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フランスサッカー、そのシビアな育成システム [ル・モンド・ディプロマティーク]
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投稿者 white 日時 2006 年 7 月 08 日 22:25:17: QYBiAyr6jr5Ac
 

□フランスサッカー、そのシビアな育成システム [ル・モンド・ディプロマティーク]

 http://www.diplo.jp/articles06/0606-4.html

フランスサッカー、そのシビアな育成システム

ジョアン・アルスコエ(Johann Harscoet)
ジャーナリスト

訳・ジャヤラット好子、阿部幸

原文
http://www.monde-diplomatique.fr/2006/06/HARSCOET/13536

 1980年代後半のフランスサッカー事情を見てみると、3度のワールドカップ優勝国のドイツに及ばず、レアル・マドリードや今年度の欧州チャンピオンズリーグ優勝のFCバルセロナのようなビッグクラブもなかった。国内のリーグ1はレベル的にイタリアのセリエAに劣り、ハイレベルのクラブチームが10以上もひしめくロンドンに比べ、パリはお寒い状況にあった。一言でいえば、出遅れていたのだ。

 そうはいっても、ワールドカップはジュール・リメ、欧州チャンピオンズカップ(現欧州チャンピオンズリーグ)はガブリエル・アノ、欧州選手権はアンリ・ドロネーと、どれも提唱したのはフランス人である。最優秀選手に贈られるバロンドールも、季刊誌『フランス・フットボール』が創設した。開催国となった欧州選手権1984年大会で優勝したのを除けば、フランスはあらゆる大会を創設しておきながら、優勝したためしがなかった。世界で最も人気のあるスポーツに、フランス人はたいして情熱も持ち合わせておらず、フランスは世界の強国から一目おかれるような存在ではなかった。

 当時のフランス産業界の中には、サッカーに利用価値を見出し、オーナーとして名前を売ろうとする経営者もいた。ベルナール・タピとジャン=リュック・ラガルデールはそれぞれオリンピック・マルセイユとマトラ・レーシングに巨額を投じた(1987〜89年にかけて7200万ユーロ相当を出資した)。パリ・サンジェルマンに15年間で2億6000万ユーロを投資したテレビ局カナル・プリュスは、試合の放映という形でディヴィジオン1(現リーグ1)の売り出しを始め、次いで映画分野でも行ったように放映権料の支払いという形でスポンサーとなった。フランスはワールドカップ98年大会の開催国に立候補して、大型スタジアムの建設を約束した。国立テクニカルセンターも誕生した。フランスサッカー連盟テクニカル部門は、91年にユース養成所の草分けとなるクレールフォンテーヌ国立サッカー学院(INF)を立ち上げ、12歳のサッカー選手予備軍を迎え入れた。この制度は国内の多くのクラブチームに採り入れられ、ワールドカップ98年大会でブルー(フランス代表)が優勝してからは、他の国にも広がった。

 突如として、サッカー少年をめぐる状況に変化が訪れた。それは、週末ともなればどんな田舎のサッカー場にも全国各地から足を運ぶスカウトマンたちであり、入団当初はただ同然の選手を高額で転売するプロのクラブチームである。

 フレデリックは、幸運にもパリから1時間ほどのところで生まれた。祖父母と曾祖父母の代からずっと暮らしてきた村の中心部で、仲の良い平凡な家庭で育てられた。父親は、70年代のサン・テティエンヌの選手の伝説的な活躍を目の当たりにしており、息子の揺りかごにはサッカーボールを入れていた。絶頂期のミシェル・プラティニが引退したとき、フレデリックは10歳にもなっていなかったが、両親は息子がこのチャンピオンの後継者になるだろうと信じていた。

 とある水曜日、すでに注目され、イヴリーヌ県の選抜チームに入っていたフレデリックは、テスト研修を受けるように勧めていたパリ・サンジェルマンの担当者に電話をかけた。彼は小学校でも中学校でも、みなにちやほやされる憧れのスターだった。少年少女の夢の結晶であり、成功の代名詞であった。グラウンドの彼は、ときには相手チーム全員をドリブルで抜き去り、ゴールを決める離れ業も見せた。

