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ヒトラー・ユーゲント はじめに
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投稿者 hou 日時 2006 年 5 月 27 日 02:04:28: HWYlsG4gs5FRk
 

http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~tamaki/joyama/joyama2000/kwmr1.htm

はじめに

 

 近年の研究で、第三帝国における青少年の「逸脱」行動に関心が寄せられていることもあり、「ナチズム体制、あるいはヒトラー・ユーゲントは、青少年たちの統合、教育に成功したのか、それとも失敗したのか」という問題が論じられている。

 その統合の部分をみてみると、ナチスといえば、強制的支配というイメージが強いが、ナチスの青少年団体である、ヒトラー・ユーゲントには自主的に加入した青少年が多くいたことも確認されている。

 ヒトラー・ユーゲントの最終目標は「祖国のために喜んで死ねる兵士を育てる」ことであった。そのことを考えると、戦時中、多くの青少年を戦争に動員したわけであり、統合は成功したと考えられる。そして、その中には、自発的に入団した青少年たちもいたのではないかと思われるのである。

 結果的には戦争の道具とされたヒトラー・ユーゲントであるが、自主的に加入した青少年が存在したということは、加入した時点でヒトラー・ユーゲントには青少年をひきつける何らかの魅力があったということになるだろう。そこで、ヒトラー・ユーゲントはどのようにして青少年をひきつけたのか、また、青少年は、ナチスの青少年団体であるヒトラー・ユーゲントにどのような魅力を感じたのか、という疑問が生じてくる。

 この疑問を考えることによって、ナチスまたはヒトラー・ユーゲントの青少年統合成功の一端がうかがえるだろうと考えられる。

 よって、自分の論文は、主にヒトラー・ユーゲントが青少年をひきつけるためにどのような方法を用いたか、また、その中のどのような点に青少年はひきつけられたのかを、表面的なものや心理的なものなど、魅力と思われるものを挙げ、それらがどの時期に、どのような青少年たちにとって有効だったのか、なども押さえつつ、当時の回想録なども交えて検討する。

 その検討のために、第1章では、ヒトラー・ユーゲントにも影響を与えた、ヒトラー・ユーゲント以前の青年運動を、第2章でヒトラー・ユーゲントの組織的発展や強制的統合の面などを見ていくことにする。


ヒトラー・ユーゲント以前
 

第1節 ワンダーフォーゲル運動

 ドイツ青年運動は1933年ヒトラーの政権掌握直後に終わったと言われているが、ヒトラー・ユーゲントがその運動から受けた影響は少なからず存在していた。この章では、ドイツ青年運動の誕生からどのように変化していき最後を迎えたのかをみていくことにする。

 ベルリン大学の学生へルマン・ホフマンは1896年にシュテグリッツの高等中学校に速記術勉強会を創ったが、この会は、時折集団遠足も計画した。ホフマンは当時21歳の貧乏で理想に燃えた学生であった。講習は無料であった。多くの生徒は彼の独創性にひかれてグルネンヴァルトをはじめ首都周辺の目的地を散策するのについていった。翌年、グループはもっと野心的な旅に取り組んで、二週間にわたってハルツ山地を横断した。1898年にはライン川畔まで出かけた。1899年には挙句の果てにべーメンの森(バイエルンからベーメンに入り込んだ山脈)を四週間渡り歩いた。このグループから、のちにワンダーフォーゲルとして知られるようになり、ふつうドイツ青年運動と呼ばれるものが生まれたのである。

 ホフマンの徒歩旅行賛歌には、ギムナジウムにおける「死語」に重点をおいた教育などの学校生活や爆発的に発達した鉄道網に代表される文明化などの当時の社会状況への批判、一人前の人間としての自立への不安が語られている。このようなホフマンの思いが他のギムナジウムの生徒の共感を呼び、またシュテーグリッツという土地柄も関わって大きくなっていくのである。まず、ここに、この若者たちの行動がただの「集団遠足」にとどまることなく後にドイツ全土に広がることになった理由をみることができる。

