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日韓は和解可能か?東亜の未来はベルギーか?それとも独仏か?
http://www.asyura2.com/0601/asia5/msg/590.html
投稿者 たかす 日時 2006 年 9 月 02 日 22:12:23: ifeEPcYg7BdHI
 

たとえばベルギーの例などを見れば、両民族の和解は難しいように見えるが、独仏の和解の例もあるから一概に不可能とはいえないか。

ベルギー内部対立に関するサイト↓
WorldReader
http://www.world-reader.ne.jp/wonna_know/uenishi-020604.htmlより抜粋
(貼付け開始)
(2002/6/4)
在オランダ:上西秀明
(略)
 ベルギー民族の旗、歌、神話

 ベルギー王国はオランダ語を話す人々(約60%)、フランス語を話す人々(約40%弱)、ドイツ語を話す人々(約0.7%)からなります。実際にはそこにさらに南欧、マグレブ諸国からの移民や最近の欧州統合の進展ともなって増加してきた他のEU加盟国国民、非EU加盟国国民などを加える必要がありますが、ここではひとまず議論の枠外におくこととします。

 現在ベルギーは以上の言語地域を反映して、北部オランダ語地域はフランデレン、南部フランス語地域はワロニーとして自治権を持つ連邦の行政・立法単位を構成していますが、これらの地域がそれぞれ内的同質性を共有すると信じられ、一つのまとまりを得るのにはさまざまな操作が必要でした。言い換えれば、ベルギーの蘭語話者がフランデレン人であり、蘭語話者がワロニー人であるという意識を彼等自身が共有し、フランデレン民族やワロニー民族(前者については既にかなりその意識が浸透しているといえますが、後者についてはワロニー人というよりフランコフォンという意識の方がまだ優勢であるように感じます)が存立するにはそれなりの積極的な動員政策が必要だったということです。そのような意識を人々に持たせるための最も手っ取り早く、かつ一般的な方法が民族の旗や歌や神話といったシンボルの創造です。これは近代以降に成立した国民国家が自国民の形成のために一様に採った手段で、ただ、ベルギーの場合ベルギー国民の内的な同質性を容易に否定しうるほどに蘭語対仏語といった異質性が明白であったことから、特に第一次大戦以降にはベルギー国民の一体性に割り込むように地域民族の一体性が人々の間に浸透し始めます。

 こうしたことから、現在フランデレン、ワロニー両地域がそれぞれの民族のシンボルを宣言しています。フランデレンの場合、1302年7月11日にフランス王との戦いに勝利したフランデレン軍の活躍を題材に書かれたヘンドリック・コンシアンスのロマン主義小説「フランデレンの獅子」(1838年)にちなんで、同名の民族の歌、「黄色地に黒の獅子」という民族の旗、民族の祝祭日(7月11日)を定めました(1973年オランダ語文化共同体法)。ワロニーの場合はそれよりずっと早く、既に1912年に仏語話者国会議員による非公式なワロニー会議によって「黄色地に赤の雄鶏」の旗(雄鶏はローマ時代に現在のベルギーからフランスあたりに居住していたガリア人を意味します)と9月の最終日曜日をワロニーの祝祭日とすることが宣言され(ワロニーの歴史)、現在に至っています。ワロニー語による民族の歌もようやっと選定作業が終わり、公開されています(ワロニー語歌詞、フランス語歌詞)。

 以上は国家機関による人為的なシンボル創造の例ですが、これ以外にも人々の間に語り継がれながら徐々に広がってきた民族に関する神話もあります。この中には太古の昔の神々の手による民族誕生史といったような文字通りの意味での神話のほか、比較的最近の個人や集団による民族的英雄行為の逸話といったようなものまでさまざまなバリエーションが考えられますが、特に第一次大戦以降のベルギーの場合だと、フランデレン側の「仏語国家ベルギー王国によるフランデレンに対する文化的抑圧」とワロニー側の少数派としてのフランデレンに対する不信感といったものに集約できます。このような相互不信に支えられ、現実においてもいろいろな憶測や噂がベルギー国民の間で日々語られていますが、最近では学術的にこれらの神話を否定するといった地道な作業も一方で行われるようになってきました。しかし、そのような客観的な努力にもかかわらず、民族意識を昂揚させるような政策が莫大な予算をつぎ込む形で行われているのも事実であり、そのことが結局は現在のベルギーのみならず、西欧各国における極右政党の言説に少なからぬ根拠を与えることとなっていると考えられます。結局国民国家形成にせよ、民族地域形成にせよ、その形成プロセスは同じであり、その限りにおいてベルギー王国による抑圧(そういうものが実際に存在したとすることも一つの神話かもしれません)を民族地域主義的ナショナリズムによって克服することは新たな抑圧をどこかに生み出すだけのような気がします。
(貼付け終了)