 優秀な小学生だったフレデリックは、未来は輝かしいと吹きこまれているうちに、次第に勉強から頭が離れていった。スポーツで身を立てることを夢見て、すでに圧倒的な強さを誇っていたサッカーの技を磨くことに力を入れ、ポルシェを転がしている数年後の自分を思い描いた。テレビ、父親の野心、貪欲なスカウトマンたち、周囲の誇大妄想の中で、彼は現実をはてしない高みから「見下ろす」ようになった。「子ども時代はこんなふうに過ぎていった。雲ひとつなく、自信いっぱいで、未来は約束されていた。熱中していたことが僕の仕事になるはずだった。誰もがそう信じて疑わなかった。一番そう信じていたのは、知らず知らずのうちに現実から浮き上がっていた僕自身だ」

 転落はゆっくりと訪れた。13歳のときにポワシーで、FCソショーの関連会社が運営する定評あるサッカー学校に入った。脚は短かったが、それまでは並外れた技術力でカバーしていた。しかし、ここでは「プロ」になるための基礎をきっちり身につけろと言われた。自宅から1時間のところにある寮で過ごした最初の1年間が、結局は彼にとっての最後の年になった。自分の基準を見失ったフレデリックは、実力が同レベルのチームメイトにさえ追いつけなくなり、学校の成績もがた落ちになった。サッカー集団の中の彼は、もはや凡庸な存在でしかなかった。「悪夢だった」と、彼は語る。「それまではサッカーこそが自分そのものであって、幸福感に満たされていた。自分は成功者であり、未来は約束されていた。なのに、思春期の真っただ中で自分なんてたいしたことがないと気づいてしまったんだ」。しかし、周囲の目にはそうは映っていなかった。両親やその友人、教師、仲間たちは、彼がどの辺まで駆け上がったのかをしょっちゅう尋ねてきた。何年かの間は夢を追い続けているふりをしていたが、やがてそれもやめた。

 フレデリックは現在25歳で、石工をしている。日がな一日マリファナ煙草を吸い、週末は家に閉じこもって過ごす。もうサッカーの試合を見ることもない。幼年時代に満ちあふれていた気力は二度と取り戻されることがなかった。「周囲の人々は、僕のことを第一に何もできなかったやつだと見ようとする。哀れみの眼差しを向けるか、僕が成功できなかったことをほくそ笑んでいるに違いない。黄金の子ども時代が足かせのようにまとわりついてくる」。彼のケースは特殊どころかありふれている。どんな村にもクラブチームにも、学校にも小さなスター選手がいて、スカウトマンのメモ帳にはすべて漏れなく書き留められている。才能ある少年探しは熾烈を極めているのだ。

国立サッカー学院での寮生活
 フランスの育成システムは巨大な歯車である。アマチュアクラブに登録している若者はざっと220万人はいるだろう。最もおいしいのが、一番若い年齢層(10〜14歳)だ。15歳以上の選手で注目されなかった者は、さっさと忘れ去られてしまう。

 県レベル、その上の地域圏レベルに存在するこうした組織網のおかげで、プロのクラブチームの選手供給源はほとんど無尽蔵だ。18歳以下のアマチュア選手が1チームあたり平均500人、契約ベースで登録されている。その傾向はとくに地域圏や地方ごとの名門チームで強い。

 もともとはまったく新人育成に熱心でなかったパリ・サンジェルマンの例は注目に値する。約80人の12歳から18歳までの少年が、学業よりはスポーツ重視のサッカー学校で基礎練習に励んでいる。彼らのうち5人がプロチームに入ることができれば上々だ。フランス代表に選出されなどしたら、もう歴史的な快挙である。もちろん、2003年度のプロ転向率を見ると、このパリの有力クラブチームは2.43%とフランスの中で最も低い。いずれにしても、国内平均は10%を下回る。

