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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu124.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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ロスチャイルド財閥の中核企業のシェル石油は日本の
横浜が創業地である。日英同盟の一つの背景ともなった。
2006年7月29日 土曜日
シェル石油の創業者マーカス・サミュエル
◆第4章:イギリスのユダヤ人マーカス・サミュエルの成功物語 ヘブライの館
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe200.html
●イギリスに、下層階級の上くらいに属する生活をしていた、ユダヤ人の一家があった。この一家は、東ヨーロッパのポグロム(ユダヤ人迫害)を逃れて移住してきた。両親は、車に雑貨品を積んで売って歩く、引き売りの街頭商人として暮しを立てていた。
子どもが11人おり、その10番目の息子は、大変頭がよく活力に満ちあふれていた。しかし、学校では成績が非常に悪く、どの学校に行っても、悪い点ばかりとっていた。といって、彼は頭が悪いというわけではなく、学校の授業システムにうまく合わなかったからである。
●この息子が高校を卒業したとき、父親は彼に、極東へ行く船の三等船室の片道切符を一枚、お祝いとして贈った。
そのとき父親は、息子に2つの条件をつけた。1つは、金曜日のサバス(安息日)が始まる前に、必ず母親に手紙を書くことだった。というのは、母親を安心させるためである。2つ目は、父親自身、年をとってきたし、また10人の兄弟姉妹がいるのだから、一家のビジネスに役立つことを、旅行中に考えてほしいということだった。
●この息子は、1871年、18歳でロンドンからひとり船に乗り、インド、シャム、シンガポールを通って、極東に向かった。彼は途中、どこにも降りず、船の終点である横浜まで、まっすぐやってきた。
彼は、懐(ふところ)に入れた5ポンド以外には、何も持っていなかった。5ポンドといえば、およそ今日の5万円かそこらのカネである。日本には、もちろん知人もいないし、住む家もなかった。また、この時代には、日本にいる外国人といっても、おそらく横浜、東京あたりで数百人にすぎなかった。
●彼は湘南の海岸に行き、つぶれそうな無人小屋にもぐり込んで、初めの数日を過ごした。そこで彼が不思議に思ったのは、毎日、日本の漁師たちがやってきて、波打ち際で砂を掘っている姿だった。よく観察していると、彼らは砂の中から貝を集めていた。手に取ってみるとその貝は大変美しかった。
彼は、こうした貝をいろいろに細工したり加工すれば、ボタンやタバコのケースなど、美しい商品ができるのではないかと考えた。
そこで彼は、自分でもせっせと貝を拾い始めた。その貝を加工して父親のもとに送ると、父親は手押し車に乗せて、ロンドンの町を売り歩いた。
当時のロンドンでは、これは大変珍しがられ、飛ぶように売れた。
●やがて父親は手押し車の引き売りをやめて、小さな一軒の商店を開くことができた。この商店が2階建てになり、次には3階建てになり、そして最初はロンドンの下町であるイーストエンドにあった店舗を、ウエストエンドへ移すなど、この貝がらをもとにした商売は、どんどん発展していった。
そのあいだにも日本にいた彼の息子は、かなりのカネをためることができた。
この青年の名前はマーカス・サミュエル、ヘブライ語の名前がモルデカイであった。
●サミュエルは1886年(33歳の時)に、横浜で「マーカス・サミュエル商会」を創業し、日本の雑貨類をイギリスへ輸出した。
輸出だけでなく、日本に工業製品を輸入したり、日本の石炭をマレー半島へ、日本の米をインドへ売るなど、アジアを相手にして、商売を大きく広げていった。
●ところで、この時代、世界中のビジネスマンのあいだで一番話題になっていたのが、石油だった。ちょうど内燃機関が登場し、石油の需要が急増しつつあった。ロックフェラーが石油王となったきっかけも、この時代だったし、ロシアの皇帝もシベリアで石油を探させていた。
貝がらの商売で大成功をおさめたサミュエルも、この石油の採掘に目をつけ、1万ポンドを充てる計画を立てた。彼自身、石油についての知識は何もなかったが、人にいろいろ相談したりして、インドネシアあたりだったら石油が出るのではないかと考え、インドネシアで石油を探させた。
