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(回答先: ヒトラー・ユーゲント 第2章 投稿者 hou 日時 2006 年 5 月 27 日 02:07:31)
http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~tamaki/joyama/joyama2000/kwmr3.htm
第3章 青少年を魅了したもの
第1節 スタイルの利用
前章ではヒトラー・ユーゲントの強制的な青少年統合の面をみてきたが、ヒトラー・ユーゲント法施行規則が発布される1939年まで、少なくともヒトラー・ユーゲントのへの入団は志願制であった。ということは、青少年をヒトラー・ユーゲント活動へ従事させる動機付けや「魅力」があったはずである。その活動自体に存在していた非強制的な側面も見逃すことはできない。この章では、ヒトラー・ユーゲントには具体的にどのような「魅力」があったのか、また、ナチスはどのような方策を採ったのかをみていくことにする。
この節では、ヒトラー・ユーゲントが用いた以前の青年運動のスタイルをみていくことにする。
多種多様な余暇活動
まず、ヒトラー・ユーゲントによって提供される多種多様な余暇活動の機会が、特に貧しい若者たちにとって、大きな魅力であったことを考える。1933年以前には青少年運動がまだ十分に広まっていなかった農村部の若者たちにとっては、ヒトラー・ユーゲントの到来によって、はじめて青少年組織における余暇活動が開始され、集会所や競技場の建設がすすめられ、また、週末や休暇中に狭い地元の環境から離れた旅行の機会が与えられるようになった。集会所は主に毎週水曜日の「夕べの集い」の時間に使用された。そこでは、ヒトラー・ユーゲント指導部が製作に関与したラジオ放送を聞いたり、スライドを見たり、リーダーがナチ党に関する本を朗読したり、ナチスの世界観教育が行われていた。しかし、年少組織の場合は遊びの要素、たとえば、工作、歌、即興劇、人形劇、影絵芝居などを含んでいた。そのことを楽しいと感じていた若者がいたということはベルリンに住んでいた少女の回想からも明らかである。
週末の郊外でのキャンプ生活や遠方への休暇旅行などの実施は、ワイマール期の青年運動の活動形態を継承したものである。しかし、ワイマール期にそのような余暇を享受できたのは、もっぱら上層・中間層以上の家庭の若者たちであった。
当時、労働者家庭には旅行する機会などほとんど無かった。それは、青少年以外の世代に関しても同様で、ホーホラマルクの鉱夫もナチスの組織である歓喜力行団の提供する余暇活動にはよい評価を与えている。大人でさえも満足するものであったということは青少年達についても同様の、あるいはそれ以上の満足感を与えたのではないだろうか。ある鉱山労働者の子どもは、1937年に反抗的であるという理由からヒトラー・ユーゲントを除名されるが、それにもかかわらず、テント生活の体験のすばらしさ、初めて北海を見た喜びを忘れられないという。
そのほかにも、農村にプールが作られ、大きな反響を呼び起こしたという例もある。ヒトラー・ユーゲントは、今まで上層・中間層の家庭の若者達だけのものであったライフ・スタイルを、労働者や農民の家庭に享受できるようにすることで彼らを強くひきつけたのである。
「若さ」の魅力
シーラッハは「青少年は青少年によって導かれなければならない」というスローガンを掲げていた。これも伝統的な青年運動が強調してきた理念であったが、ワイマール期の青年運動の指導者たちの多くは、この理念にもかかわらず高齢化していた。50歳を越える指導者もいたといわれている。あるワンダーフォーゲル団員によれば、葉巻をくゆらせたり、互いにドクターの称号をつけて呼び合うなど、若者らしからぬ人々が「全国委員会」の会議に多数出席していたという。
その結果、当然、指導者になれない若者たちも多かったと思われる。それに対して、ヒトラー・ユーゲントは、「若さ」を誇示し、「若者たちの行動力を麻痺させてしまう」青年運動の「老害」を激しく攻撃した。青少年と呼ばれる世代の若者たちは何十歳も年の離れた大人に「命令」されることを嫌い、1〜2歳年上の「先輩」をむしろ尊敬する傾向にある。よって年配の指導者にうんざりしていたことも納得ができるであろう。