 そして、1900年ホフマンから徒歩旅行グループの指導を任されたK・フィッシャーは、11月4日にシュテーグリッツの町役場の地下食堂の奥の部屋に集まった5人の大人(郷土作家4人と医師1人)と5人の若者(フィッシャーを含む学生4人と見習機械工1人)の相談により「ワンダーフォーゲル生徒徒歩委員会」を発足することに成功した。「ワンダーフォーゲル(渡り鳥)」という呼称はこのときつけられたものであるが、このことは、徒歩旅行を実践し、推奨する者たちが、ヴィルヘルム期の社会・学校・家庭からの脱出志向を、ロマン主義的心性で充足していたことを象徴している。

   こうしてワンダーフォーゲルは、協賛する大人の目に見守られ、そのうえ、いわばプロイセン文部省のお墨付きまでもらって、生徒たちのなかに広がっていった。いまやシュテーグリッツにとどまらず、そこのギムナジウムの卒業生が入学した大学の都市において、彼らの指導のもとに徒歩旅行は繰り広げられた。主にハイデルベルク、イエナ、ゲッティンゲン、ハノーファー、ブレスラウなどにおいてである。

 では、ワンダーフォーゲルの活動とはいったいどのようなものであったのだろうか。ワンダーフォーゲルの特質としてはなんといっても「自然と過去への逃避」であった。よって、その活動の中心は、当然徒歩旅行である。夏季、それにクリスマス休暇、復活祭のころなどに学校の休日を利用して旅行が計画された。また、運動が活発化されるにつれて、休日だけでなく平日にも「ネスト」(たまり場)や「ハイム」(寄宿舎)がつくられ、集会が開かれるようになった。そこでは、合唱、読書、リーダーを中心とした体験談、学校や個人的な悩みの交流が行われた。このほかにも、スポーツ競技、「戦争ゲーム」、素人芝居、合唱コンクールなどの活動があった。それに加えて、業績も残している。中世賛美への傾向を著しくしていった結果、音楽文化を発展させたことである。古い民謡を収集することや、合唱団とオーケストラが奨励され、グループ全体で合唱することは運動に不可欠の要素となっていた。長い間忘れられていたドイツ民謡のルネサンスを引き起こしたのである。リュートとギターはワンダーフォーゲルによって再発見され、民族舞踊も好んで行われた。このことは、ワンダーフォーゲルのうみだした重要な文化的副産物であるといわれている。

それでは、ワンダーフォーゲルの組織形態はどのようなものであったのだろうか。組織的にはワンダーフォーゲル運動は、最低7、8人から20人ぐらいのメンバーでつくられたグループを単位として、それを基礎に、市町村――州――全国の枠でそれぞれ「オルツ」・「グルッペ」―「ガウ」―「ブント」という組織系列が形式的につくられていた。しかし、決して中央集権的な全国組織といえるようなものではなかった。

 次に年齢的には、22〜25歳のリーダーを別にすると、普通12歳から19歳までの青年が集まってつくられていた。というのも、長期の厳しい徒歩旅行を主要な活動としたことから、12歳以下では体力的にそれに耐えることができず、そして19歳にもなると、ギムナジウムを卒業してそれぞれ分岐した人生コース(進学・兵役・専門訓練)にはいっていくからである。

 また、新メンバーについては、学校・スポーツクラブにおいて、そしてそれ以上にしばしば街頭での接近によって募集され、獲得されたが、新人たちは自分の好みによってグループに参加した。各グループによってメンバーの選出基準は多様だが、試験やテストを課すところもあった。グループ内の規律もあったが、最後にはメンバーの個性的自我とその成長に重点がおかれており、集団優位というよりも、個人本位の組織性格を持っていたといえるであろう。

