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「大正デモクラシー」というと、なんとなく誇らしげの感を催される方も多いかと想う。それでは、その時代の国民的コンセンサスはどんなものであったろうか。これを御存じの方は意外と少ないのではないだろうか。
あの時代の国民的コンセンサスは、「内に法治主義、外に拡張主義」であった。拡張主義とは侵略主義である。吉野作造ですら、この意識に浸っていたという。拡張主義(侵略主義)を是とする理由は、「日本は狭い国土に多くの人口を抱え、海外に領土を得ないと国家が成り立たない」というものであった。
こんな考えは江戸時代まではなかった。このような考えが生まれ出でたのは、明治十年代半ばごろの山縣有朋あたりではないかと想うのだが、明確なことは分からない。
ただ、日清。日露の戦争を経て、拡張主義(侵略主義)が猛威をふるい出したのは確かだ。当然大正期には国民的コンセンサスになり、そのまま昭和の戦争へ進んで行った。ということは、昭和の戦争を軍閥は加害者、国民は被害者と捉えるのは誤りだろう。
国民も又、加害者であった。そんな例を一つ上げてみる。戦地の兵隊に慰問袋を送るということは戦争中期頃までかなり頻繁に行なわれたようだ。ある兵隊が小学生から貰った慰問袋の中の手紙には、「兵隊さん、僕の土産にチャンコロの首を持って来てください」としてあったそうだ。
小学生が用意する慰問袋であるから、親や教師は必ず品物は勿論、手紙も検閲するだろう。となれば、「土産にチャンコロの首」は公認されたものといえる。こうであれば、国民も又、加害者であったと言われても仕方がないだろう。
「悪いのは軍閥で国民は被害者だ」といった毛沢東の発言(これでよかっただろうか、記憶がかなりあやふやとなっているので)は極めて高度な政治性を持つ。この発言は一枚岩であった日本国に軍閥とその他国民の対立軸を持ち込んだものだ。しかし、この毛沢東発言に惑わされる事なく、軍閥と一枚岩であった国民も対外的には、加害者であったと認識することを忘れてはならない。これをあやふやにしてしまうと戦争の反省など出来ない。
昭和の戦争は戦争の15年を省みるのではなく、大正デモクラシー時代には国民のコンセンサスとなっていた、「外に拡張主義」まで溯る必要があるのだ。
しかし、ただ一人「外に拡張主義」に反対した者がいた。石橋湛山(東洋経済新報)だ。彼は植民地放棄論を唱え、軍備縮小を唱え、内政専念を主張した(小国主義)。だが、彼の主張に同調して勢力を為すものは出てこなかった。だが、敗戦により、否応なく狭い国土に閉じ込められて、軍備を廃し(後に軽装備軍隊を持つが)、内政に専念するはめになった。湛山の主張した小国主義が実現したのだ。この湛山の主張した小国主義が正しかったことは、その後の高度経済成長への道を開いたことで立証されたのである。
大正デモクラシーをこんな観点見る事も、それなりの価値があるのではないかと想い記してみた。
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