ちなみに、シーラッハが「ドイツ帝国青少年指導者」に任命されたのは27歳の時、そして41年にアクスマンがシーラッハの後継者になったのも、同じ27歳のときであった。大隊指導者の平均年齢は25歳以下、地区指導者の場合は30歳以下であったという。一般に、小隊や中隊のリーダーは、指導される若者たちよりも1,2歳年長、およそ15〜18歳であった。また、日常生活で決定的な意味をもつ末端の組織においては、かつての「同盟系」のリーダーや、実際経験に富むそのほかの青少年指導者たちが組織を率いることが多かった。そのことも若者たちを違和感なくヒトラー・ユーゲントに引き入れるための材料となったのである。
以上のような「魅力」は以前の青年運動のスタイルを取り入れたものであるといわれている。確かに青年運動も同じようにキャンプ生活や休暇旅行をしたり、「青年は、青年によって導かれるべきである。」といった理念も持っていた。しかし、旅行は上層・中間層の若者たちのものであり、ワイマール後期には、青年による指導も実際には行われていなかったことを考えると、ここに挙げたヒトラー・ユーゲントの「魅力」もヒトラー・ユーゲント「独自」とまではいえないが少なくとも単なる「まねごと」ではなかったのではないかと考える。
第2節 独自の魅力
この節では、第1節で見てきた「魅力」よりも、ヒトラー・ユーゲントだからこそ生まれたであろう、いわば独自の「魅力」といえるものについてみていくことにする。対抗権威、平準化効果、女性の開放、全国職業コンクールというものである。
対抗権威
前節で触れたように、ヒトラー・ユーゲントの団員はすでに15〜18歳くらいの年齢で指導者になることができ、40〜160人(小隊―中隊)の若者に「命令」できるようになった。それに加えて、その制服を身につけることによって、国家権力を背後に、両親・学校・教会などの既存の権威に対抗する「権力」をも手にしたのである。まず、家庭での、つまり親に対する反抗についてであるが、このことは、第三帝国にはじまったものではなく、それ以前からもあったし、現在においても当然あるだろう。ただ、親という権威に対抗するために、子どもがなにをもちだしてくるかは、例えば教師であったり、時代によって違ってくる。当時のドイツにおいては、それがヒトラー・ユーゲントだったわけである。
そのことは、労働者家庭で、父親が共産党員や社会民主党員の場合には、親子の間で激しい争いになることになった。ホーホラマルクのある鉱山労働者の回想には、「もし、お前がヒトラー・ユーゲントに入ったら、もうわしの家に入れてやらない。」という言葉が何人もの父親を、強制収容所に送りこむことになったのだ、とある。この他にも、「ヒトラー・ユーゲントの制服を殴ることになるんだぞ」とあからさまにヒトラー・ユーゲントを盾にして父親に反抗していた若者がいたことがわかる回想もある。このため、特に社会主義者の両親たちは、子どもたちの密告を恐れて、子どもたちの前では、うかつに政治に関することを話題にしないようにしていた。また、亡命社会民主党が発行していた『ドイツ通信』には、子どもたちが全く言うことを聞かなくなってしまった、家庭の権威は完全に地におちた、などという苦情が中・上層家庭の親たちからも増えているという報告が見られる。
また、教会に関しても、ヒトラー・ユーゲントの権威を盾にすることで、牧師という伝統的な権威に立ち向かい、攻撃的な態度をとっていたことも明らかになっている。例えば、ナチ党の幹部である学校の教師に反ユダヤ感情を吹き込まれ、「ユダヤ人はみんな詐欺師で、臆病者だ。聖書は半分だけ真実だ。だから聖書は勉強しなくてもよいのだ。」といって聖書を勉強しない口実にする子どもがいたということがある。
同様に、学校の教師に対しても反抗が見られるようになっている。当時は教師による体罰が公認されていた。常に竹製の鞭を手にし、些細なことから怒りにまかせて生徒を鞭打つ教師も多かったという。そのような教師に一方的な服従を強いられてきた若者たちにとって、不満がなかったはずはないだろう。そこに肉体訓練を重視し、知育を後回しにするヒトラー・ユーゲントが現れ、指導部はそのようないわゆる「詰め込み教師」を激しく攻撃した。それに乗じてヒトラー・ユーゲント団員たちもここぞとばかり反抗するようになったのである。教師の言うことを聞かないということはもちろん、学校行事の妨害、機材の破壊、さらに生徒が教師に殴りかかるという事件まで頻繁に報告されている。ワンダーフォーゲルは詰め込み教育に嫌気が差し、自然に逃避したが、ヒトラー・ユーゲントの団員たちは、今や面と向かって教師に反抗する権威を得たのである。