このように、拡大していったワンダーフォーゲル運動であるが、彼らは、思想的統一よりも感情と行動の共有の上に成り立っていた若者集団であるので、量的増大は、対立を引き起こす誘因となる。例えば主なものを見ていくと、すでに1904年には、フィッシャーの権威主義的指導と遍歴活動の方法をめぐって反対派が生まれ、1908年にはつらい、粗野な遍歴一辺倒ではなく、文化活動をも重視する「新ワンダーフォーゲル」が分かれた。そしてこれに対して「古ワンダーフォーゲル」と名のったフィッシャー指導のグループから、1910年にはさらにブロイヤーをリーダーとする「若いワンダーフォーゲル」が生まれた。

 ワンダーフォーゲル運動が、このように自発的に発生、分裂、大同団結へと歩みを進めていた時期は、ドイツの「青年層の組織化」が大きな波に乗ったときでもあった。1890年以降、「青年を制するもの,未来を制する。」と言う言葉の登場に示されているように、青年が政治的・社会的諸対立の行方を決する重要部隊として、政府・軍・諸政党・教会などから熱いまなざしを向けられるようになり、それぞれで青年組織を結成するようになる。1911年、政府・軍は、こうした動きから青少年を引き離し、自分たちの側へ獲得するために、「青年ドイツ同盟」を創設した。そのようなときに、軍国主義的なナショナリズムに反対して、政治的大衆闘争によってではなく、文化的ヘゲモニーの確立によってドイツを再生しようとして開催されたのが、「ホ−エ・マイスナー大会」であった。

 この大会の直前、従来のワンダーフォーゲルとは違い、より「政治化」された、「自由ドイツ青年」というものができることになる。その団体は学生団体その他13団体の連合組織として誕生し、その大会の開催に有力な役割を果たした。

 この大会においては、「真の愛国心、祖国的任務」の遂行と、「青年自らの生活の形成」=「青年の自立」が宣言されただけで、目的とされていたワンダーフォーゲルの大規模な統一体の形成はならなかった。

この宣言の内容をめぐって、開戦と敗戦、革命と激動する政治的・社会的状況の中で、広義の政治的意識をもった自由ドイツ青年は、混迷・対立を深めていく。その結果、自由ドイツ青年もワンダーフォーゲルも終末を迎えることになる。彼らは、「社会組織全体に組み込まれていない」ということのなかに、青年が社会変革の担い手になりうるという根拠を見ていた。しかし、政治的社会的激動と対立のなかで、社会の諸利害にとらわれずに、その理念を守ることはできなくなっていたのである。

 

第2節 ワイマール期の青年運動

 前述した通り、戦後激動期において、自由ドイツ青年は分裂、解体していった。そして、それと同じ時期(1920年から1923年)に、その運動に加わっていなかったワンダーフォーゲル諸団体の変容と転身もまた進行することになる。これらは自由ドイツ青年ほどには政治的に揺さぶられることはなかったが、革命的激動の影響を受けていないわけではなく、政党的政治から距離を置くという点では「非政治的」であったが、危機にある民族を再生しなければならないという、広義の政治的意識を持つようになっていた。そして、大戦でその最良の指導者を失ったという事情もはたらくなかで、グループの発生と消滅は頻繁であった。

 こうして生まれたのが「同盟系」と呼ばれる諸団体であった。 ワンダーフォーゲルは社会変革の思想をほとんどもたず、没政治的逃避に走ったが、「同盟系」諸団体は反ワイマール的社会変革の使命感を全活動に示していたところに対照的な特徴を持っている。したがって、ワンダーフォーゲルが「目的の欠如はわれわれの力である」を信条に、個人の発達と自然成長に力点を置いたのに対して、「同盟系」の活動では、社会変革を目的とした集団が個人の自由や自立に優越し、はるかに厳しい規律が支配的であった。「兵士」を理想像として、そろいの制服に身を固めた「同盟系」の活動には、遍歴、森林地への隠退とならんで模擬戦闘や戦争ゲームが登場し、恋のうたや小唄の愛唱に代わって軍歌の高唱が響くようになった。シュプレヒ・コールの採用が広がり、そして女子は活動から完全に締め出された。