 養成所に入ること自体がすでにたいしたことだが、そこでもまた厳しい選抜が待っている。20年の歴史を持つ様々な選抜制度をくぐり抜けるのは、100人に1人いればいい方である。

 ユース養成のメッカであるINFには、毎年1000人近い12歳前後の少年がチャンスに賭けようとやって来る。入校テスト合格者は20人ほどである。彼らを待ち受けるのは、フランス代表のキャンプ地がある国立テクニカルセンターでの3年間の寮生活だ。何人かは1年目や2年目の終わりに退学の最終通知を言い渡される。その理由はひとえにサッカーであって、生活態度の問題や、学業の不振ではない。INFを卒業後、プロのクラブチームの養成所を経てプロ選手になるのは、これらの有望株のうち4人か5人にすぎない。トップクラスのチームに入れるのは、さらに一握りである。

 フランスの育成システムがすばらしくうまく機能していることは、認めなければ不公平というものだ。リーグ1(1)のプロ選手のほとんどが、こうした常道を踏んでいる。1998年のワールドカップ、2000年の欧州選手権におけるフランス代表の成功も、この育成システムに負うところが大きい。

 とはいえ、挫折に終わる率はすさまじく高く、それまで「進路変更」を考えてもいなかった少年たちのダメージは大きい。彼らが学業の重要さに気づいたときには、すでに手遅れの場合がほとんどだ。騒々しく男ばかりで、宿題をするときでさえ個人行動が白い目で見られる寮生活、サッカー至上主義、両親との別居、練習のハードな時間割といった生活環境では、サッカーでの成功と同じぐらい学業での成功も難しい。

 INFでは2年目が節目の年となる。ほぼ3人に2人が留年、または職業教育コースへ進路変更させられる。サッカーに関しては数年前に、校長が次のような訓戒を垂れている。「君たちはみな、ホールに張り出されている名簿を見ただろう。ここを卒業したプロ選手全員の名前が掲載されているものだ。26名かっきりだ。INFで寮生活を送った100人のうち、成功したのは25%ということになる。つまり、君たちのざっと75%はサッカー以外で食べていかなければならない(2)」。しかしながら、プロのクラブチームのほとんどが現状にまったく満足しているし、少年選手の両親に学校をアピールする必要もあるせいで、長期的な学業とサッカー選手としての(不安定な)キャリアの両立が不可能なことは表沙汰にならずにいる。

 リーグ1、リーグ2の全クラブチームおよびフランス代表チームは、それぞれ養成所を持っており、AJオセールのように正規のものから、ディジョンやポー、トゥーロンといった非公式のものまである。全部で5000人以上の12歳から18歳までの有望株が、「仕事を覚える」ために毎日グラウンドを駆け巡り、第一線のクラブチームに入ってサッカーで食べていくことを夢見ている。しかし、フランスで18歳から35歳までのプロのサッカー選手は、1000人にも満たない。

 その中で最も優秀な選手たちでさえも、ひたすら幻を追い続けることになる。FCナントやAJオセールと同様の「名門校」を持つFCソショーは、今シーズンにリーグ1で活躍したレギュラー25人のうち、5人を付設養成所の出身者から起用した。この5人は平均して2試合に1度の割で正規メンバーとして出場しており、今後も競争に勝ち残らなければならない。FCソショーのウェブサイトには、選手養成について「発掘」「育成」「成熟」「起用または進路変更」という5つの分野が謳われているが、6歳から12歳の子どもたちのための「サッカースクール」も開設されているのには目が点になる。選手の発掘は、揺りかごを出た時点から始まっているとでも言うのか。

