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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu116.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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スティーブ・マックイーン主演 『砲艦サンパブロ』
中国の排外主義と日米英との紛争は今も昔も変わらない
2006年3月24日 金曜日
砲艦サンパブロは中国の居留民救出に向かう
◆砲艦サンパブロ(1966年)
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=21206
1926年の中国。楊子江沿いの閑港長沙に駐留する米海軍のオンボロ砲艦サンパブロ。異国の果てのヒマな任務に慣れ切った乗組員達は、毎日秩序のない怠惰な生活を送っていた。しかし、中国国民党と学生達の一斉蜂起が勃発、否応なしに歴史の過酷な渦に巻き込まれていく。名匠R・ワイズ監督の三時間に及ぶ大作で、題材を第二次大戦前の中国にとりながらも、製作当時激しさを増していたベトナム戦争への強烈な批判が見てとれる。大国による海外派兵の愚かさを、出先で犠牲となる水兵達の視線を通して活写、安易に戦闘シーンに流される事無く、艦内の人間模様に重点を置いた演出は堂々たるもの。主役の機関兵を演じたマックィーンは勿論、マコ、R・アッテンボロー、R・クレンナ、S・オークランド(彼は後に「ブリット」でもマックィーンと共演)と、出演者の多くが見事な演技を披露、見応えのある仕上りになっている。
中国共産党はアメリカを内戦に巻き込もうとしていた
◆「第一次南京事件」と日本側の無抵抗政策
http://mikawa-b.hp.infoseek.co.jp/kougi7.htm
第一次南京事件の背景をまずは説明しなければならないでしょう。
当時の南京には、日本は勿論、欧米列強国の領事館が存在しました。
当時、中国の排外運動は苛烈でした。それは教科書でも習ったことだと思います。
そして、当時はまだ満州事変すら起きておりません。
すなわち、日本の軍隊の影響力は南京において皆無でした。
そんな中、中国は袁世凱死去により、軍閥同士の内乱状態に陥っておりました。
無政府状態に陥った中国での居留民の安全が脅かされるようになり、英米はそれを非常に危惧していました。
一方、当時の日本は幣原外交の時代でした。
幣原外相が中国に対して宥和政策を採っていたのは歴史教育でも語られているところです。
そして、当時は日本人の間でも欧米列強に対する反感は強かった。
(ワシントン条約以降、明らかに国力で欧米に劣っていた日本の反感と恐怖は容易に想像が付きます)
そんな中、広東軍閥の蒋介石率いる北伐軍が南京へ進軍してきたのです。
北伐軍の南京突入が近い、と判断した日本領事館は、揚子江を哨戒中だった海軍の駆逐艦に警備を要請しました。
(当時の揚子江は国際水路でした。)
一方、日本人居留民も戦闘に巻き込まれるのを恐れ、領事館内に避難していました。
南京市外ではなく、領事館内に避難していたということから、北伐軍が南京に突入したとしても大規模な戦闘はないと考えていたことがわかります。
まして、軍閥とは無関係の外国領事館が攻撃を受けるということなど、想像もされていなかったはずです。
実際、領事館を警備をしていた海軍の水兵も、荒木大尉率いるわずか11人でした。
そして、1927年3月24日、時刻は午前7時という朝、日本領事館に突如北伐軍の兵士たちが突入してきたのです。
兵士たちは、領事館の人間、日本人居留民に対して暴行を加えました。(暴行の詳細についてはこちらを参照してください)
被害は、日本領事館のみならず、英米をはじめとする各外国領事館にも及びました。
このときに被害を受けたなかった領事館は、ドイツとソ連のみだったとされています。
このとき、揚子江を通過中だった日本の船会社の船舶が、北伐軍の攻撃を受けます。
この船舶を護衛していた駆逐艦の水兵一名がこのとき死亡しています。