 このように、ワンダー・フォーゲルの流れを受け継いだ「同盟系」団体以外にもワイマール期には様々な青少年団体が存在した。それらの集合体が「ドイツ青少年全国委員会」である。この基礎となるものは、早くも1919年6月結成され、その後国家機関から独立した。1923年には、「同盟系」、教会系、職業系、スポーツ系、政党系、婦人団体系、ユダヤ系など合わせて350万人の青少年が所属していた。その全国委員会は「若い世代を肉体的、精神的倫理的に高め、民族と国家における責任ある共同活動へと準備すること」を目指し、青少年関係の法案についての審議、全青少年の福祉向上、働く青少年の労働条件の改善、余暇の有効利用を目指して多面的な調査、情報提供、会合・催物の企画・実行などの活動をした。参加団体のうち、最大勢力をもっていたのは、カトリック、プロテスタント両系統の宗教団体である。宗教青年団体はあわせて100万人をこえるメンバーをもち、体育・スポーツ系とならんで、勤労青年の上にも強い影響力をおよぼしていた。

 それでは、ワイマール期の青少年団体を簡単にみていくことにする。まず、前述した「同盟」系団体であるが、これは、戦前のワンダーフォーゲルの流れをくむ運動である。多数の組織に分かれており、ワイマール期を通じて離合集散を繰り返していたが、1924年ごろから自分たちを表す言葉として「同盟」が使われはじめ、諸団体の団結が模索されていた。

 「同盟」系の諸団体に所属するメンバーは合わせても5万1150人で「全国委員会」に加入する各団体の中ではまったくの少数派である。だが、この運動が他の青少年団体に与えた影響は、人数の少なさから推測されるよりもはるかに大きかった。自分たちの運動を人間形成の場とみなす「自己教育」の考え方、「青年の自立」を強調する態度が青少年の間に広がっていたし、リュックサックを背負っての旅行、キャンプ、キャンプファイアー、歌など「同盟」系の活動スタイルは、ワイマール期の多くの青少年団体に取り入れられていた。シーラッハも後に、ヒトラー・ユーゲントは「同盟」系の団体から多くの要素を取り入れたことを認めている。「青少年による青少年の指導」と言う理念、民族や故郷や連帯への意志などである。

 「同盟青年」運動が主として都市のブルジョワ青少年の運動であったのに対して、青年労働者たちによって組織されていたのが社会主義系の諸団体であった。「全国委員会」に加入していた6つの社会主義系青少年団体の中では、ドイツ社会民主党系の自由労働組合の青少年部が26万7000人と一番多くのメンバーを擁していた。これらの団体メンバーには、熟練工や手工業者、職員など職能を重視する青年労働者が多く、彼らは青少年団体が提供する教育的要素や文化的要素に魅かれていたという。また、社会主義青少年団体の中にも「同盟青年」運動の活動スタイルが浸透していた。

 青年労働者の団体には、「全国委員会」に加入していない共産主義青少年連盟もあった。この組織のメンバー数は、1927年11月1日の時点で1万8377人、31年1月には6万人に増加している。社会民主党系の諸団体が「教養主義的」色彩を色濃く持っていたのに対して、共産党系の団体には、デモ行進や選挙闘争など政治活動を前面に押し出す傾向があった。青年労働者の中でも特に未熟練工は、こうした行動主義に魅かれて共産党系の団体に入ることが多かったといわれている。そういった面では、ワイマール期のヒトラー・ユーゲントと共通する面を持っていたといえる。

