★阿修羅♪ > アジア4 > 590.html
 ★阿修羅♪
資料;満州国の麻薬含む】事業「満州国陸軍における歯科軍医制度についての考察」
http://www.asyura2.com/0601/asia4/msg/590.html
投稿者 Kotetu 日時 2006 年 5 月 16 日 20:09:49: yWKbgBUfNLcrc
 

満州国陸軍における歯科軍医制度についての考察

1・はじめに

2・満州国建国の経緯

3・石原莞爾中将の理想と現実

4・満州国陸軍の創設

5・満州国陸軍衛生部の創設

6・満州国陸軍日系軍官の系譜

7・満州国陸軍の軍装

8・歯科軍医の名簿

 

1.はじめに

 

 満州帝国は建国よりわずか十三年で瓦解した幻の帝国であった。「偽国」「日本の植民地」「傀儡帝国」などと、現在の視点から断じるのはたやすい。

しかし、日本人にとって「満州」とは、単に「侵略」し「収奪」するだけの土地だったのであろうか。

 半世紀以上もの長期にわたり、この土地には莫大な国帑が費やされ、何十万人もの日本人の碧血が流れた事実をも忘れてはならないと思う。

 戦前の日本は現在とは比較にならないほどに貧しく、かつ、爆発的に増加する人口に呻吟していた。

がんじがらめのしがらみと、厳然たる階級社会の日本を飛び出し、憧れの大陸に夢を描いた日本人は無数に存在したのである。

 彼らの多くは、日本では決して実現できない夢を満州の別天地で実現しようと試みた。そんな日本人の見果てぬ夢の小さな一つに、満州帝国陸軍の「歯科軍医制度」を挙げたい。

 戦前、歯科医師の地位は低かった。歯科医師が官吏に登用される道もなく、軍隊においても歯科医師は「嘱託」の身分にすぎず、「士官」ではなかった。

 官立の歯科医師養成機関は昭和四年に至るまで存在せず、(昭和4年、はじめての官立歯科医学校である「東京高等歯科医学校」現・東京医科歯科大学歯学部が創設された。)しかし、歯科医学校であるにもかかわらず、そこの教授はもちろん、教官の全員が全て医師を以て充当されると云う有様で、ただの一人も、歯科医は採用されなかった。

 国民にもっとも身近く、もっとも強大な公権力であった軍隊部内において、歯科医が将校として礼遇されれば、はじめて歯科医と医師とは同等の社会的地位を占めることになる。そのための歯科軍医制度の設立は歯科界の悲願であった。

 日本国内において、歯科軍医制度設立運動が熱を帯びていた昭和九年当時、満州国帝国陸軍創設まもなくに「歯科軍医制度」が発足した事実は、意外に知られていない。日本陸軍の「歯科医将校制度」の発足は昭和一五年であるから、満州帝国陸軍は日本よりも六年時代を先取りしていたと言える。

 

2・満州国建国の経緯

 

 「満州」という呼称は、清朝時代の東三省〔遼寧・吉林・黒竜江省〕全体の総称として使われた。

 もともとはかの地に住む民族の呼称であり、文殊菩薩を崇拝したところから、「文殊」が「満州」に変化したとも言われている。

 すなわち満州族【かつては女真族・ダッタン人とも呼ばれた、半農半牧畜の民族である。精強で知られ、かつては後金という国家を建て、北宋を圧迫し、清朝の時にはわずか六十万人が四億の民を支配した。】の住む土地が満州なのである。満州族が山海関を越えて以来、かつては「化外の地」であった満州も、明らかに中国の一部となった。

 それどころか、清朝政府にとって満州は父祖の地であり、墳墓のある聖なる土地であった。

 日露戦争後の明治三八年、日本と清国とのあいだで北京条約が結ばれ、日本は遼東半島南部の関東州の租借権をロシアから引き継ぎ、同時に東清鉄道〔長春〜旅順〕、安奉鉄道〔安東〜奉天〕の譲渡も受けた。

鉄道には線路を中心に幅六二メートルの付属地と、駅を中心にする広大な敷地が含まれていたため、各駅付属地には続々と日本人街が誕生した。

 また、鉄道一qにつき守備兵一五名の配置が認められたため、六個大隊の独立守備隊が満州に駐剳する事になった。〔この独立守備隊が基になって、大正五年に「関東軍」が誕生した。〕

 鉄道経営権の中には炭坑経営権・森林伐採権・漁業権なども含まれていたため、それらの権益を総合的に運用してゆくために、明治三九年には国策会社「南満州鉄道株式会社」〔以下、「満鉄」と略称する〕が勅令に基づいて発足している。

