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□京都の老舗かばん工房道路一本挟んでお家騒動泥沼化…|スポーツ報知
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京都の老舗かばん工房道路一本挟んでお家騒動泥沼化…NEWS X
京都の老舗かばん工房「一澤帆布(いちざわはんぷ)」。先代の社長・信夫氏が残したとされる「2つの遺言状」が発端となった“お家騒動”は6日、兄弟の亀裂が決定的となった。長男・信太郎氏(60)によって追い出される形で同社を後にした三男・信三郎氏(57)は、元の職人らと新会社「信三郎帆布」を設立。この日、新ブランドを販売する店舗を一澤帆布の斜め向かいにオープンさせた。一方、会社が休業状態となった信太郎氏は、法的手段を検討するとともに、職人を新たに募集するという。
午前9時。「信三郎帆布」に50人以上の行列がなだれ込む。整理券は3時間待ち。結局、オープン初日は一澤帆布時代の繁忙期の倍にあたる約3000人が来店した。盛況に信三郎氏は「人の気持ちと社員の頑張りに支えられた」と感無量の表情。一方、斜め向かいの「一澤帆布」は入り口が閉まったままの休業状態だ。道一本を隔てて見事なコントラストが描かれた。
お家騒動の発端となったのは、信太郎氏が主張した「第2の遺言状」だ。兄弟の父・信夫氏が生前に作成した97年12月12日付の「第1の遺言状」に従えば実質的な経営者だった三男・信三郎氏と恵美夫人(56)が「一澤帆布」株式の大半を保有することになっていた。
01年に信夫氏は他界。死後4か月たって信太郎氏が、生前信夫氏から渡されたという第2の遺言状(00年3月9日付)を持って現れた。株式のほとんどを信太郎氏が所有するという全く逆の内容。効力を巡り裁判で争ったが04年12月、最高裁は第2の遺言状を「偽物とは言いきれない」と認めたのだった。
だが、信夫氏の弟で現役職人・恒三郎(つねさぶろう)氏(88)は第2の遺言状に疑問を投げかける。作成日時には、信夫氏はすでに要介護状態で遺言状が書けなかったことや、便せんにボールペンで書かれていること、さらに名字が「一澤」ではなく信太郎氏の登記上の名字の「一沢」になっていた、と反論した。
昨年12月の臨時株主総会で、信三郎氏は信太郎氏側から社長職を解任された。約70人の職人、スタッフ全員は、これに反発。信三郎氏とともにたもとを分かち新会社設立に参加した。
信太郎氏は京大を卒業後、東海銀行に就職。父の死まで家業には、まったく関心がなかったという。骨董の収集が趣味で、岡崎市の自宅には外車を3台所有するなど、近所では「お金持ち」といわれていた。
しかし「信三郎の所へ何度も金の無心に来ていた」(当時の一澤帆布関係者)と証言する声もある。自宅付近では、海外赴任で留守中の隣人のガレージを、無断使用するなどトラブルもあったという。
同日、一澤帆布前で取材に応じた信太郎氏は「(信三郎帆布に対し)法的手段の対象になるか検討している」と発言。和解については「向こう(信三郎氏)が言って来たら考える」と話した。だが、両者のおじである恒三郎氏はこう言い切った。「和解はない。信三郎がこれだけの仕打ちをされちゃなあ…」
◆一澤帆布 京都の老舗かばん工房。創業は1905年(明治38年)。帆船用の丈夫な帆布を使い、当初は職人たちが仕事用具を持ち運ぶかばんや、牛乳屋の配達かばんを作っていた。その後、京大山岳部も使用し、トートバッグを中心に80年代から人気に。最近では米人気モデルのナオミ・キャンベルも愛用品に挙げるなど、大学生などの若者を中心に大ブレーク。タグに記された店舗住所「知恩院前上ル(北側)」が、おなじみ。商品の種類も現在では200種類を超える。
2006年04月07日08時15分
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