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(回答先: 日本人の持つ単純明快な人間主体の宗教観に達するには、西洋人では天才ニーチェですら発狂するほどの努力を必要とした。 投稿者 TORA 日時 2006 年 8 月 21 日 14:38:17)
キリスト教徒は人口は少ないが、ノンポリは少なく、大抵が右派か左派かどちらかに属する。また、右派には著名人が多く、仏教系右派以上に出版・政界に大きな影響力を持っている。
クリスチャンは基本的に天皇制や日の丸を認めない、認めた場合は仏教以上に忠君愛国を示す。キリスト教には基本的に中道・中間がない。白か黒かどっちかである。
現在、日本の右派民族主義にはカトリック、台湾ロビー、統一教会系、幕屋系がある。この内、反ユダヤ色の強い台湾ロビーと親ユダヤ色の強い統一教会系および幕屋系には根深い対立がある。しかし、台湾ロビーは尖閣諸島問題で近いうち日本人右派と台湾人右派に分裂するだろう。大概の問題で一致する日本と台湾の国益だが、尖閣諸島だけは譲れない。ここが導火線となって台湾ロビーは崩壊して出版界に影響力を持つ台湾人と手を切り、日本人の民族主義者だけになる可能性大である。小林よしのり、李登輝、黄文雄らもどちらに就くかが問われるだろうが、民族派の彼らに迷いはなく、就くべきは自国と考えるだろう。
統一教会系は日韓対立が激化すれば、その内に今までみたいに韓国の教団と手を結んで日韓対立を煽るような器用なことは許されなくなり、風向きが変われば最大派閥橋本派のように排除される可能性大である。
保守論壇で一番安定しているのがカトリックであろう。ギャンブルの胴元にカトリックが就いただけでなく、現時点で特に分裂を引き起こす要因が見当たらないからだ。
あと幕屋ペンテコステもつくる会・日本会議に接近しており、ヘマさえしなければ権力に近づけるのではないか。小林よしのりは基本的に白人が信奉する宗教であるキリスト教が嫌いなので、私はその新興宗教の影響が強まっていると感じてつくる会が嫌になったのではないかと分析する。
(参考HP)
カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの虚業日記
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050127
日本のキリスト教
http://www.aseannewsnetwork.de/ja/wikipedia/a/a_/a_a_a_a_ae__7.html
(貼付け開始)
太平洋戦争中、靖国神社参拝が強要された折に、反対をした学生への弾圧を受けて日本のカトリック教会は「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との見解を誤導し、以後戦争に協力した。そして、終戦直後にGHQが靖国神社を破壊しようとした際にカトリックの当時教皇庁駐日代表だったブルーノ・ビッター神父の反対意見によって存続が決定された。この反省から戦後はあらゆる戦争に反対し、またアジアの兄弟との連帯は損なわれてはならないとする立場を取っている。ところが、戦時のカトリック教会としての公式総括は未だなされておらず、タブー扱いで放置されている。
(貼付け終了)
新しいページ 1
http://www.sendai.catholic.jp/history2.htm
(貼付け開始)
1894(明治27)年、日清戦争の勃発はキリスト教と日本の国策の融合を進める一大転機となった。教会は積極的に軍隊慰問などを行い、義戦論を展開した。しかし、この10年間キリスト教は停滞した。社会的には農民の都市への流入が激しく、郡 部の教会は停滞した。社会問題も深刻であった。いずれのキリスト教も社会問題には目覚めなかった。救世軍が波紋を投げかけるぐらいのものであった。プロテスタントには三つの潮流があった。
1.植村正久を中心とする日本基督教会
2.内村鑑三を中心とする聖書中心主義
3.自由神学に基づく海老名弾正を中心とする国家的精神主義
日露戦争とキリスト教
1904(明治37)年 日露戦争が始まった。開戦に反対した内村鑑三や柏木義円は少数派であり、多くの教会指導者は積極的主戦論者であった。社会主義者についての論議が起こっている時代であり、教会は彼らと一線をかくして、労働層への伝道も消極的であった。キリスト教と天皇への忠誠ということが最大の議題であった。1911(明治44)年プロテスタント8教派は、日本基督教会同盟を結成した。
1912(明治45)年、内務省は神道、仏教、キリスト教の代表者を招き、過激な社会主義者を弾圧し、国民道徳の回復と振興のために宗教界の協力を要請した。
カトリック側では1908(明治41)年、イエズス会が来日、カトリック大学の設立に及んだ。また、フランス以外の国々からの宣教師が来日し、多様化した宣教活動を展開する気運に乗った感があった。1904(明治37)年、58,000人の信者数は大正元(1912)年には、67,000人と確実に増加していた。司祭数148、教会160であった。プロテスタントも大正元年には164,000人と増加していた。但し当時、1056もの派に分かれていた。
(中略)
V 昭和時代前期(1925-1945)
1931(昭和6)年、満州事変勃発、翌32(昭和7)、5.15事件と日本は軍国主義へと傾斜していった。思想統制は厳しくなり、殊に新興宗教への激しい弾圧が行われた。キリスト教に関しても外国の宗教ということで常に嫌疑がかけられた。奄美大島ではカトリック排斥が執拗に行われ、軍部主導のカトリック排斥は、昭和10年代に入っても続いた。1032(昭和7)年、上智大学の靖国神社参拝拒否事件が起こり、非難の的にさらされた。ローマ教皇使節と東京大司教は参拝なのか、忠誠を表す行為なのかを問いただし、単なる忠誠を表す行為ということで、神社参拝を許容した。1934(昭和9)年にはバチカン市国は満州国を承認し、日本カトリック教会も日本の政策を理解するように努めた。
1937(昭和12)年、7月7日、蘆溝橋事件で全面日中戦争に突入、政府は宗教界に対し戦争の協力を求めた。ローマ教皇庁は北支事変に対しても理解を示し、日独伊協定ではピオ11世は「防共親日」を声明した。
(中略)
1940(昭和15)年、紀元二千年の式典を終えた翌年1941(昭和16)年、プロテスタント34教派を合併して、新たに「日本基督教団」を設立した。カトリックは「日本天主公教団」として認可した。いずれも宗教団体法によるものであった。
1941(昭和16)年12月、大東亜戦争に突入、日基は国家に忠誠を誓う声明文を提出した。
1944(昭和19)年には「大日本戦時宗教報国家」が設置され、宗教界は軍部の下に入った。カトリックは南方宣撫のために聖職者の派遣が依頼され、それに応じた。
(貼付け終了)
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