日本だけでなく、英米にも死者が発生していました。
この北伐軍の暴虐に憤慨した英米は、揚子江より海軍を用いて南京市に砲撃を加えました。
暴行を加え続ける北伐軍への警告を意図したものでした。
英米が艦砲射撃による警告を加えようとする前に、
北伐軍が南京に接近している段階で、居留民の安全を憂えた英米が日本も共同介入に加わるよう要請していました。
しかし、幣原外相は、これを拒絶します。
英米に対して幣原外相は
「中国と全面戦争になれば、中国の拠点を全て制圧するのにどれだけかかるか分からない。中国に大きな利害関係がある日本は協力できない」
という趣旨の回答を行いました。
これは、当時の情勢を反映した、リアリストの回答のように思えます。しかし、幣原の採った政策は大きな問題となるのです。
日本領事館が北伐軍兵士に突入を受ける前日まで、領事館正門には荒木大尉らによって機関銃座と土嚢が設置されておりました。
それが森岡領事の「北伐軍を刺激しないように」との指示で撤去されたのです。
また、警備の水兵たちにも、武装解除を命じます。
後になって、森岡領事はこれを独断の指示だったと証言していますが、ではなぜそもそも海軍への警備を依頼したのかが疑問となります。
恐らく、幣原が英米の介入要請を断ったため、それに連なる指示が南京の日本領事館にも伝わっていたのだと思われます。
こうして、日本は北伐軍に対して「無抵抗」の態度を取ることで、平穏に南京占領を済ませようとしたのです。
しかし、現実には日本領事館に北伐軍の侵入を許すことになりました。
このとき南京には500人以上の日本人が居たとされますが、南京市内の日本人住居は全て暴行略奪の対象となりました。
朝から始まった暴虐は、昼前になって、北伐軍の指揮官らしき男によって、一時制止されましたが、その後も略奪は続きました。
日本人が北伐軍の暴虐から解放されるのは、午後四時に英米海軍が南京への砲撃をする中、日本海軍の決死隊が到着して日本人を砲艦まで避難させたときでした。
暴行略奪は、最初北伐軍の兵士によって始まりました。
しかし、排外の機運が高まっていた中国人市民たちは、この兵士たちの暴行に加わり、領事館や日本人住居に対して暴行略奪を加えたのです。
それに対し、日本人はただただ耐えるだけでした。
警備隊も武装解除された11人のみ、唯一の防御設備だった機関銃座と土嚢も撤去されており、中国人の大群に対し、なんらなす術はなかったのです。
警備隊を指揮していた荒木大尉は、軍人でありながら何ら抵抗することが出来なかったことを恥じ、救助に来た砲艦の上で自殺を図ります。
これは明らかに国際法に反する行為でした。
本来ならば、日本は直ちに北伐軍への抗議を行うべきだったでしょう。
しかし、幣原外相はそれをしませんでした。
それどころか、対中国との外交を有利に進めるため、被害の実態を隠蔽し、英米に責任の一端を押し付けようとしました。
領事館内で婦女子が中国人によって強姦されたという噂は根強くありましたが、その事実も外務省は否定しています。
この事件で死亡した日本人も、公式には駆逐艦の水兵一名しか発表されておりません。
結局、国際的には、この「第一次南京事件」を起こしたのは、北伐軍に紛れ込んでいたコミンテルンの陰謀と認定されました。
日本側もそのように判断し、蒋介石への追求は避けたのです。
元々中国軍閥と衝突が激しかったイギリスは、領事までもが殺される寸前だったこの事件をきっかけに、コミンテルンの親玉であるソ連との国交を断絶しています。
当然、事件の一報を聞いた、当時の日本国民は激怒しました。
野党からも、政府の対応の不手際を追求されましたが、追求されたのはあくまで日本政府の責任でした。
しかし、首謀者が中華民国だろうとコミンテルンだろうと、
日本人の中国への反感は、この「第一次南京事件」を契機に激しく燃え上がり、幣原外交への批判は急激に高まることになるのです。
というのも、この中国に対する「無抵抗政策」の失敗は、これが初めてではありませんでした。
ここで、この「南京事件」を第二次や第三次と呼ぶ根拠が出てくるのです。
人質をとってアメリカ海軍を挑発する中国共産党軍
(私のコメント)
