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以下のようなことは日本だけに限らず、他のアジアの国にも言えるのではないか。本当に15年戦争の実相を知る国民はアジアにもまだないのではないか?
様々な手枷足枷は、日本以外のアジアの国民にもある。陰謀論の所持すら禁止している国もあろう。日本の近代史は日本という役者だけでは成立せず、他のアジアの役者もあって成り立つ劇なのではないか?日本以外の国民はこれを日本だけの事と思わず、いくつかの言葉を読み替えて自国の状況を見てみる必要もあるのではないか。
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自分たちの立場と姿を幻想を排して見るということ【すみちゃん 2004 年 2 月 04 日 】
http://www.asyura2.com/0601/revival1/msg/198.html
投稿者 ワヤクチャ 日時 2006 年 9 月 08 日 23:52:19: YdRawkln5F9XQ
自分たちの立場と姿を幻想を排して見るということ
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/775.html
投稿者 すみちゃん 日時 2004 年 2 月 04 日 18:56:50:xnvpUXgHxuDw6
(回答先: 日本はミネルヴァの梟たりうるか。Re: 私にとっての英霊−それはニューギニア高地の路傍にたたずむ 投稿者 如往 日時 2004 年 2 月 04 日 03:33:20) より抜粋
略
「大日本帝国」が英国にいいように操られてきたように、
「日本国」は米国にいいように操られています。
むしろ「日本国」は「大日本帝国」以上に奴隷の軛につながれた国家だと思う。
(最近の騒動で、その本質が見事に露呈してきました)
これが「自覚の出発点」であると考えます。
ただし、私はそれは「世界が陰謀に満ち満ちている」というごく当たり前の事実を、
直視することにすぎないと思う。
略
(しかし、同時にその足枷になっているのが天皇(制)への憧憬でもあり、
それがいつになっても自立できない日本人のひ弱な特性を象徴していると見ています。
この二つの壁は表裏一体となっていて、
マルクス主義や市場資本主義に替わる新たなFunction&Parameterを措定し検証していかなければ突破でき得ず、
況してや米国(アングロサクソン・アメリカン)の政治圧力を押し返すことなど到底叶わぬのではと推量している次第です。)
私は「狭義の」天皇制はあまり関心がありません。
資本主義世界の中で「いやし系珍獣」という扱いがなされていると思う。
しかしそのような目に見える天皇制ではなく、
何か目に見えない思考の枠とか檻みたいなものがあるような気がしますね。
これが「日本教」というものでしょうか。
私が上で書いたように、
日本政府(あるいは大日本帝国政府)が、
陰謀家達に壟断され、「奥の院」に奉仕し、
国民に苦しみをもたらしてきたし、
またこれからもたらすであろうなんて話は、
世界史を普通にみればごく当たり前の話であるにもかかわらず、
この国では異端でしかないでしょう。
本当は革命を起こすべき苦しみの中でも、
なぜか国民が我慢し、むしろ相互にスパイしあってしまうという悲惨な光景は、
この「暗黙の天皇制」のために現出したのかもしれません。
その意味で同意します。
マルクス主義や市場資本主義に替わる新たなFunction&Parameterを措定し検証していくというのは、
本来は専門家の学者さんに頑張ってほしいのですが、
そういう人は見当たらないみたいですね。
せいぜい修正資本主義、集産主義的資本主義みたいなものが多いのではないでしょうか。
ここを考えるには、「利潤」を求める「会社」という自己増殖オートマトンを
共産主義(国有化)や
修正資本主義(高率の税金だね)
と違う形で再構築する必要があり、
それが多数派に納得のいく形でなければならない。
このために、利潤とそのストックが国家社会的に与える害毒が
認知される必要があり、これが前提となります。
また私有財産についてどう考えるのか?
社会と環境との相互作用(インターチェンジ)をどう考えるのか?
こういう根本問題を問わないといけないということになるのでは?