これが、勘がよかったのか、幸運であったのか、とにかくうまく石油を掘り当てることができた。
●当時のインドネシアは、石油を暖房のために使う必要もないし、また暗くなってからも活動するといった生活を送っていたわけではなかったので、石油の売り先はどこか他に求めなければならなかった。
そこで彼は、「ライジング・サン石油株式会社」をつくって、日本に石油を売り込み始めた。このころ日本において、ケロシン油で暖房したり、あるいは照明したりすることは革命的なことだった。
この商売もまた非常に成功した。
●石油をインドネシアから日本までどのように運ぶかということは、頭の痛い問題だった。初めのうちは2ガロン缶で運んでいたが、原油を運ぶと船を汚すために、後で洗うのが大変だった。それに火も出やすいということで、船会社が運ぶのをいやがったし、運賃がべらぼうに高かった。
そこでサミュエルは造船の専門家を招いて、世界で初めてのタンカー船をデザインした。
そして彼は、世界初の「タンカー王」となった。
※ サミュエルの新造タンカー「ミュレックス号」がスエズ運河を通過し、シンガポールに航路をとったのは、1892年8月23日のことであった。(「ミュレックス」は「アッキ貝」である)。
●彼は自分のタンカーの一隻一隻に、日本の海岸で自分が拾った貝の名前をつけた。
彼自身、このことについては、次のように書き残している。
「自分は貧しいユダヤ人少年として、日本の海岸で一人貝を拾っていた過去を、けっして忘れない。あのおかげで、今日億万長者になることができた」
●1894年に「日清戦争」が勃発すると、サミュエルは日本軍に、食糧や、石油や、兵器や、軍需物質を供給して助けた。
そして戦後、日本が清国から台湾を割譲されて、台湾を領有するようになると、日本政府の求めに応じて、台湾の樟脳の開発を引き受けるかたわら、「アヘン公社」の経営に携わった。
日本が領有した台湾には、中国本土と同じように、アヘン中毒者が多かった。日本の総督府はアヘンを吸うことをすぐに禁じても、かえって密売市場が栄えて、治安が乱れると判断して、アヘンを販売する公社をつくって、徐々に中毒患者を減らすという現実的な施策をとった。
サミュエルは、これらの大きな功績によって、明治天皇から「勲一等旭日大綬章」という勲章を授けられている。
●ところで、彼の石油の仕事が成功すればするほど、イギリス人の間から、ユダヤ人が石油業界で君臨していることに対して反発が強まり、ついにこの会社を売らなければならなくなった。というのは、当時イギリスは大海軍を擁していたが、その艦隊に、サミュエルが石油を供給していたからだ。
サミュエルは、会社を売らなければならなくなったとき、いくつかの条件を出した。その一つは少数株主たりといえども、必ず彼の血をひいた者が、役員として会社に入ること。さらに、この会社が続く限り、貝を商標とすることであった。
というのも、彼は常に自分の過去を記念したかったからである。この貝のマークをつけた石油会社こそ、今日、日本の津々浦々でもよく見られる「シェル石油」である。
1897年、サミュエルは「シェル運輸交易会社」を設立し、
本社を横浜の元町に置いた。彼は湘南海岸で自ら「貝(シェル)」
を拾った日々の原点に戻って、「シェル」と称したのだった。
こうして横浜が「シェル石油会社」の発祥の地となった。
1907年、オランダの「ロイヤル・ダッチ石油会社」と
イギリス資本の「シェル石油会社」が合併して、
「ロイヤル・ダッチ・シェル」が誕生した。
(※ このイギリス・オランダの2社の
合併を推進したのはイギリスの
ロスチャイルド財閥だった)
ちなみに、このイギリス=オランダ連合の
「ロイヤル・ダッチ・シェル」の子会社的存在が、
イギリスの「ブリティッシュ・ペトロリアム」
(英国石油:略称BP)である。
●サミュエルは、イギリスに戻ると名士となった。そして1902年に、ロンドン市長になった。ユダヤ人として、5人目のロンドン市長である。
彼は就任式に、日本の林董(はやし ただす)駐英公使を招いて、パレードの馬車に同乗させた。
この年1月に「日英同盟」が結ばれたというものの、外国の外交官をたった一人だけ同乗させたのは、実に異例なことだった。この事実は、彼がいかに親日家だったかを示している。
(ちなみに、2台目の馬車には、サミュエルのファニー夫人と、林公使夫人が乗った)。
