の交易に支障が出ることも覚悟の上だった
かくして、東インド会社は1619年までに大量の資金をつぎ込んで13カ所に要塞と商館を建設し、
アジアに246隻の船を送り出した
ポルトガルの交易は見事なまでに壊滅した
1602年から1619年までにリスボンからインドに出帆した船のうち、
無事目的地にたどり着いたのは79隻に過ぎなかった
帰還した船は更に少なかった
大型艦でも大口径砲は僅かしか装備していなかったうえ、砲手の練度も不十分だったからである
そんだけ
346 名前: 狼はモーと鳴く 投稿日: 01/10/14 03:49 ID:xRdOl0U2
もっとも、ポルトガルがオランダの前に為す術もなく崩れ落ちた訳ではなかった
オランダは、1649年代までポルトガルの地上拠点にはほとんど手を出せずにいた
モザンビーク、マラッカ、ゴアへの攻撃(特に、ゴアには9回も封鎖をかけた)は、
いずれも失敗に終わった
1650年代になって、オランダはようやくセイロン沿岸のポルトガルの拠点を幾つか攻略したものの内陸部のキャンディ王国はどうしても征服できなかった
オランダは大兵力を投入してキャンディ王国を攻撃したが、このためにオランダ連合東インド会社の年間赤字は、1660年代の20万フローリンから1673〜1674年には73万1000フローリンに跳ね上がった
1676年、オランダは1659年以来キャンディ王国から奪ってきた占領地を、
講和を条件に全て変換した
更に、オランダ艦が常に無敵だった訳ではなかった
1603〜1610年までにアジアに送り込まれたオランダ艦のうち9隻が戦闘で喪われたイングランドも同様だった
イングランドはポルトガルとスペインの拠点を孤立させることは成功したが、
中立地帯でポルトガルと遭遇戦になっても常に勝てた訳ではなかった
1612年12月23日、トマス・ベスト指揮下の2隻のイングランド艦とポルトガル艦4隻がスラート沖で戦った時、イングランド艦隊は確かに戦術的には勝利した
ベストの回想によると、イングランド艦は敵に向かってまっすぐに舵を取り、
「お互い行ったり来たりして、奴らの土手っ腹にドカンと撃ち込んでやった
みんな一度も砲を撃ったことはなかったが、目の前にいたから外す訳がなかった」
イングランド艦は総計600発以上発射した
対するポルトガル艦は、応射もしないまま退却していった
まるで「女の軍隊だ・・・・この目で見なかったら、奴らの卑怯さ、臆病さ加減が信じられなかっただろう」
ポルトガルの記録によれば、この戦闘は次のように推移した
低喫水のイングランドの小型艦が支障なく航行していたのにつられて、ポルトガルの3隻のガレオンが
浅瀬におびき出された
ガレオンが浅瀬に乗り上げて動けなくなった時を狙って、イングランド艦は接近包囲してきた
のだった
双方の主張の食い違いはともかく、イングランド艦隊の損害は皆無だった
にもかかわらず、イングランドの勝利は決して完璧ではなく、決して決定的でもなかった
イングランド艦隊の砲撃でポルトガルのガレオンは1隻も沈まなかったうえ、
その海域のポルトガル艦を駆逐できたわけでもなかったからだった
ポルトガル艦はその後もこの海域に出没し、イングランドがしくじるのをずっと待っていた
結局、1613年1月になって痺れを切らしたイングランドの船団は積み荷を満載できぬままインドネシアに出帆した
そんだけ
347 名前: 財産を作るためマダガスカルまで行く 投稿日: 01/10/14 09:09 ID:Yfu/qJuD
ポルトガルのインドでおかした間違いは、無敵艦隊がおかした間違いと本質的には同じだった
ガレーに乗っている感覚で、まず予告の一斉射撃をした後、接近して舷側から斬り込もうと
したのだった
しかし、ベストの誇張と偏見に満ちたポルトガル艦への侮蔑を鵜呑みにはできない
ヨーロッパを一歩出れば、予告の一斉射撃(シューティング・オブ・ワン・ピース)だけで非武装商船
の大抵は降伏させることができた
エリザベス女王の私掠船、17世紀にカリブ海を荒らし回ったバッカニアの海賊たちは、 いずれも砲を1〜2門程度しか備えていなかった
彼らの商売にはこれで十分だったのだ
インド洋でも、ヨーロッパの他の国の艦船がその海域にいない限り事情は同じだった
1612年4月7〜22日、インド洋に展開していたイングランド艦6隻がアラビア半島沖に集結し、インドから航行中の15隻のムスリム船を次々にシージャックした
最後に乗っ取ったのは、ムガル帝国の皇太后が所有していた1000トン、全長52メートル、 全幅17メートルの超大型艦「ラミーヒー」だった
「ラミーヒー」は最初は投錨するのを嫌がったが、警告の砲撃3発で降伏した
他の船は1発も砲撃せずに降伏した
イングランド人は、「取れるだけの船を手に入れたからには、これで何をするかは言わずもがな」と拿捕した船を付近の係留地に運び、手当たり次第に略奪した
「ラミーヒー」は、結局4000ポンドで請け戻された
あからさまな海賊行為とも呼べるだろうが、これがイギリス東インド会社の主要な事業の一つだった
しかし、これで話は終わらなかった
「ラミーヒー」の所有者はムガル帝国の皇太后であり、その息子はスラートの宗主だった
間もなく、皇帝は奪われた積み荷が全て変換されるまでイングランドがスラートで交易することを禁じ、東インド会社はすぐに折れた
ところが、1613年、「ラミーヒー」は今度はポルトガル人によってまたシージャックされた 怒り狂った皇帝は、遂にポルトガル領インドに宣戦し、軍を派遣して帝国領内のポルトガルの拠点を攻撃した
紛争は2年間続き、最後にはポルトガルが不正所得を返還して終わった
1636年にも、スラートのイングランド商館がムガル帝国の官憲に押さえられ、商館員が投獄され、拷問すると脅迫された事件が起こった
これは、イングランド船(実は東インド会社のものではなかった)が、アラビア海でスラートの商船を略奪したのが原因だった
補償金が全額返済された後、商館員はようやく解放された
そんだけ
348 名前: 許可証を発行します 投稿日: 01/10/14 22:40 ID:hnX8FzLb
結局、ヨーロッパ諸国が軍事力を常駐させない限り、現地の支配者は認可や投獄という手段によって
ヨーロッパの艦砲に対抗できた
「ラミーヒー」は15門の砲を搭載し、乗員も銃を携帯していたが、それは軽量で貫通力の低い
後装砲だった
インドには30〜40門を装備した大型艦もあるにはあったが、それらの武装は
戦闘を目的に搭載されたものではなく、主に偉容を見せつけるためのデコレーションだった
インド西部の船は厚板を固定するためにロープと木釘を使うため、砲弾の直撃に耐え、あるいは搭載した大口径砲の発射の反動を吸収するだけの強度がなかった
新型艦や新しい武装に資金をつぎ込むより、ヨーロッパ人に保護金を払ったほうが
安上がりで現実的だった
もしアジアの諸侯がヨーロッパ式の艦隊を揃えたとしても、商船と積み荷の被害を防ぐことは出来なかっただろう
そんだけ
出展:2ちゃんねる戦争論
http://yasai.2ch.net/army/kako/998/998225170.html
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