平準化効果
次にヒトラーユーゲントの平準化効果という点についてみていくことにする。ワイマール期の青年運動は、階級ごとに分断されていた。特に、ワンダーフォーゲルの流れをくむ同盟系団体は、上層・中間層家庭の若者たちの組織であり、労働者家庭の若者たちは主として共産党系や社会民主系の団体に組織されていた。このように完全に分裂していた若者たちの世界を「唯一の青少年組織」ヒトラー・ユーゲントが統合することになったわけである。すでに述べたように、上層・中間層家庭の若者たちに限られていた旅行などを労働者家庭の若者たちが享受できるようになったこともあるが、そればかりでなく,ヒトラー・ユーゲントは居住地単位で組織されていたので、労働者の若者たちが、リーダーとなって,中間層家庭の子供たちに「命令」する場面もあちこちで見られた。
「百万長者の息子も、失業者の息子とまったく同じ制服を着ている。」ヒトラー・ユーゲントこそ、まさに「階級なき社会」を体現しているのだと言うシーラッハの主張も大げさなスローガンだとはいえなかったのである。
女子の開放
次に、ヒトラー・ユーゲントによる女性の解放の面についてみていくことにする。10歳から21歳の女子を組織していた「ドイツ女子青年団」では、『我が闘争』にある女子教育の理想像、すなわち女性の役割はもっぱら家庭と育児にあり、そのために将来の母を育てるという目標とはまったく逆に、家庭からの束縛から逃れることができたのである。ヒトラー・ユーゲントと同じように、スポーツの奨励、週末のキャンプ生活や夏休みの合宿生活が行われた。これらの活動は、多くの女子にとってはまさに初めての経験で、今でもなお忘れられない思い出として残っているようである。農村では,女子が体操服でスポーツすることなど考えられない、という時代であり、男子は、ワイマール期にも数々の体育系の団体に所属し、スポーツを楽しんでいたが、女子にはそのような機会が少なかった。こうした状況を考えれば、体を動かすことが好きな少女たちには「解放感」を与えるものだっただろう。旅行については前述した通りである。それに加えて、ドイツ女子青年団の役員であれば、家を留守にして政治活動に走りまわる古典的な「男」タイプに近づくことができたのである。
全国職業コンクール
次に青年労働者にとっての「魅力」について考える。狭義のヒトラー・ユーゲント(14〜18歳)に組織された若者は、徒弟,労働者など働く若者が過半数を占めていた。ヒトラー・ユーゲントが青年労働者を早くからターゲットにしたということは第2章でも述べた通りであるが、勤労者の割合は1933年には73.3%にものぼる。しかし、ドイツ少年団(10〜14歳)と団員数を比べると35年末の団員数は、ヒトラー・ユーゲントが約83万人、ドイツ少年団は約150万人である。(註47参照)そういった状況ゆえに、ターゲットはさらに青年労働者層へ向けられるようになる。ここでは、その青年労働者たちを獲得するためのヒトラー・ユーゲントの目玉商品といってもよいであろう「全国職業コンクール」というものについてみていくことにする。
これは、まず1934年にヒトラー・ユーゲントが開催し、その後、労働戦線も参加して、毎年行なわれた。参加者は、34年には約50万人であったが、35年75万人、36年104万人、37年188万人と、年々増えていった。38年以降には成人にも拡大されて、39年には400万人が参加したという。地方での何度かの選考の後、ベルリンで最終選考が行なわれた。これに入賞した若者たちは、首相官邸に招かれ、ヒトラーによって表彰された。さらに、このコンクールで優秀な成績を収めた労働者には、数々の特典が与えられた。全国レベルではもちろん地方レベルの入賞者たちにも、その後さまざまな形で職業上の助成が行なわれた。技術学校への入学、追加研修、社内での昇進(例えば特定の競技会でトップを占めた郵便配達夫は事務職に昇進した。)徒弟期間の短縮などである。また不熟練工は、半熟練工あるいは熟練工として雇用されることもあった。