昨日のNHK-BSで『砲艦サンパブロ』を放送していましたが、40年も前の映画ですが、この頃のハリウッド映画はこのような名作を作る能力があった。1966年の作品だからベトナム反戦を意識した内容の映画で、1926年の中国の内戦に巻き込まれようとするアメリカの砲艦の物語です。
1927年の第一次南京事件を時代背景にして、米英や日本に対する中国の外国排斥運動と、蒋介石軍や張作霖軍や共産党軍などが入り乱れていた時代ですが、100年近く経った現代も中国の状況にさほど変わりがないのに驚かされる。去年の4月の反日デモや日本領事館などへの襲撃を見ると、排外主義の伝統は今でも生きているようだ。
アメリカやイギリスの知識人は1920年代の中国の状況をよく知っているから、中国の排外運動はよく知っているのですが、日本人の若い人は近代中国史をほとんど知らないから、サッカーのアジア杯における反日デモで驚いた人が多いようだ。テレビなどでは日本軍の軍事支配に対する反発だと言っていますが、日支事変以前の頃も米英に対する排斥運動は激しかった。
むしろ日本は幣原外交政策で中国人の日本人への暴行事件に対して無抵抗主義を貫いていた。最近でも日本領事館の職員が中国の公安に脅されて自殺した事件がありましたが外務省は抗議することなく内密にしていた。それくらい日本は中国に対して刺激しないように努めていたのです。
『砲艦サンパブロ』では、第一次南京事件が起きて中国在留邦人保護のために出動しますが、使用していた中国人乗組員が共産党に捕まってリンチされる。当時は蒋介石と共産党が協力していて、共産党員が意図的に米英人などを襲って内戦に巻き込もうとしていたようだ。第一次南京事件では日本領事館も襲われて避難した女性が暴行された。
もちろん内乱状態になって日本政府から退去勧告なども出ていたのですが、多くの居留民が残っていて事件が起きた。これに対して幣原外相の弱腰外交が非難されて若槻内閣は総辞職に追い込まれた。このような状況を見ると最近の中国とよく似てきましたが、中国では抗議デモが年間八万件も起きて北京政府もいつまで持つのだろうか。
このように米英と日本は立場は一致していて中立を保つ状況だったのですが、日本国内の対中強硬論が台頭してきて山東出兵などはじめとして、日本軍は中国にずるずると引き込まれるようになった。このように中国共産党の陰謀によって日本軍は中国に介入するようになり、いつの間にか米英と日本は対立する立場になった。
盧溝橋事件も張作霖の爆殺もソ連崩壊後の資料が出てきて共産党の工作によるものと解明されましたが、日本軍は共産党の工作活動には気がつかなかったのだろうか。現在も中国には多くの日本企業が中国に進出していますが、北京政府の統制が弱まれば再び1920年代の頃のような軍閥が台頭して内乱状態になるだろう。そうなれば在留邦人が襲われて国内世論は強硬論が起こるだろう。
『砲艦サンパブロ』はアメリカから見た当時の中国がえがかれていますが、多くのアメリカ人や中国人が暴動にあって被害者を出しましたが、一時的には軍を出しても深入りはせずにすぐに引き揚げましたが、日本は次々と軍を投入して撤退はしなかったのが失敗の元で、米英からも疑りの目で見られるようになってしまった。
米英と日本とではどう違ったのだろうか。米英は事件の拡大を防ぐためのシビリアンコントロールが利いていたのに対して、日本は強硬な国民世論と軍部に政治が押し流されてしまった。軍人たちに大局的な見方が出来ていれば、上海事変でもすぐに兵を引くべきなのに深入りしていってしまった。だから共産党の陰謀に見事にはまってしまった。
砲艦サンパブロは軍艦と言うよりも武装がほとんどなくて動く領事館のようなものですが、海軍軍人にはこのような外交官としての見識もなくてはならないのですが、日本の海軍軍人は視野が狭く上海事変でも米内海相は陸戦隊を次々と投入してシナ事変を拡大してしまった。それに対して砲艦サンパブロの艦長は事件を起こしてしまった責任をとるような形で自殺的な戦死をする。それだけ政治的な認識があったのだ。その辺が日米の海軍軍人の資質の差なのだろうか。
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