− ベルギーにおける言語状況 −
http://members.aol.com/Naoto1900/langues/gengo-jokyo.htmlより抜粋
(貼付け開始)
オランダとの分離
16世紀になると、他の国の支配下に置かれているとはいえ、現在のベルギーの領土に近い国境線が引かれて行くようになった。1515年スペインのカール五世(Charles-Quint、Charles X)が王となった「Pay-Bas (17州)」は、ほぼ現在のオランダと、ベルギーに相当するものであった。カトリック教徒であったカール五世はその「Pays-Bas」に強く根付いていた新教徒の存在を、自らの王国の統一を妨げるものと恐れ、新教の信仰(カルバン主義)を禁止し、プロテスタントを次第に北へと追いやっていった。さらにその後、カール五世を継いでスペインの王となったフィリペ二世(Philippe U)は敬虔なキリスト教徒であったため、プロテスタントへの迫害は一段と激しいものとなった。スペインで育ち、スペイン語以外の言葉を全く理解することのなかったこの王は、民衆の心を掴むことは出来なかった。
住民たちの不満は特に迫害を受けた新教徒の間で次第に強まり、ついに1579年北部七つの州は「ユトレヒト同盟 (l'Union d'Utrecht)」を結成し、1581年にはフェリペ二世に対しての臣従の拒否を表明し、自らの自治を宣言した。その後この北部の七州は1648年に「République des 7 provinces unies」として独立を果たすことになる。1568年に勃発したオランダ独立戦争で初代指導者であったオレンジ公ウィリアム一世(Guillaume d'Orange)の孫の代になり、つまりは80年も続いた争いの末、遂にオランダはスペインを追い出すことに成功し、独立を勝ち得ることとなったのである。1648年のこの年、スペインは「ミュンスター講和条約 (la Paix de Munster)」で正式にオランダの独立を承認したのである。
これが現在のオランダであり、現在のベルギーのフラマン人の大半がカトリック教徒であるのに対し、オランダには多くのプロテスタントを抱えるといった状況を作り上げることとなった。この状況は、同じ系統の言語を話す同じ民族であるオランダ人とフラマン人の現在の微妙の関係へと繋がっている。フラマン側の独立主義者たちの多くがオランダへの帰属を望まず、フラマン地方の純粋な独立を求めているのはこの宗教的違いが大きな要因となっているのである。
その後、南部の州は被政者を変えながら1830年の独立革命まで絶えず列強の支配下に置かれたのに対し、北部七州はスペインの支配から抜け出し経済面において、また文化面においても大きな飛翔を遂げていくことになった。いわゆる「オランダ黄金の世紀 (siècle d'Or)」である。オランダは1602年東インド会社設立、1609年には日本の平戸にオランダ商館を設置するなど、その躍進は目を見張るもであった。それに従い、元はアムステルダムで話されていたゲルマン語系の一地域語「オランダ語」が、商人たちや銀行家たちの大きな経済的成功によって次第にオランダの言葉(néerlandais)として統一されていくこととなった。その一方で、スペインの統治下に残ったフラマン地方では地域語の統一は見られず、地方ごとに固有の地域語を話し続けることとなった。このフラマン(緒)語の不統一性が、ベルギー独立の際にフランス語のみに公的なステイタスを与える口実の一つとなったことは後述する。