 初代満鉄総裁は、岩手水沢の出身で、医師から身を起こし、台湾総督府で辣腕を振るった、のちの伯爵・後藤新平である。

昭和三年、満州を支配していた張作霖が関東軍によって謀殺されると、二七歳の張学良が東北軍閥の跡目を継ぎ、蒋介石の国民政府の傘下に入った。と同時に、満鉄と平行する新鉄道を建設するなど、激しい日貨排斥運動を展開した。

 その結果、満鉄の収入は激減し、会社は存亡の危機に陥ったのである。また、満州に居住する邦人は、激化する反日運動のために生命財産の危険にも曝されるようになった。

昭和六年九月一八日、関東軍の板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐の謀略によって満鉄線が爆破され、それを口実に関東軍と張学良軍とは戦闘状態に入った。

 張学良軍は蒋介石の指令に従い、無抵抗主義に徹したため、わずか一万の関東軍は瞬くうちに満州全土を占領した。その間、天皇の勅令を待たずに朝鮮軍が越境して満州に入るなど、陸軍は前代未聞の暴走を始めたが、昭和七年一月八日には関東軍の軍事行動を事後承諾する勅語が渙発され、日本の生命線である満蒙を確保するための関東軍の謀略は成功したのであった。

 関東軍は満州全土に軍政を敷く予定であったが、参謀本部の反対により、親日政権の樹立を画策した。

参謀本部の思惑と、清朝復活を悲願とする廃帝・愛新覚羅 溥儀との思惑が一致したため、昭和七年〔大同元年〕三月一日、溥儀を執政とする「満州国」の建国が宣言された。

  満州国の政治機構は、民本主義を取り、立法院・国務院・法院・監察院からなる三権分立であったが、立法院だけはついに開院されずに終わっている。事実上は、張景恵・馬占山などといった旧満州軍閥の政治連合と、「内面指導」という美名に隠れた関東軍指導の軍事政権であったといってもよいであろう。

 昭和九年〔康徳元年〕三月一日、溥儀は皇帝に即位し、その日、満州国は「満州帝国」と名を変えた。

 

3・石原莞爾中将の理想と現実

 

 石原莞爾は山形鶴岡の人、仙台幼年学校・陸士二十一期・陸大三十期卒、ドイツ駐在武官を経たのち、昭和三年十月、関東軍作戦主任参謀に着任している。

 石原は独自の歴史観から、「世界最終戦争」論を唱え、来るべき世界戦争は日米の間で行われるものと確信していた。

 数十年後に必発する世界戦争に勝利するためには、日本の兵站基地として満州を確実に押さえておく必要があると、兼ねてから主張していた。

 反面、満州を日本が直接支配することには異論を唱え、あくまでも満州人の自主性にまかせ、アジアの他民族がそれぞれに手を握り、信頼関係の中で、自然に日本がその盟主と選ばれることを理想としていたのである。

 昭和七年一月十一日の、満州事変後に行われた朝日新聞の座談会において石原は、

「今までの日本は暴戻なる支那軍閥のために付属地内に屏息されていたのであるが、今度は日支両国民が新しい満州をつくるのだから、日本人・支那人の区別はあるべきではない。

 従って付属地〔筆者註・満鉄付属地のこと〕関東州も全部返納してしまって、関東庁長官も失業状態ですな。

 日本の機関は最小限度に縮小し、できる新国家そのものに日本人も入り支那人も区別なく入って行くのがよろしいと思う。それができなければ、満州新国家もなにもないと思います。」

 と発言し、満州国を日本の植民地化してゆくことに明確な反対をしている。

 さらに後年、昭和十五年四月二十四日、京都第十六師団長に親任されていた石原は、部下将兵に対して「師団長訓辞」を与えているが〔筆者註・秘文書として配布されたが、その内容が時の陸軍大臣であった東条英機の逆鱗に触れ、回収・焼却された。〕その中で、次のように満州の実態を憂いている。

「満州建国八年余、民族共和の実現は仲々困難である。殊に現今のように日本の官吏や商人のみが多く満州国に入って居ることは、民族共和の為に特に有利でない。

 役人は動もすると威張りたがり、商人は利に趨りたがる。〔中略〕官吏や特殊会社の人々は、動もすれば日本人たる特権を利用して、他民族に比して有利な生活を営まんとして居る。

 是が共和を妨げて居る第一の原因である。満州国内に居住するものは日本人でも漢人・蒙古人・ロシア人と云わず誰でも、是非同じ勤労に対しては同一の報酬を受けることにしなければならない。

 今日農民を北満に移す為に土地を買収して居るのであるが、其土地買収に就いては、遺憾ながら国策と称して既墾地を強制買収することが行われ、満州国内の民心不安の最大原因をなした。是は断じて宜しくない。大御心に反する。」

