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なぜこんなにも庶民大衆は力をなくしてしまったのだろうか、と長いこと考え来た。その末に浮かんだものがあった。それは庶民大衆が集団化することがなくなったからではないかと。
庶民大衆が事ある毎に集団化してものを申していたなら、こんな粗末な政治状況を甘受する事はなかっただろう。又、連年の自殺大豊作のような末代まで恥じを残す事もなかっだろうと思うと、集団化出来ずにバラケきった庶民大衆に哀れさを覚える。
そこでなぜ庶民大衆が集団化出来ないのか。その原因は、と考えてたどりついたのがテレビであった。テレビは娯楽教養を賄うだけでなく、テレビに同意する受け手に市民権を与えて呉れる(現実にはテレビと考えを同じにすることで、社会的自己の存在感を勝手に味わっているのだが)。
そうなるとテレビと上手に付合ている自分は立派な社会人だという勘違いが出来上がる。このように一旦勘違いした者は近所隣りあるいはもう少し広く町人(まちびと)からの評価など要らなくなる。あくまでもテレビと自分だけの関係が大事になる。この関係を維持したいが為に、一方的に送られて来るテレビに悉く同意する事になる(人よっては、番組のある部分に反発することもある。しかし、その番組の別の部分を多いに是としている)。
こんなテレビと自分だけの関係を結び、社会と自分の関係は”テレビ=社会”とすることで充足してしまう。よってこのような関係を庶民大衆が構築した所からは、テレビの煽動がないかぎり庶民大衆は集団化しない。
処が日本以上にテレビの歴史を持つ西欧諸国などでは、庶民大衆はなにかというと集団化(デモに及ぶ)する。国家的問題でも、ローカルな町村の問題でも。この日本との違いも究明しなければならない問題だ。
そこで(これも仮説だが)浮き上がってくるものは、民主主義の長さではないだろうか。日本の民主主義は敗戦後から始まるといわれている(なぜ、こんな言い方をするかと言えば、占領期間を民主主義というのに疑問を持っているからだ)。そして、テレビが大普及するのは、皇太子ご成婚、東京オリンピックだった。とすると、テレビのない時代の民主主義時代は20年もなかった事になる。
集団化出来ない日本と、直ぐに集団化する西欧諸国の違いを、テレビのない民主主義の時代の長さに求めてみた。民主主義は庶民大衆の集団化を阻害しない。そこへ阻害要因としてテレビが割りこんで来た。民主主義の経験の浅い日本は、いとも簡単に阻害物に魅せられてしまった。しかし、長い民主主義の経験ある西欧諸国は阻害物に邪魔される事なく庶民大衆は集団化する。
こんなように想うのだ。では日本の庶民大衆も集団化して力を持つ為にはどうすればよいかという問題が残る。テレビを捨てろというのが一番簡単なのだが、それは荒野に向って叫んでいるようなものだ。賢兄らの智慧はいかに。
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