ヨーロッパを目指すアフリカの少年たち
 クラブチームは、いずれにせよ、厩舎に種馬をできるだけたくさんキープしておく方が得だということをよくわかっている。コーチたちはその職業柄、見事なボールさばきをみせる15歳の少年が、5年後にもいい成績を上げるとは限らないことを知っている。知力や筋力が追いつくとは限らない。早熟な才能を持った多くの選手が、それまで熱中してきたことがもはや遊びではないことを自覚して、みずみずしさを失っていく。リュディ・アダド、ムラド・メグニ、ジェレミー・アリアディエール、フィリップ・クリスタンヴァル、その他の大勢の「未来のスター」たちは、期待されていた実力の10分の1も示せずにいる。まだ「プロ」になってもいないのに、自分の名前やプレー、キャリアが一人歩きをして、いいように利用され、もはや自分のものではなくなっていることに気づいてしまったに違いない(3)。

 15歳から17歳のユースフランス代表の「国際試合出場選手」ですら、成人後はなかなか日の目を見られずにいる。国際試合での国歌斉唱から3年後、「プロ」になっているのはわずか3分の1であり、多くの者は思い出話に耽ることになる。サッカーに明け暮れた幼年時代、10代の頃、そして人生のこと。それはいつしか仕事となり(大抵の場合はただ働きだ)、個人の才能は集団の中で埋没し、無邪気な称讃は親の重圧へと変わり、約束された未来は幻想に終わってしまった。

 失望は悲劇ともなりうる。毎年やって来る何千ものアフリカの若者たちがそうだ。彼らはテレビを見て心奪われ、ヨーロッパでのチャンスに賭けようとする。彼らがこぞって目指すのは、スポーツ商売の中心地であるフランスとベルギーだ。ここでも、プロへの入り口で敗れた者は不幸に打ちのめされる。アフリカの場合には、何十万という少年が、それぞれの才能に磨きをかけ、華々しいサッカー人生を夢見るのに、育成システムは必要ない(4)。

 家族全員が、かつてのジョージ・ウェアやロジェ・ミラ、最近ではエル=ハジ・ディウフ、ママドゥ・ニアン、ディディエ・ドログバらの活躍や、プーマのシューズのコマーシャル、あるいは大陸を縦横に行きかい、掘り出し物の宝石を苦もなく発掘するスカウトマンたちの一言に、ころっと惑わされる。一家は我が家の小さな天才のため、3000から4000ユーロもする高価な飛行機のチケット代を、ためらうことなく出資する。

 四方八方どこからともなく集まった大勢のアフリカの若者たちの希望は、フランス式の育成システムという壁の前で、がらがらと崩れ去る。文化サッカー連帯協会の会長ジャン=クロード・ムブヴマンは、サッカーで身を立てようとブラックアフリカからやって来て、多くはやがて路頭に迷い、滞在許可証もなく挫折して終わる、何百人もの移民たちの足跡を間近で見てきた。「アフリカ人は、ヨーロッパのプロサッカーに対して誇大なイメージを持っている。大勢の同郷の選手が成功するのを見て、彼らに続くのは簡単だと思ってしまう。旅費を工面し、ビザが下りた時点で最難関はクリアしたと思い、家族に対して使命感を感じている。そして、恐れと恥から、失敗しても国に帰りたがらないのだ」

 文化サッカー連帯協会の知る限りで、現在600名のアフリカ系選手が無断で母国を離れている。実際の数はそれよりさらに多い。「カメルーンの連盟だけで、昨年1年間に850通の出国許可状を発行している。それに加えて、クラブに公式登録されていない選手や、スカウトマンに直接勧誘され、彼らのところにとどまっている選手も多数いる」と、会長は説明する。カメルーンに限らず、マリ、セネガル、コートジヴォワール、ナイジェリア、ギニア等々も、もちろん状況は同じである。

 スペイン、イタリア、英国のビッグクラブへの踏み台となっているフランスは、こういった新人の「少なくとも半分を獲得」しており、それについてやかましいことは言わない。ムブヴマン会長の説明によれば、「クラブチームにしてみれば、これほどの収益源に対してわざわざ疑問を差しはさむ理由もない」からだ。