 実際、日本からは続々と満蒙開拓の農民が移住していった。その農民に与えられた土地は、もともと満州人が耕していた土地であり、日本人官吏が二束三文で無理矢理に収奪した土地だったのである。

 また、日本の植民地政策によって大地主から土地を奪われた朝鮮人小作人が、大挙して満州に移住し、満州人との間に土地を巡って流血の事態を引き起こすなど、〔万宝山事件〕大量の朝鮮人の流入は満州の治安を益々悪化させた。

 「五族共和」「王道楽土」は満州国建国の理念であったが、あまりにも実態とかけ離れていた。満州国建国の英雄・石原莞爾は、その理想の純粋さ故に、既に満州事変直後から関東軍参謀部内で「浮いた存在」になっていたという。

 満州国建国からわずか五ヶ月後に石原は転勤を命じられ、再び石原が満州の地を踏んだのは、建国から五年後のことであった。

 関東軍参謀副長として赴任した石原の見たものは、かつて自分が理想の友好国として育てようと、情熱を傾けた満州国とは全く別な、醜悪な植民地の姿であった。

 

証言一・ 

「日中戦争拡大を阻止しえずに参謀本部を追われ、今また満州国の現実に裏切られた思いの石原は、持前の激越な口調で関東軍と日系官吏が統治する満州国への批判を繰り広げてゆく。

 植田謙吉関東軍司令官に対して日系官吏の減俸や人員整理を要求し、協和会中央本部長・橋本虎之助中将を「猫之助」と呼んで公衆の面前で罵倒する。

 東条英機関東軍参謀長を「軍曹」あるいは「上等兵」とこきおろすとともに、内面指導権を掌握する関東軍第四課長・片倉衷を皇帝を凌ぐ満州国の王様と皮肉る。

 また、関東軍司令官の豪壮な官舎をさして、

「泥棒の親分の住宅を見ろ・・・満州は独立国のはずだ。それを彼らは泥棒した。満州国皇帝の住居は、国民の現状から住居の修築を遠慮しているのに、泥棒根性の日本人はこれを不思議とも思っていない。」

と痛罵した。〔横山臣平 「秘録 石原莞爾」〕 

 一般に、東北人には罵倒癖があると言われているが、石原の激烈な言動は常軌を逸したものであった。

 石原の言動は日系官吏や関東軍首脳の間に激しい感情的対立を引き起こした。

 石原はその中で孤軍奮闘し、昭和十三年八月、「関東軍司令官の満州国内面指導権撤回に就いて」という意見書を提出した。

 そのなかで

「軍部横暴の声天下に満つ。軍部はその本然の任務に復帰すべき時来たれりと信ず。世に先んじて兵を進めし関東軍は比際世に先んじて鉾を収むべきなり。即ち軍は周到なる計画の下に成るべく速に満州国の内面指導を撤回し、満州国の独立を完成するを要す。」 

 と事実上、満州国の行政権を一手に握る関東軍の内面指導を痛切に批判した。

 具体的には、中央行政官を全て満州人で充てること・地方自治を基本とし、省次長や副県長などといった長官をロボット化する恐れのある日系官吏のポストを廃止すること・満鉄と関東州を満州国に譲渡すること・内面指導機関である関東軍第四課を廃止すること、などを提案したが、それらは全て拒否され、石原は石もて追われるようにして満州を去っていった。

 

4.満州国陸軍の創立 

 

 昭和七年三月、〔満州国年号では大同元年〕満州国建国と同時に満州国軍は創設された。

 母胎となったのは、吉林省軍参謀長・煕哈の率いる五万・逃遼鎮守使、張海鵬の三万人、東辺道鎮守使・于止山の三万、黒河鎮守使・馬占山の三万、計十四万人の旧東北軍であり、それに北満鉄路護路軍、蒙古軍〔当時、ソビエトの衛星国家として建国されたモンゴル人民共和国の共産主義政策に反対して、満州に亡命してきた蒙古人部隊〕、靖安遊撃隊、江防艦隊などが加えられた。

 各部隊の編成・軍装・兵器などは実に雑多なものであり、創設当初の満州国軍は、軍閥の集合体であった。

 初代軍政部総長は馬占山である。

 満州帝国憲法では、その十一条において「皇帝は陸海軍を統率す」とされていたが、陸海軍条例によって、皇帝の統率権〔満州では統帥権のことを統率権と呼んだ〕は軍政部大臣〔帝政とともに、軍政部総長は軍政部大臣と改称された。〕に委任されており、皇帝は日本の天皇とは異なり、親裁する軍隊を持たなかったのである。