このように、さまざまな特典ももちろん魅力の1つではあったが、これまで自分が働いていた世界しか知らなかった若者たちに、別の世界を知る機会となりえた、ということもある。1938年に、ホーホラマルクのある若い鉱夫は、全国職業コンクールの予選に出るために、よその炭鉱町に行き、炭鉱係員の家に宿泊したときに体験した、自分の家ではできないようなことを「忘れられない体験」として語っている。このように全国職業コンクールに参加するために自分たちが育った環境より少し豊かな生活を目の当たりにすることによって、「自分もこうなりたい。がんばればこうなることができる。」と感じるようになるだろう。若者に未来を期待させ、はじめて上昇志向を芽生えさせる要因となったといえるのである。
ここでは、ヒトラー・ユーゲントが青少年の獲得のためにとってきた方策や若者たちがひきつけられた魅力についてみてきた。第三帝国時代については、一般の労働者などの大人にも「良い時代だった」と回想する人々がいる。その理由は、アウトバーン建設による失業者の減少などであった。このように、ナチスあるいはヒトラー・ユーゲントの登場は一般民衆にはある程度の満足感を与えていたのである。また、ナチスやヒトラー・ユーゲントの最終目標は、「戦争」であったことを考えると、イデオロギー的には明らかに間違っていたが、古い規範を破壊した点など、しばしば近代化を推し進めたということができると考える。
第3節 「生の意味」
最後に、ヒトラー・ユーゲントが若者たちに与えた「生の意味」について考える。この魅力は、主にナチスの権力掌握前に有効だったと考えられる。
ナチスはミュンヘン一揆失敗後、合法的に権力を手に入れようとしていた。しかし、ナチスは第一に自らを他の政党と並ぶ一つの政党とはみなさず、議会主義の構造の中で政治的に登場するためだけに政党が必要であると考えていた。むしろ、ナチスは,自らをなによりもまず民族主義的・政治的運動とみなしていた。政党ではなく、運動が大衆を獲得したといえるのである。
ヒトラーユーゲントもまた、その運動の一役をになう組織であった。前述した通り、ワイマール期のヒトラー・ユーゲントの主な活動は、ナチ党のプロパガンダ活動であった。中部ドイツの人口約1万人の小都市では、団員たちは、ハーケンクロイツや党のスローガンを歩道や塀にペンキで書いたり、特に選挙時には、党の新聞、パンフレット、集会の無料入場券をほとんど一軒一軒に配布して歩いたという。
そして、この町の団員の回想には、ヒトラー・ユーゲントに入団した動機を見ることができる。そのような活動が「ナチズムの理想の追求」「心を沸き立たせる行動を他の仲間と一緒にできる可能性」「重要な人間になった」という感覚を与えてくれたというのである。ナチズムの理想といっても権力掌握前のナチスは、政権を獲得するための「運動」であり、あったのはヒトラーが名付けた「民族主義国家の建設」という言葉だけで、そのためにドイツをどのように形成していくのかということについて、具体的な綱領などは存在していなかった。しかし、当時のドイツでは中産階級が労働者階級と同じくらい深刻な失業の打撃を受けていたり、階級対立が激しかったりと民主主義と自由は無力なものに成り下がっていた。そんなときにヒトラーが現れ、ワイマール社会を攻撃し始めたのである。ヒトラーはただ、階級対立のない「民族主義国家の建設」を約束しただけであったが、この回想にあるように、青少年はナチ党が政権をとれば、ドイツはもっと良くなる、自分たちはもっと幸せになれると信じ、むしろ、入信と言ってもよいような感覚でヒトラー・ユーゲントに入団したのである。
ヒトラー・ユーゲントは頻繁に街頭闘争に参加して、思い思いに武器を手にとり、敵を攻撃して殺すこともあった。当然、ヒトラー・ユーゲントの側にも被害が出た。ナチ党の権力掌握までに21人が「殉職」することとなった。ドイツ青年の心を強くとらえた原因の一つに、ヒトラー・ユーゲントのこのような行動主義的な性格があげられる。それはワイマール期の同盟系青年グループと比較すると明らかである。同盟系のグループは、確かにワンダーフォーゲルと比べると「政治化」されていたが、それを行動に移すわけではなく、いつ実現するのかわからない理念を念入りに磨き上げようとして果てしない議論を続けるだけであった。それに対してナチス、あるいはヒトラー・ユーゲントは直接行動を民衆に要求し、現に自らも行動を起こしていた。また、ナチ党は21人の「犠牲者」を大げさに宣伝し、反共キャンペーンに利用したり、共産党員との闘争で死亡したヒトラー・ユーゲント団員を描いた映画を作成したりして、その行動主義を宣伝していたということもある。