 カトリック系の青少年団体は、ワイマール期に目覚しい発展を示している。特に、1926年11月にルートヴィヒ・ヴォルカーが「カトリック青少年連合」(1930年以降は「ドイツ・カトリック青少年連合」)の総長に就任してからは、青年運動の特徴が取り入れられ、組織も整備され、多彩な活動を展開するようになった。カトリック青少年団体はこの組織のほかにもあったが、「カトリック青少年連合」は、33年には36万5000人の会員を擁し、カトリック青少年団体の中ばかりか、ドイツ全体においても最大の男子青少年組織であった。

 「カトリック青少年連合」は、年齢別には、14歳までの「少年団」、18歳までの「青年団」、18歳以上の「若衆団」に分かれていた。また、下部組織としてはスポーツ団体である「ドイツ青年の力」、精鋭とみなされた「突撃団」など5つの団体が所属しており、これらの団体はさらに多数の個別協会に分かれていた。

 「青少年連合」総長ヴォルカーが「われわれは、キリストの若き宗教共同体にならんとしている。……それゆえ、われわれの組織は階級も地位も区別しない。」と言っているように、会員の職業構成は、当時のドイツの全青少年の職業構成とほぼ一致していた。ワイマール期の青少年団体の多くが階層別、職業別に組織されていたことを考えると、この「青少年連合」の特異性が明確になる。「青少年連合」は、ヒトラー・ユーゲントがめざすことになる「階級なき民族共同体の実物教育」をすでにワイマール期から実践していたのである。また、後のヒトラー・ユーゲントと同じように、青少年のあらゆる生活分野を掌握することもめざしていた。宗教教育はもちろんのこと、肉体の鍛錬、性格の陶冶、純潔教育、家族の形成にむけての教育、職業教育、政治教育などである。

 このように、各団体はそれぞれに活動しており、ヒトラーの政権獲得以前に、組織的にヒトラー・ユーゲントに合流することはなかった。しかし、ヒトラーの政権獲得直後にその状況は一変することになる。

 「同盟」系団体がヒトラー・ユーゲントと距離を保っていた最大の理由は、ヒトラー・ユーゲントが「政党の組織」であるということであり、ナチス党の目指す民族主義国家の建設というものに目を向けたものではなかった。第一時大戦後、自らを新しい時代の担い手と考えていた青少年たちは、階級対立を克服し、国境外ドイツ人を統合してドイツ民族の共同体を創る使命があると考えていた。そのために彼らは、「同盟系」諸団体は、その「新しい国」をつくるための「新しい人間」を育成する団体であると位置付けていた。そのような考えにはきわめて強い政治意識を見て取れる。彼らの行動は精神的・非政治的だったが、彼らの思考のなかでは、ナチズムへの共鳴は小さくなかったのである。

 もともと、ワイマール共和国に良い感じを持っていなかったプロテスタント系の団体は1931年までにグループぐるみでヒトラー陣営に移っていったし、「同盟」系のメンバーなかにも、ヒトラーの政権獲得直後にナチ党に入党して、ナチ党を支持する声明を発表している者もいる。

 もちろん、すべての青少年がナチ党に自発的に同質化していったわけではない。同盟系のいくつかの団体は、これまでの「同盟」的な発想にしたがって、大同団結することでナチスの脅威から身を守ろうとする動きも出てくる。それが1933年3月28日に発足した「大ドイツ同盟」である。彼らは、ナチス国家に、とりあえず忠誠を誓うことによって、ヒトラー・ユーゲントと並んで同盟青年運動の活動を持続させようとしたのである。しかし、その試みもむなしく6月には解散させられることになる。

 第2章でも触れるが、このように、ヒトラーの政権掌握後には青少年の統合が急速に行われていくこととなる。ここに、ワンダーフォーゲルに始まったドイツ青年運動は終末を迎えることとなるのである。それでは、次章からはナチスあるいはヒトラー・ユーゲントはどのようにして青少年を統合していったのかをみていくことにする。

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