 では、軍政部大臣が統率権を掌握していたかというと、それは認められてはいなかった。 

 満州国軍は、まったく法規上にも官制にも存在しない「軍政部顧問」によって統率されていたからである。

 軍政部顧問は、満州国軍とは法的にも何の関係もない、関東軍司令部附の現役の日本陸軍の軍人であった。

 かつて第二代軍政部最高顧問であった佐々木到一〔のち中将〕によれば、「公然の官制はない。しかし実際的には最高顧問は軍政部大臣と同格であり、最高顧問の承認がなければ、軍令も部令もすべての命令、訓令等効力を発生しない慣例であった。

 この事に関しては、満人の何人といえども疑念をはさむ者はなかった。」

「ある軍人の自伝」勁草書房 昭和四十二年 というものあった。

 

 さらに佐々木は

「関東軍司令官の意図は、軍政部最高顧問を通じて、満州国軍政部に反映し、満州国軍をして、日本帝国軍事政策遂行に当たらしむるのである。

 従って、厳密に言えば、軍政部大臣は、統帥と最高軍事政策とにおいて、独立の権限を持たないものである。満州国陸海軍条例が、皇帝の親裁する国軍に対する統帥権を、常時、軍政部大臣に委任するのは、皇帝の尊厳を擁護し、且、関東軍司令官の有する最高統帥権の行使と、最高軍事政策の遂行を、円滑ならしめんがため、極めて妥当なる規定である。」

昭和十年「満州国及ビ満州国統治ニ対スル認識ニ就テ」

とも述べている。

 このように満州国軍は、事実上は関東軍の補助部隊もしくは、支援部隊にすぎない地位しか与えられていなかった。

 しかしこの事も、当時の満州国軍が、緑林・馬賊・匪賊出身者が大多数を占め、そのほとんどが文盲・無頼の類であったことを考えれば、あるいは非とするに当たらないとも思える。

 満州国建国当時の国内は、至る所に土匪が出没し、その政情不安につけ込むかのように、コミンテルンの指導を受ける赤匪〔共産主義の匪賊の意か?〕、不逞鮮人〔当時の呼称・朝鮮独立運動を行っていた朝鮮人共産主義者〕さらには八路匪〔中国共産党の八路軍の工作部隊〕が跳梁跋扈していたのである。 

 また、当時の満州は阿片の産地であり、満州国軍の将兵も堂々と阿片を栽培し、それを販売し、自らも吸引していた。

 

証言一・

「私のいた三江省の富錦県一帯は当時阿片の公許地で、公に栽培が行われていた。六月頃の採取期に入ると軍も警察も匪賊も一切休戦となって、専ら採取に専念する。〔中略〕芥子の実が熟し過ぎると液が出なくなるし、出る量が減少するので、一日を争う作業となるわけで、猫の手も借りたいほど多忙で、急を要し、軍隊の人海戦術の威力を発揮する絶好の機会という次第である。

 もっともこれは援農とかいうものではなくて、団長は何町歩、連長は何町歩〔筆者註・団長とは聨隊長・連長とは中国語で中隊長のこと〕、排長は何段歩という割当てというか、権利というかを消化する作業で、兵は兵でそれ相当の余得があり、この時ばかりは討伐には行かない軍医や軍需官〔筆者註・中国語で主計官のこと〕までが総動員で参加するわけである。

〔中略〕軍隊が出動一週間の戦果は、莫大な金額と思われるが、おそらくこの金は旅長、軍管区司令官と上司につながって、当時半分は私兵であった軍の資金となっていたものと思われる。」

満州国陸軍軍医学校 「健軍のころ」騎兵中校 野上完一

 昭和55年 白楊会 非売品 

 

 中国では、儒教の影響で文を尊び武を卑しむ。満州国軍の将兵も、中国社会の最底辺の人物が多く、阿片の密売、武器弾薬の横流し、良民への犯罪行為などは日常茶飯事であった。

 また、満州国軍将兵の相当数が阿片中毒者であった。この頃、匪賊討伐の目的の一つには、万能薬として高価で取り引きされた「生き肝」取りがあった。「生き肝」とは人間の胆嚢のことを言い、これを陰干ししたものは金と同額で売れたという。

 このように満州国陸軍は、国防の任を任せるには、はなはだ心許ない集団でもあった。 

 事実、昭和八年頃より、関東軍の指導によって満州国軍は「警察軍」にと改編されて行き、満州国軍はあくまでも、「国内治安維持」に任じることになった。

 同時に、戦車・重砲・航空機などといった兵器の保有は禁じられ、その規模も歩兵・騎兵を主とする六万人に削減された。

 さらに、昭和十二年七月一日〔康徳四年・大同は3年で終わり、皇帝即位とともに元号は康徳と改元された。〕軍政部は「治安部」と改称されて、国内警備に任じる警備軍と、国防に任じる「靖安師」と「興安師」が直轄軍として編成された。〔「師」とは中国語で師団を意味する〕

