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『月刊朝鮮』 民団・総連和解の内幕
くすぶっていた河丙ィ民団団長の経歴問題が再び持ち上がってきた。『月刊朝鮮』8月号は「河団長は総連が設立した朝鮮大学を卒業」と報じ、1950―60年代の河団長の履歴にスポットが当てられたからだ。河団長は今年2月、団長選出馬にあたり自分の経歴を「東京法政大学3年中退」と公表した。総連との「5・17声明」を説明するため5月22日に持った記者会見で「朝鮮大学を卒業したのでないか」と質問され、「違う。私が通ったのは法政大学だ。朝鮮学校で教鞭をとったのは事実だ」と答え、朝大卒業を否定した。『月刊朝鮮』の報道通りとすれば、経歴は偽られていたことになる。疑いは濃い。自分の学歴をなぜ隠さなければならないのか。河団長は答える責任がある。以下は『月刊朝鮮』記事の経歴問題部分(全文)だ。
文学部正規の第2期生 58年卒業 国語教師に
河丙ィ団長(以下、河団長)の経歴はベールに包まれている。
総連の設立した朝鮮学校で教鞭を執っていたことは本人も認めている。5・17共同声明直後、駐日韓国特派員とのインタビューで、彼は自分が朝鮮大学出身であるという噂について、「過去に朝鮮大学で聴講したことがある」、「一時マルクス・レーニン主義に関心を持っていたが、当時はみんながそうだった」と話した。
彼は民団団長選の出馬の際、自身の最終学歴を「法政大学中退」と記載している。
しかし、河団長の話はうそだった。河団長は朝鮮大学を正式に卒業、その後、総連の機関紙「朝鮮新報」社および「朝鮮通信」社に5、6年間勤めていた。
朝鮮戦争が終わる1953年頃、河団長は19歳で日本に密航している。彼が密航前に韓国で何をしていたかは明らかでない。
日本に落ち着いた彼は「河勲(ハフン)」に名を変えた。外国人登録が難しかった当時の日本において、密航者の改名は珍しいことではなかった。
総連が結成された翌年の1956年に朝鮮大学は開校した。総長には総連の議長だった韓徳銖が就任した。
その頃、法政大学に通っていた河団長は朝鮮大学が開校すると1年生に入学、朝鮮大学文学部の2期卒業生となった。当時の朝鮮大学は2年制。朝鮮大学の前身である「朝鮮師範専門学校」出身者10人余りが2年生に編入し、朝大の1期卒業生となる。
河団長は「しばらくの間、聴講していた」というが、彼は朝鮮大学の立派な正規卒業生である。朝鮮大学同窓会関係者によると「河勲(丙ィ) 文学部2期卒業。現在民団中央団長」と記載されている。
朝鮮大学を卒業する1958年より、河団長は朝鮮学校に国語教師として勤める。1963年には「朝鮮新報」に入社、その後「朝鮮通信」に移った。
彼が総連の組織活動を辞め、民団に転向するのは1967年頃とされている。
こうした河団長の経歴はいままでずっと隠されてきた。韓国の国是を遵守する民団の団長に、総連が設立した朝鮮大学の出身者が初めて就任したわけだ。
河団長は自分の経歴について自ら説明する必要がある。
引用終わり--------------------------------------------------------------------------------
「日本は悪い国なんだから、どんな嘘をついても許されるんだー!!」かな?