●サミュエルは1921年に男爵の爵位を授けられて、貴族に列した。その4年後には、子爵になった。
サミュエルは「どうして、それほどまでに、日本が好きなのか?」という質問に対して、次のように答えている。
「中国人には表裏があるが、日本人は正直だ。日本は安定しているが、中国は腐りきっている。日本人は約束を必ず守る。中国人はいつも変節を繰り返している。したがって日本には未来があるが、中国にはない。」
●その後、ロンドンに、サミュエルの寄付によって「ベアステッド記念病院」が作られ、彼は気前のよい慈善家としても知られるようになったが、1927年に、74歳で生涯を閉じた。
※ 現在、「ロイヤル・ダッチ・シェル」はロスチャイルド系列企業群の中心になっている。
シェル石油の貝のマークは湘南の貝が元になっている
(私のコメント)
イスラエルとヒズボラの戦闘のことを書こうかと思ったのですが、現在のところイスラエルを支持しているのはアメリカとイギリスだけで、米英だけがなぜイスラエルを支持するのか歴史的な背景があるのですが、イスラエルを支持する背景にはユダヤ人と米英との関係を探らなければなりません。
特にイギリスとユダヤ人の関係はどうなっているのか調べたら、「イギリスのユダヤ人」というサイトが見つかりました。ヘブライの館の一部なのですが、その中でマーカス・サミュエルというユダヤ人が日本で商売を始めて、やがてシェル石油を創業したことが書いてあった。
シェル石油といえばロスチャイルド財閥の中核企業ですが、ロスチャイルドと日本とはその意味で深い関係があるようだ。イギリスの貧乏なユダヤ人が日本にやってきたというのもイギリスでもユダヤ人は差別されていたからですが、日本で貝を集めてイギリスに送って屋台で父親が売った。
貝は加工してボタンなどにもなり装飾にも使われた。やがてマーカス・サミュエルは貯めた資金でインドネシアの石油の開発に成功して、日本で照明や暖房用に石油を売って財を成した。それがシェル石油の創業にもなったのですが、日清戦争においても物資を供給して財を成した。
シェル石油はイギリス海軍にも石油を供給していたのですが、ユダヤ人が経営していたのでは国防に関わるという事で会社は売却せざるを得なくなった。当時もイギリスではユダヤ人への差別はそれだけ激しかったのですが、日本ではそのようなユダヤ人排斥の歴史はない。
ユダヤ人はこのように商才に長けた民族なのですが、キリスト教徒からの差別が激しくてヨーロッパ各地で追放された歴史持っている。商才には長けていても国家の一員としての才能には乏しくて、ユダヤ人の国家はローマ帝国に滅ぼされてからはユダヤ人の国家は1948年にイスラエルが建国されるまでなかった。
しかしイスラエルが建国されてもユダヤ人は周囲のイスラム国家との戦争を繰り返して現在に至っていますが、ユダヤ人は優秀であるがゆえにプライドが高くて負けて妥協する事を嫌う。個人としては非常に優秀なのですがユダヤ人同士で一致団結する事は苦手なようだ。イスラエルという国もイスラム世界と報復合戦していてはいつ無くなるか分からない。
だからなかなか自分達の国家を持つことが出来ず、アメリカのような人工的多民族国家でようやく落ち着く事ができるようになった。しかし優秀なるがゆえにわずか3%ほどの人口なのに政治的経済的主導権を持ち、政府の閣僚にはユダヤ人が多く占めるようになって他民族から疎まれるようになってきている。
アメリカはユダヤ人に乗っ取られたような国であり、だからこそイスラエルを全面支援しているのですが、イスラエルの横暴が米英を世界から孤立させるような事態を招いている。ユダヤ人が妥協的ならばこのような問題は起きてはいないはずだ。イスラエルがテロへの報復にこだわるのはユダヤ人が馬鹿な証拠なのですが、アメリカもテロへの報復でイラクで泥沼にはまっている。
それに比べると日本人もユダヤ人並に優秀なのですが、ユダヤ人のように自己主張にこだわる事もなく、日本はアメリカの言うがままに振舞って、アメリカのご機嫌をとりつつ日本と言う国の存続を図っている。もしユダヤ人のようにプライドが高かったらローマ帝国に最後まで反抗して滅んだように、日本もアメリカに最後まで抵抗して日本は無くなっていたはずだ。
その違いはユダヤ教が一神教なのに対して日本の宗教が多神教であり、他の宗教や民族に対して寛容であるかどうかの違いが出てくる。しかし日本とユダヤ人との関係は日英同盟の頃までは上手くいっていたが、日露戦争後の中国の利権争いで日本はアメリカのユダヤ資本を敵に回す事になってしまった。