 のちのノモンハン事変においては、靖安師も興安師も日本軍に劣らぬほどに勇戦し、興安師は、支那事変にも外征して、日本軍とともに戦った。

 

5・満州国陸軍衛生部の創設 

 

 昭和七年〔大同元年〕三月一日、満州国建国宣言が行われた八日後、三月九日に参謀司〔郭恩霖〕の下に医務股〔魏中田軍医少校〕が発足した。

 しかし、誕生したばかりの満州国陸軍衛生部の内容は、あまりにも低劣なものであった。 

 言うまでもなく、衛生部は高度な近代医学の知識を有する人材と、最新の衛生器材・薬剤がなければ運営が出来ない。当時に満州において、「医師」と呼び得るような医学知識を持つ人間はどれだけ存在したのであろうか?

 満州の医師養成機関は、明治四十年に満鉄の出資で創設された「南満医学堂」〔のちの満州医大〕だけであった。そのため、西洋医学を修めた医師は極めて少なく、そのためか、信じがたいほどの話ではあるが、満州国軍の軍医は、各部隊長が適当な人物を捜してきて、それを軍医として任官させていたようである。

 

証言一・

「昭和九年・十年頃私の居た三江省奥地の部隊には、中央からの医薬品の補給はなかった。

 松花江の下流、富錦県集賢鎮に駐屯していた騎兵第三十五団〔筆者註・団とは中国語で聨隊のこと・騎兵聨隊は三個中隊編成であり、騎兵一個中隊は約七十名より成る〕には李少校という老人の軍医がいたが、〔筆者註・少校とは中国語で少佐のこと〕討伐で負傷した将兵の治療は、街で買って来た、膏薬だけで、傷口をヨードチンキかオキシフルで洗って、布につけた膏薬を貼るだけだった。

 患者が痛みを訴えると、阿片のキセルを持って行って吸わせていた。膏薬を買う金は一応、団長の私費ということになっていたが、団長が自分の給料から出すわけはなく、兵員や馬の数をごまかして、浮いた金の一部から買っていたのである。

 〔中略〕老人の李少校が辞めて街で開業し、後任にやはり李という若い中尉がやって来たが、ハルピン辺で団長が見つけて連れてきたといっていた。」

満州国陸軍軍医学校 「健軍のころ」騎兵中校 野上完一

 昭和55年 白楊会 非売品

 

証言二・

「満州国建国当初における国軍医療施設も、旧軍閥時代の踏襲に過ぎず、衛生軍官、軍医も、西洋の医学教育を受けた少数の医官の他は、漢方軍医が大多数を占め、治療の多くは鍼灸に頼り、薬物も漢方薬がその主流をなしていた。

〔中略〕士兵の罹病率も、関東軍に比べて、遙かに高く、特に肺結核、トラコーマ、花柳病など多く、その他一般衛生は低劣であり、自然任せ、という状態であった。」

満州国陸軍軍医学校 

「多田最高顧問の報告」軍医上校 山本 昇 

昭和55年 白楊会 非売品

 

証言三・

「精鋭と称せられた奉天の靖安軍の部隊に於いてすら、日系軍官が週番勤務にて営内にて睡眠中、逃亡兵によって殺されたこともあった。地方部隊の状況はおして知るべきである。

 このような有様であるから、建国早々の頃は、満系軍医の外は正規の日系軍医は少なく、建国当初日本軍を退役した衛生准尉、曹長級の人々が軍医として勤務して居た。」

満州国陸軍軍医学校 

「靖安砲兵隊付軍医」軍医中校 小林喜久雄 

昭和55年 白楊会 非売品 

 

 満州国陸軍全体に言えることであるが、満州国陸軍衛生部が近代化するためには日本陸軍の指導援助は不可欠な状況であった。

 

 昭和七年九月一六日には、衛生部の官等表が制定される。

 衛生部の最高階級は軍医総監〔少将相当官〕であり、一〜三等軍医正・一〜三等司薬正・〔大佐〜少佐相当官〕一〜三等軍医・一〜三等司薬〔大尉〜少尉相当官〕、看護准尉・看護上士・中士・少士〔曹長〜伍長相当官〕、看護上兵・中兵・少兵〔上等兵〜二等兵相当〕などが制定された。