 前回のアフリカ選手権では、フランスのリーグ1やリーグ2で活躍する71名ものアフリカ系選手が、母国代表チームに加わるために、ときには1カ月以上もの間、戦線を離脱した。10名のアフリカ系選手を擁するASサン・テティエンヌにとっては、6人が帰国するという深刻な事態だった。ブラックアフリカ出身の若手選手はフランスのクラブチームに非常に貢献しているため、帰国で痛手を受けるコーチたちは、そうした彼らの愛国心を苦々しく思ってきた。国際サッカー連盟(FIFA)のブラッター会長が、議論に割って入り、もっと「アフリカ系選手たちへ配慮するように」と呼びかけなくてはならなかったほどだ。

テレビ放映権料のたそがれ?
 FIFAは2001年に国際的な移籍に規制を設け、未成年のスカウトを禁止した。しかし、この規則はかいくぐられている。手始めは、年齢の詐称である。多くはFIFAの公認を受けていない専門エージェントが、未成年の身分証に年齢を2つ3つ上乗せして、合法的な移籍に見せかける。後には逆のことも行われるようになった。22、23歳の選手を18歳の期待の星だということにすれば、残りの選手生命(投資の償却期間)が伸びるため、高値で売れることになる(5)。移籍時に育成クラブに金を払わずに済むよう、エージェントが(本人の合意のもとで)選手の身分を偽ることもある。

 フランスでは、マリ=ジョルジュ・ビュフェがスポーツ大臣だった2000年に、政府がこうした問題を調査した。しかし、しばしば不法滞在にすり替わってしまう、この種の「選択的な移民」の実際規模を明らかにするほど掘り下げた調査は行われなかった。

 解決策は限られているのが実情である。サッカーは紛れもない経済活動となり、選手の移籍は主要な収益源のひとつになっているからだ。アフリカ系選手たちは、情報に疎く、身分をたやすく詐称され、遊びながら練習を積んできたためコストもかかっておらず(フランスの少年たちが型にはめられ、結局は「まともな」試合を少ししか経験しないのとは大違いだ)、安定株となっている。頑強で、すばらしいテクニックを備え(南米の選手が路上や浜辺でボールタッチを身につけたのと同様である)、プレーの姿勢は真剣そのものであり、発掘してきたエージェントにとっても、移籍元のクラブチームにとっても、確実に利ざやを保証してくれる。

 ビッグクラブチームへの入団を視野に入れている選手にとってのヨーロッパの交差点にあたるフランスは、選手育成政策から実利を得ている。西ヨーロッパの中で赤字になっていないのはフランスだけであり、選手の移籍金による貿易収支は、2005年に1200万ユーロの黒字を記録している(6)。フランスの育成システムは有効に機能してはいるが、それでもやはり若い選手を鍛えるための手本や「先輩」となるべき外国人選手を必要とする。

 各国チームの育成システムによるプレーの特徴や、あるいは各国チームの独自性そのものは、とくに1995年のボスマン判決とその後の情勢変化によって薄まりつつある。この欧州司法裁判所の判決により、外国人選手を何人でも好きなだけピッチに立たせることができるようになったからだ。ベルギーではベヴェレンが11人の外国人選手を出場させ、そのうち10名がコートジヴォワール人だったという試合すらある。こうした中でサポーターたちは、ひいきのチームに以前ほど一体感を感じなくなっている。他方ではサッカー選手の商品化が進み、魂のない物のように扱われるようになった選手たちは、広告媒体へと変わっていった(7)。