あまりこういうことを問うた書籍が本屋にないのでは(最近はもう通ってないので分かりません)
略
人民が、支配者の陰謀によって事実上殺戮されているのにもかかわらず、
人民がメディアに懐柔され、支配者に対して怒らないという光景も嫌いです。
(これは例えば大日本帝国のことです。
近代天皇制は、まさにこの点で最大限利用されてきたと考えます。
また、近代天皇制は、真の陰謀家の責任逃れのために利用されてきました。
陰謀家は天皇制を「楯」として生き延びてきた)
略
戊辰戦争の死者は英霊ではありません。
龍馬も、西郷も英霊ではありません。
周知のとおり、神社とは、本来、敗者を、怨霊を祭るべきものです。
明治政府(官軍)は、敗者を、死者を祭ることなく、
政治的敗者である西郷を祭ることもなかった。
こういう敗者絶滅の思想は日本的ではまったくないと思う。
この点で、グラバー以降、1945年8月9日まで、
英国のヒモ付き日本政府の思想行動は一貫しているというのが私の感じ方です。
(「グラバー」スレッドが包蔵するアジェンダは“それを見い出すべし”かも知れません。
しかし、それはどのように後の世に伝えられ結実していったのでしょうか。
ゴルゴダの丘を登るイエス・キリストのようなメルクマールを見い出せぬまま、
ここ日本において先達の遺志は1945年8月の切断から未だに縫合されていないように思われます。)
そのとおりです。
歴史の教訓を理念へと、「特定の形式」へと結実させることができていないのです。
これでは同じ陰謀家に繰り返してだまされることになります。
それがまさに近代日本史なのです。
しかしですね、「先達の遺志」は、そもそも明治の初めから、全然継承されていないのです。
大日本帝国は、「先達の遺志」を殺戮、隠蔽、弾圧することによって、
初めて成立したものです。
(意外な結論でしたか? ここが一番大事な点だと見ています。
明治期の(英霊の)遺志を昭和(初期)の末裔が捉え損なった結末が、
アジア・太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦)
というたぐいの話を、私は信用しない。
これは大事な点なので、誤解のないように、明確に言っておきます。
明治期と昭和期との相違は、
明治期が「英国奥の院による大日本帝国の育成期」であり、
昭和期には英国奥の院が大日本帝国を滅ぼしにかかったということです。
大日本帝国の行動パターンは、朝鮮平和特使として乗り込もうとした西郷を政治的に暗殺し、
次いで江華島事件を起こしたときから基本的に変わっていないと思う。
日本では、龍馬−西郷「受難劇」が作られることはなかった。
「先達の遺志」は、明治の初めに、最初から葬られていたのですね。
「パリサイ」明治政府は、最初から龍馬−西郷受難劇が結実しないように、
強権をもって弾圧を続けていたのです。
(リーマンさん投稿の芥川「西郷隆盛」は、
まさにそういう「弾圧」の事情を物語るものです)
私の考えでは、
福音書は、
パリサイ派が群衆を洗脳煽動し、
パリサイ批判者であり、本来は群衆の救済者であったはずのイエスを、
その当の群衆の手によって殺害させた
そういう物語。
だからイエスは、パリサイ派は徹底的に批判するが、
イエスを殺せと怒り狂う群衆に対しては、
決して怒っていない。
人間であることの深い悲しみと哀れみを感じておられた。
そこが福音書の見どころ。
群衆が荒れ狂えば荒れ狂うほど、
イエスは静かとなり、
群衆の憎しみが激しくなるほど、
イエスの群衆への愛は増し、輝く。
この受難劇のポイントは、
「民衆を食い物にする陰謀家」
「それを暴くイエス」
「陰謀家の煽動によってイエスを殺害する民衆」の三位一体です。
龍馬−西郷受難劇も、少し構図が違いますが、立派に成立するものだと思います。
陰謀家どもによって殺戮され続ける民衆にとって、非常に役に立つ「実際知識」です。
(それは福音書も本来は同じだったと思う。
しかし神格化の結果、本質が分かりにくくなっている)
略
(おそらく国民の多くが国を意識したのは政府のプロバガンダが奏効した日露戦争終結時で、
身体に刻印されていったのがアジア・太平洋戦争(大東亜戦争)遂行の過程であると考えていますが、
未だに日本人は身に起きたことをきちんと捉え直していないように見えます。
吉本隆明以降の何れの論考も肝心なところで「身体性の不在」の状態が露呈し、
原因の究明にまで及んでいるとは思えません。
ただし、すみちゃん(さん)もよくご存知の社会心理学者(?)岸田秀による歴史探訪は精神性の解明には十分役立っていると思います。)
以下略