 軍医総監は欠員のままであり、昭和八年〔大同二年〕八月一日に劉永維・孫柏弊の両名が一等軍医正に任官した。

 昭和九年〔康徳元年六月八日〕、日本陸軍に先駆けて、衛生部士官も相当官から「将校」に改変された。また、衛生部の最高階級は中将に改められる。

 そのため階級呼称も、軍医中将〜軍医少尉・司薬上校〜司薬少尉・看護准尉〜看護上兵となった。看護中兵と看護少兵は廃止された。

 日本に於いて将校相当官と称された各部士官が、「将校」になったのは昭和一五年九月一三日のことであるから、満州国の方が六年も時代を先取りしていたことになる。

 上記の満州国陸軍官職表には、「歯科軍医」の官等が記されてはいないが、これは満州国軍の場合「軍医」と「歯科軍医」とは全く同じ取り扱いが成されていたためである。したがって、軍医の中に外科や内科、眼科があるごとく、歯科が存在していたのである。

 したがって歯科医師免許のみを有する者が満州国陸軍に任官した場合、それは「軍医」として扱われた。

〔筆者註・そうかといって、歯科医免状しか持たない者が医業を行っていたわけではない。そのため、歯科出身者と医科出身者とを区別するために、のちには「歯科軍医」なる用語が一般的に使われるようになった。〕 

 そのため満州国陸軍には正式には「歯科軍医」なる用語は存在しないわけであるが、満州国軍医団雑誌などでは便宜上、歯科医師免許しか有しない満州国陸軍軍医のことを「歯科軍医」と呼称していることもある。

 軍官とは、中国語で「士官」の事を示す。薦任官〔日本でいう奏任官のこと〕以上の武官のことを軍官と称した。

 満州国軍が、前述のように関東軍の補助部隊としての性格を色濃く持つものである以上、満州国軍の編成・訓練・装備は関東軍と共通なものでなければならなかった。そのための指導に当たったのが日本陸軍の現役軍人であり、彼らは満州国軍に移籍したため、日系軍官と呼ばれた。

 

 このような満州国軍の前近代的な衛生状況を改善するために、昭和九年三月〔康徳元年三月〕最高顧問 多田駿砲兵大佐〔筆者註・「はやお」のち大将〕は五条からなる意見書を菱刈関東軍司令官に提出した。

 その内容は

一・軍医養成処の創設

二・病院の建設 

三・軍医の素質改善

四・日系軍官の採用

五・防疫

であった。

 その意見書に基づいて、昭和九年十月、現役の日本陸軍軍人を対象に、満州国軍への移籍希望者の募集が行われた。〔筆者註・移籍と言っても日本の現役軍人としての軍籍はそのまま残された。いわば、一時出向に近いものである。〕

 満州国軍衛生部の最高責任者は「医務課長」である、憲均軍医中校であったが〔満系〕、関東軍の軍政部指導により、事実上の最高権力者は「軍政部軍医顧問」ということになる。

 そのとき採用された軍政部初代軍医顧問が、嘉悦三毅夫陸軍二等軍医正

〔筆者註・軍医官は昭和十三年以前は将校ではなく、将校相当官であったから、中将・少尉といった将校の階級呼称を用いることは許されなかった。二等軍医正は中佐相当官である。〕である。

 嘉悦軍医正は、明治二十五年生まれ、東京九段の嘉悦女学校の創立者の甥にあたる。

 東京慈恵会医学専門学校を経て、当時は陸軍省医務局員であった。

 嘉悦軍医正は昭和十三年六月、日本軍第十五師団軍医部長に転勤するまでの四年四ヶ月の間、精力的に満州国軍衛生部の改善に当たった。

 嘉悦軍医正の業績を列挙すると、以下のようになる。

一・満州国陸軍軍医学校の創設

〔筆者註・医学校の少ない満州においては、医師の資格を持つものを軍医に採用することは困難であるため、中学卒業以上の希望者を軍医学校に入学せしめ、医学教育と軍医教育を同時に行い、卒業とともに軍医に任官せしめた。ただし日本の医師免状は与えられなかった。この満州国陸軍軍医学校の教育思想は、戦後の防衛医科大学校の建学思想へと受け継がれている。〕

二・満州国赤十字社の設立

三・医師の資格を持つ正規軍医の採用と教育の徹底

1・日満系正規医学校卒業者の採用

2・日本軍予備軍医の満州国軍軍医への採用

3・長期、短期、国内留学制度の新設

4・満州国軍医団雑誌の発刊

5・歯科軍医の採用

6・野外作業演習の実施

四・満系無資格軍医に対する医師免許の交付

五・蒙古人軍医の養成

六・事務官、衛生軍官の新設

七・満蒙開拓団への衛生指導と衛生材料の交付

 なかでも、「歯科軍医」の採用は瞠目すべき業績であった。当時、世界の陸軍で、歯科医師を「歯科軍医将校」として採用していた国は、アメリカ・フランス・イギリスの三カ国だけであった。

嘉悦軍医正は、日本陸軍軍医学校の歯科口腔外科教官であった三内〔さんない〕多喜次三等軍医正とはかり、「歯科軍医」の必要性を痛感し、世界で四番目の試みとして「歯科軍医」制度導入を決断したと言われている。