 通りいっぺんのインタビューの中で自分を語ってみせたり、広告塔として周りからイメージを押しつけられたりすることが、まだ十分若くて脚を売り物にできるうちは問題にならないとしても(広告需要のトップ20に入る選手たちは、年間平均300万ユーロの出演料を手にしている)、引退後は厳しい状況が待ち受けている。名もない一般人となり、現在形で語っていた事柄が過去形になり(手放しの自慢を吹聴するにしても、いつまでも消えない心残りを語るにしても、過去を懐かしんでいることに変わりはない)、新たな職業と生活スタイルを習い覚えなければならない。かつては賞賛され、体を張って稼いでいたのだという思いがよぎる。自らが進んで払ってきた犠牲の重大さを思い知って、引退後のサッカー選手たちは陰鬱な気持ちにならざるを得ない。

 サッカー選手は誰しも、ダヴィド・ジノラのような「イケメン」や、ミシェル・プラティニのようなカリスマ、ジネディーヌ・ジダンのような「三本足」、エリック・カントナのような闘士として、人々の記憶に刻まれたいと願っているだろう。しかし、ほとんどの者のプロ生命は平均5〜6年である。選手たちはまた、所属クラブを頻繁に替えるせいで、引退後に役立つような、確かな人間関係を保つことができない。選抜の決定的な基準は、能力や才能だけではない。さもなければ、ゴール数がリーグ1の平均的ストライカーにかろうじて届く程度のニコラ・アネルカの評価額が、ここ数年でこれほど上がるはずがない。

 わずか20年足らずのうちに、サッカーは大衆のスポーツから経済の一部門へと変貌を遂げた。2006年初頭、フランス・テレコムの子会社であるオランジュ社は、フランスリーグとの契約を年間2900万ユーロで3年間更新した。リーグ1の試合中継を携帯電話に配信でき、リーグ名には同社の名前が冠につくという契約である(「リーグ1・オランジュ」という名前がついている)。

 才能を発揮できる数年間は高給で働くサッカー選手だが(リーグ1の選手が税込で月額4万5000ユーロ、リーグ2の選手が1万5000ユーロ、各リーグはそれぞれ20人前後のプロ選手を擁する20のチームからなる)、現実には、急速に盛り上がっては崩れ去る波の上をサーフィンしているようなものだ。このスポーツの採算は、主に高騰を続けるテレビの放映権収入でもっている。放映権料は今日では途方もない額にのぼる(リーグ1では年間6億ユーロ)。

 2年後に予定されている次回の入札総額は、テレビ局のTPSとカナル・プリュスの合併によって大幅に下がるに違いない。それに、試合映像のインターネットでの無料放映が普及して、放映権はいずれ消滅するかもしれない。実際にも、ワールドカップや欧州サッカー連盟(UEFA)主催のUEFAカップでは中国のテレビ局を通してウェブ上で試合が流された。目下育成中の若い選手たちの場合はまだ、短い現役時代を通じて相当の生活資金を稼ぐことができるだろう。しかし、年俸の絶え間ない高騰はおそらく終わりにさしかかっている。それでも、無数の少年が、これからも自分の「チャンス」に賭けようとするだろう。


(1) 2001年に名称がディヴィジオン1からリーグ1に変更された。
(2) Cf. << Les vertes annees de Clairefontaine >>, France Football, 19 juin 2001. Lire aussi << La tete et les jambes >>, France Football, 2 mai 2000.
(3) Lire Jean-Louis Pierrat et Joel Riveslange, L'argent secret du foot, Plon, 2002.
(4) Lire Raffaelle Poli, << De Cape Town a Amsterdam, les reseaux de recrutement des joueurs africains >>, Universite de Neuchatel, 2004.
(5) Lire Habibou Bangre, << Le trafic d'age dans le foot >>, 26 mai 2004, http://www.afrik.com
(6) Lire le rapport annuel de la Direction nationale de controle et de gestion (DNCG), 2004-2005, www.lfp.fr
(7) Lire Jean-Marie Brohm, << La loi de la jungle, stade supreme du sport ? >>, Le Monde diplomatique, juin 2000.
(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2006年6月号)

All rights reserved, 2006, Le Monde diplomatique + Jayalath Yoshiko + Abe Sachi + Kondo Koichi + Saito Kagumi

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