女子にもまた、このような行動にひきつけられた者がいる。1963年、元ナチス党員のメリタ・マシュマンは、ナチ時代の彼女の活動、ヒトラー・ユーゲントへ入るまでの彼女の道などの回想記を刊行した。この回想記にはヒトラー・ユーゲントにひかれていった様子が細かに書かれている。彼女は、1933年1月30日にはじめてヒトラー・ユーゲントの行進を見たときの強烈な印象とそのとき感じたことを、こう語っている。「彼らの顔、彼らの態度にはある厳粛さがあって、私は恥ずかしくなりました。」「この年になると、学校の宿題と家族連れの散歩と誕生日の招待で成り立っている生活なんて、みじめなまでに、不真面目なまでに意味の乏しいものと想うのです。」
このことからいえることは、当時の青少年たちはそれまでの子供じみた狭い世界から抜け出して、何か「意味」のあることをしたいと感じていたことである。彼らは崩壊しかけていたワイマール共和国への絶望や、また、それを批判するだけでなにも行動を起こそうとしない人々に、いらだっていたのである。
また、マシュマンはその行進のときにちょっとした喧嘩を目撃している。男が顔から血を流して倒れるのを見た彼女は、その光景に「陶酔的な喜びを感じた」と語っている。そして「洋服や食べ物や学校での作文なんてものは問題ではなかった。生か死かを問題にする人々と行動を共にしたいという欲求に満たされていた」と感じていた。この時15歳だった少女が、自分の生きている意味をヒトラー・ユーゲントに見出したのである。当時の状況を考えるとこのような青少年がたくさんいたと考えて良いのではないだろうか。(マシュマンもそう語っているように)自分が生きる意味さえないのではないかと考えるような時代だったということができる。そこに現れたナチスとヒトラー・ユーゲントの活動は、青少年に「生の意味」を与えたのである。
このように、ヒトラー・ユーゲントには非強制的に青少年をひきつけた側面もあった。このこともナチスの青少年統合の成功に大きく作用したと考えられる。青少年たちが何に「魅力」を感じるかということについては、その国、時代、その時の社会状況などによって当然変わってくる。当時のドイツの青少年の多くは、ナチ党の青少年団体であるヒトラー・ユーゲントに「魅力」を感じ、それと共に生きたのである。たとえ、戦争に加勢することになったとはいえ、彼らを責めることはできないだろう。逆にヒトラー・ユーゲントが当時の青少年の「魅力」となり得るものを備えていたということに注目すべきである。
おわりに
本論では、ドイツ青年運動のはじまりからおわりまで、そしてヒトラー・ユーゲントの青少年統合、つまり19世紀末から第二次世界大戦の終了までの青少年の歩みを見てきた。この頃の青年運動の歴史は、その段階的「政治化」としてとらえることができる。
大人から、または社会からの解放を目指して始まったドイツ青年運動であったが、それらは次第に「広義の政治的意識」を持つようになり、ナチ党という「狭義の政治」に取りこまれていくことになる。その原因としては、ドイツ青年運動は、理想についてひたすら議論を重ねるだけで、それを行動に移そうとしなかったことが挙げられる。
それに対し、ナチスやヒトラー・ユーゲントは、行動主義を前面に押し出し、政党というよりは運動と呼べるような活動で、大衆をひきつけていった。そして、政権掌握後には強制的な統合が行われるようになる。
しかし、政権掌握後にも非強制的に青少年を統合しようとする側面もあった。それは、第三章で述べた通りであるが、筆者は、その中でも特に第3節の「生の意味を与えた」ことが重要な「魅力」となったのではないかと考える。
メリタ・マシュマンの回想にも見られるように、ワイマール共和国での生活は、青少年たちにとって「意味のないもの」であった。彼らにとってヒトラー・ユーゲントは非常に魅力的に映ったのである。また、その回想には、戦争が終わる直前まで、ナチスが敗れることはありえない、と信じている青少年がいたことが述べられている。このようなことから、ヒトラー・ユーゲント入団当時、「生の意味」を考えるような、まじめかつ行動的、積極的な若者たちが、主に、後の戦争も支えたのではないかと考えるからである。
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