同時に、満州国軍医学校の教育科目にも歯科口腔外科を必修とした。歯科教育にあたったのは当初は五十嵐正であり、のち桐本弘に引き継がれた。

 三内多喜次は、一等軍医・軍医学校甲種学生の時に「歯科口腔外科」を専攻した珍しい経歴の持ち主である。そのため、一貫して軍医学校歯科口腔外科教官の職にあった。

 その経歴を簡単に列挙する。

昭和五年八月一日・軍医学校教官兼東京第一陸軍病院付

昭和七年八月八日・一等軍医正

昭和一一年三月七日・軍医学校部員

昭和一二年八月一日・陸軍軍医監〔筆者註・少将相当官〕

昭和一三年三月一五日・軍医学校付・予備役待命

現在でも口腔外科を学んだ者で「三内式副木」の世話にならない者はいない。三内多喜次は、陸軍の歯科口腔外科の権威であった。

 では、かかる日系軍医はどのようにして募集されたのであろうか?

 

日系軍医には、大きく分けて四つの系譜が存在した。

 

一・日本陸軍の軍医正級の在郷衛生部士官の応聘

〔軍事教官として各軍管区の医療行政を指導した。〕

 

二・上記の応聘武官のいない軍官区に於いては、同地駐在の日本軍軍医正の委嘱〔軍政部兼務顧問として〕

 

三・日本軍在郷軍医・薬剤官ならびに日本国の医師・薬剤師・歯科医師免状を有する日系〔朝鮮系・台湾系も含む〕の民間人、および軍医学校出身の日本軍の現役軍医・現役薬剤官予備役・現役の軍人の場合は、現在の階級より一階級上で採用した。

 民間人の場合、大学出身者は「少校」、専門学校出身者は「上尉」で採用した。

〔のちには、大学出身者は「上尉」、専門学校出身者は「中尉」に改められた。〕

 

四・日本軍の看護官〔衛生部将校相当官〕、看護長出身者も軍医として採用した。看護官の中で日本の軍医学校出身者は「中尉」で採用した。

〔筆者註・看護官は三等〜一等まであり、兵科の少尉〜大尉に相当する。看護長は三等から上等までの四階級があり、それぞれが兵科の伍長〜准尉に相当する。昭和一三年以後は、衛生少尉〜衛生大尉、衛生伍長〜衛生准尉と呼称が改正された。現在の自衛隊とは異なり、この当時の陸軍看護官・看護長は看護婦〔士〕の資格を持つ者ではない。

 ただし満州国に於いて、昭和一五年以後は、看護官・看護長の軍医への採用は中止され、「衛生軍官」としてのみ採用されるようになる。〕 

 このようにして、相当数の日系軍医が満州国軍に採用されたが、昭和八〔大同二〕五月一日の時点での日系衛生部軍官の数を示す。

 

応聘武官 二名〔上記一・に該当する者〕

・軍医上校二名・軍医中校一名・司薬中校一名・軍医少校一七名・司薬少校二名・軍医上尉三七名・司薬上尉七名・軍医中尉四名・軍医少尉一名・衛生准尉一名

 残念ながら、嘉悦軍医正の赴任前であったため、この時点では歯科軍医は存在しない。

 それが昭和一一年〔康徳三年〕になると、満州軍の衛生部総数二千四百名・うち軍官六百名・看護士兵〔士兵とは中国語で下士官兵のこと〕千六百名・軍属二百名に達する。

 そのうち朝鮮・台湾の同胞を含まない日系軍医・薬剤官の数は百三十七名・歯科軍医は五名・衛生軍官は二十名であった。

 歯科軍医の最先任者は軍医学校歯科口腔外科教官の、桐本弘歯科軍医少校である。

 桐本歯科軍医少校は昭和一九年〔康徳一一年〕七月一二日、他の三名の軍医少校・司薬少校とともに〔日系三名・満系一名〕日本軍医学校派遣学生として、甲種学生を命じられ、昭和二十年七月十九日卒業した。

 軍医学校甲種学生課程を卒業した歯科医師は、桐本歯科軍医少校が最初で最後となる。

 ちなみに日本陸軍の歯科医将校で甲種学生になった者は一人も存在しない。

 

6・満州国陸軍の軍装 

 

 満州国陸軍に軍服が制定されたのは、昭和一二年〔康徳四年〕五月一二日のことである。実に建国から六年が経過している。

 正式に制定されるまでの間、満州国軍の兵士は旧軍閥時代の軍服を適宜着ていたらしい。もっとも、軍服の制定前に、華やかな「五色星章」の軍帽章と、日本陸軍のものと全く同じ形式の階級章は使用されていた。