2.1.2 国家建設
ベルギーが初めて国として独立を果たすのは1830年になってからのことである(憲法の制定、国王の即位は1831年になってから)。スペイン、オーストリア・ハプスブルク、フランス、オランダと絶えず周辺の列強の支配下に置かれ続け(1790年にフランス革命の流れに乗り、一度ブリュッセルにおいてオーストリアの支配に対し「ブラバント革命」を起こし、一時独立を宣言するものも、すぐにオーストリア軍にブリュッセルを奪還され鎮圧された)、最終的な独立へと繋がる1830年の「革命」はオランダ・オレンジ家の支配からの独立であった。
このオランダ・オレンジ家の支配は、1815年のナポレオンのワーテルローでの敗北、撤退を受け、イギリスがオランダ領であったアジアや南アフリカと引き換えにオランダにベルギーを含めた「オランダ王国 (Royaume des Pays-Bas)」の建国を認めたものである。1579年に北と南に別れたオランダとベルギーは再びここにオランダ王国として統一され、イギリス亡命から帰国を果たしたウィレム六世が、新オランダ国王ウィレム一世として即位した。
ウィレム一世がオランダの王として立ちベルギーを支配することになるとになると、まず彼は新王国の統一を掲げ、国内全土にオランダ語の使用を義務付けた。このオランダ語の強制はフランス語話者圏であった(ある)現在のワロン地方においても当然課せられた。しかし、この政策はうまくは行かなかった。フランス語話者圏の住民の激しい反対も当然あったが、それよりもこの計画を頓挫させた大きな要因は、支配者階層の多くがフランス語を話していたという状況である。これはフラマン人の支配者階層においてもそうでり、経済的にも強く発言力のある彼らからフランス語を取り上げ、オランダ語を強制することは至難の技であった。また、カトリックの聖職者がオランダ語の浸透がプロテスタントの浸透に繋がると危機感を感じ、激しく対抗したという宗教的要因もあった。一般の住民がオランダやオランダ語へより強固な抵抗を示したのも、実際は彼ら聖職者の扇動が影にあったと言われているのである。このウィレム一世の中央集権主義的な政策は失敗に終わっただけでなく、フラマン地方、ワロン地方共にオランダに対するベルギー独立の動き盛り上げる結果になったのである。
1830年9月26日から27日にかけて起こった独立への戦いはブリュッセルからオランダ人を追い出すことに成功した。そして10月4日、ベルギーの独立を宣言するに至った。激しい独立への戦いの中で臨時政府が建てられ、選挙や国会が組織され、さらには憲法制定に向けた会議が組織された。新国家建設をにらみ準備に怠りはなかった。
ベルギーは新国家を安定したものにするために王を中心とした王国となることを選択した。しかし、二つの大きな民族が国の中に共存する国家であったために、王の選択は慎重を期す必要があった。フラマン人でも、ワロン人でもない王を選択する必要があったのである。当初、議会はベルギーの国王に、フランス国王、ルイ・フィリップの息子を候補に挙げたが、フランス国王の反対にあい実現しなかった。フランス国王のこの反対は他の列強勢力を刺激することを避けるためであったと言われており、またその旨の条約がそれらの国々の間で交わされていたという事実があった。その後、新たにドイツ人であったレオポルドに白羽の矢を立て、彼はそれを受け入れ1831年の7月21日に初代ベルギー国王として就任した。新憲法も制定され、ここにベルギーはベルギー王国として成立したのである。この王国としての独立は無論ベルギー議会が選択したものであるが、それは当時のヨーロッパのイギリス、オーストリア、フランス、ロシア、プロシアのいわゆる五大勢力の思惑に合致したものでもあった。

2.1.3 連邦国家 : 共同体と地方自治体
独立以前から絶えず存在していた両民族による争いは、独立を果たした瞬間からは今度は国内の争いとして続くこととなった。このベルギー国内を二分する両地域、両民族、さらには両言語の争いは1960台初頭を境に両地域の自治を求める動きへと変化していった。様々な伏線があるにせよ、1960年代がベルギーにおいて大きな変革の時代であったと言うことが出来る。
時代を見ていると、独立以降国の牽引車として大いにその栄華を甘受してきたワロン地方が1950年代後半から産業面での凋落を見始めたいた。19世紀を迎え絶頂を迎えたワロン経済ではあったが、エネルギー資源の石炭から石油への変動という世界の大きな流れに対して柔軟に振舞うことが出来なかった。時代のニーズにそぐわない重い工業一辺倒の産業は次第に硬直化し始め、それでもなおワロン人は変化を求めなかった。それとは対照的に、それまで辛苦をなめ続けてきたフランドル地方はより敏感に時代のニーズを感じ取り、新しい社会的ニーズに即したより軽い産業を展開し、次第に豊かになっていった時代である。
このお互いの経済的立場の逆転はお互いの心理に微妙な変化を与えた。ワロン地方における石炭産業が行き詰まりを見せ、景気のよかった時代に人員確保のために盛んに迎え入れたイタリア系の移民による人口の増加と相俟って、より一層の経済的圧迫感を感じさせるに至った。危機感はワロン人をより「分離的」な方向へと走らせた。「地域が生き残るために、自分たちのために、自分たちで意思決定を行うこと」を激しく求め始めたのである。その一方で、フラマン人は次第に裕福になるにつれ、経済的行き詰まりを見せているワロン地方を煩わしく、重荷に感じ始めた。彼らもまた「地域の文化面の復興の為に、自分たちのために、自分たちで意思決定を行うこと」をより激しく求め始めたのである。
この両地域で激しさを増してきたベルギーの変革を求める動きに対しまず初めに国が出した答えは、ベルギーを分割することであった。1962年、これまで長きに渡り両民族の争いの最前線であり、時代とともにその位置を変化させてきた「言語境界線」を法的に明確に定めたのである。さらに1970年には三つの共同体と三つの地方が独自に自らの意思決定を行うためにより大きな自治権を与えることになった。現在の連邦制の基礎は既にこの時点で出来上がっていたのである。もはやすでに、多くの人々の頭の中から「単一国家」ベルギー、「統一国家」ベルギーの考えは完全に消え去っていたのである。
そして1993年、ベルギーは連邦国家へと移行したわけである。そのモデルはスイスやドイツの連邦制度であったと言われている。しかし現実には、同じ連邦国家とはいえ、そこには大きな違いがあるように思える。スイスやドイツ、アメリカなども含めて、確かにそれらの国々は連邦国家であるが、これらの国がそれぞれの州(état, canton, lander)から「統一」国家が成り立っているのに対し、ベルギーは「統一」国家が、それぞれの共同体、地方に分化したのである。
(貼付け終了)

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