アメリカも事実上ユダヤ国家であり、ユダヤ人大統領のルーズベルトは日本から中国の利権を奪い取るために蒋介石を支援したりして日本と戦争するまでになりましたが、日本はなぜアメリカが敵対的になったのか理解できなかったようだ。
ユダヤ人と中国との関係はアヘン戦争以来のものでありユダヤ人は中国に多くの利権を持っていた。日本はそれを脅かそうとしたために米英のユダヤと敵対するようになった。大東亜戦争で日本は負けて中国から撤退しましたが、米英のユダヤ人も中国の利権を共産革命で全て失った。
日本はユダヤに対しては融和的だったのにユダヤは日本を敵視して戦争して大日本帝国を滅ぼしてしまった。結果的に見れば戦争には勝ったがユダヤも中国の利権を全て失い、アメリカは日本の代わりにソ連中国の共産主義勢力との戦争を請け負う結果となり日本と戦争した事が裏目に出た。
◆日中戦争(支那事変)の舞台裏 ヘブライの館
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe150.html
「……アメリカもまた、第二次世界大戦で国益を見失っていた。ドイツと日本に勝つことに執着したが、勝利の結果は、かえって大きな負担を背負いこむことになった。
アメリカは、日本を占領して初めて、日本が明治時代からしていたのは南下してくるソ連を食い止めることだったと知った。
日本は、中国大陸や朝鮮半島がロシア化または共産化することを懸命に防いでいた。そのおかげでフィリピンがアメリカのものになった。その日本を後方から攻撃したのだから、これほど愚かなことはない。」
「戦争が終わり、アメリカは日本を武装解除して“平和第一主義”を教えたところ、日本人は大喜びして、日本は本来の平和愛好国になった。その結果、ソ連の南下を食い止めるのはアメリカの仕事になって、朝鮮戦争では日本の代わりにマッカーサーが38度線で戦って、200億ドルの戦費と3万5000人の損害を出した。
さらにマッカーサーは38度線を確保するため、北上して平壌を陥とし、鴨緑江まで進出するが、これはかつて日本がしたことと同じである。アメリカは日本に対して、それを大陸への侵略だと言ったが、自分も同じことをするハメに陥った。
アメリカが中国国境に迫るのを見た中国は、“抗美援朝、保家街国”(アメリカに対抗し、朝鮮を援助し、家や街や国を守る)のスローガンで18個師団を送り、米軍を押し戻してソウルを奪還した。そこで頭にきたマッカーサーは、『原子爆弾約20発、中国とソ連の都市に使いたい』と言ったら、トルーマンに解任されてしまった。
このように、昔は日本がやっていたことを、アメリカが引き継がなければならなくなったので、『ルーズベルトの戦争目的は、日本の代わりにソ連と戦争することだったのか』という批判が出てしまった。」
「アメリカが日本と戦争したのは、実は中国貿易の利権を手に入れるためだった。
戦争が始まる前、中国にモノを売っている国は、イギリスと日本だった。そこへ参入したかった。当初は、門戸開放・機会均等のスローガンを主張していたが、やがてエスカレートして、日本は中国から手を引け、ということになった。
そこで日本を追いつめて全面戦争をしたが、この戦争目的は達成されなかった。戦争が終わって中国を手に入れたのは、アメリカが支援した蒋介石政権ではなく、ご存じのとおり毛沢東政権だから、アメリカは日本との第二次世界大戦ではくたびれもうけの惨敗である。
この意味ではイギリスも負けている。中華民国も同じで、第二次世界大戦で勝った国は、毛沢東の中国共産党とスターリンのソ連だけだったと言える。」
(私のコメント)
このようにして見ればユダヤ人が決して政治的に有能ではない事が分かる。それはイスラエルを見れば分かる。そして決して敵ではない日本を敵に回して日本に大損害を与えた。アメリカのユダヤ人たちは目先の中国の利権に目が眩み、日本に戦争を仕掛けた。このようにユダヤ人は敵を作っては恨みを買って世界をさ迷い歩いている。
やがてはアメリカからもユダヤ人は追い出されて流浪の民となるだろう。ユダヤ教そのものに原因があるのかもしれないが、どうしてユダヤ人は他の民族と融和的になれないのだろうか。アメリカのユダヤ人は中国を次の天地として見ているようですが中国人もユダヤ人にアヘン戦争以来の恨みを持っているから天国にはなりえない。唯一日本こそユダヤ人の天国になりうる国家だった。
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