 もともと満州軍閥の軍服は、日本陸軍の軍服を真似たものが多いので、各自バラバラの軍服であっても、それほどの違和感はなかったものと思われる。

 満州国陸軍の軍服の色は帯青褐色で、日本陸軍のものと全く同じである。日本陸軍は満州の大地を予想戦場としており、満州の大地の保護色として軍服の色を制定しているので、日本陸軍と満州国陸軍の軍服の色は全く同じものとなった。

 満州国陸軍の軍服の形式は、日本陸軍の「昭和五式軍衣」と酷似している。もっとも日本陸軍は昭和一三年に「昭和五式軍衣」の詰襟を廃止し、野戦においては開襟にもなるような、折襟ドイツ式の軍服を採用している。

〔筆者註・九八式軍衣という〕

 詰襟の軍服では襟元は苦しく、行動も不便で、特に炎暑時には適さない。

 日本陸軍は南支作戦での教訓に基づいて、のどを絞めずに、涼を得やすいドイツ式に変更したようである。

 満州も極寒の地のように言われるが、夏の日中には気温は四〇度近くにまで達する、大陸性気候である。実際、ノモンハン事変〔満州国の正式呼称は国境事変〕の時には、暑さと水不足と、詰襟の軍服が兵士を苦しめたと言われている。

 以下、簡単な両軍の軍服の相違点を示す。〔〕内は満州国陸軍での呼称である。

 

〔〕内は満州国陸軍での呼称である。

     日本陸軍     満州国陸軍
 軍帽 〔第一種軍帽〕

 戦闘帽 〔第二種軍帽〕

 帽章
  カーキ地に赤いはちまきを巻く。非常に目立つ。
革の顎ひもが付く。

金色の星章
  カーキ色のまま。目立ちにくく実戦的
平原帽と言われる平らな形。
顎ひもは付かない。
五色章〔黄・黒・白・藍・紅〕の七宝焼きの星章
昭和五式軍衣との比較

  鍬形の兵科色を襟に付ける。
五つボタン・詰襟
ポケットが内付けで、容積が少なく非実戦的。
将校は四つポケット
下士官兵は二つの胸ポケット 五角形の兵科色を襟に付ける。五つボタン・詰襟
ひだつきの外付けポケットなため手榴弾も容易に入り、実戦的。
将校は四つポケット
士兵は二つの胸ポケット
昭和五式軍袴との比較

  長袴と乗馬用の短袴があった。ベルトの替わりに紐で胴を締める。 日本の昭和五式と全く同じ。
やはり長袴と短袴があった。
 
 階級章
  金色金属星章と金モールで表す。肩章式。 日本の昭和五式と全く同じ。
 

 

 

ちなみに襟の兵科色は日本と満州は共通であった。一例を挙げれば、

歩兵は赤・砲兵は黄色・騎兵はもえぎ色・衛生部は深緑・工兵は鳶色・輜重兵は藍色といった具合であった。

 

7・満州国陸軍歯科軍医名簿 

 

 以下は筆者の確認した満州帝国歯科軍医の名簿である。

 満州国軍医団雑誌や当時の満州国官報などを参考にした。満州は日本の敗戦後、中共軍の支配下となり、中国共産党は満州帝国を「偽満」と呼び、満州国に関するすべては日本の侵略行為であると断じた。

 そのため満州国の官吏だった者は、中国人ならば民族の裏切り者「漢奸」として、日本人ならば侵略行為を行った戦争犯罪人として人民裁判で処刑された。

〔人民裁判の残虐さは、ほとんどの場合即日判決で、公開銃殺が実施されたことからも知れる。〕

 残念ながらその報復の凄まじさは系統だった資料としては残って居らず、伝聞として日本に伝わるのみである。

 そして、戦後の日本では人民裁判の不当さを憎む声はなく、日本の侵略を糾弾する声のみが高い。

 満州国の官吏としての前歴は生命の危険に直結したため、わずかに日本に残された資料以外は、満州国の文献は存在しないといってもよい。

 帰国の際に文献資料や満州国軍の軍服を携行することは、文字通り「死」を意味したのである。この事は満州に残った中国人にとっても同じであった。

 そのため満州国軍医団雑誌も、中国には一冊も現存せず、東京帝国大学医学部に寄贈されたものが存在するだけである。それとて全巻が揃っているわけではない。下記名簿に欠落・誤りのある場合は先生方のご指摘をお願いするばかりである。

 「軍医」と「歯科軍医」の名称が混然として、統一性がないが、これは当時の軍医団雑誌の記載のままに転記したためである。

「歯科軍医少尉」から「軍医中尉」に進級しているからといって、歯科医が医師になったわけではなく、軍医としての職務に就いたわけではないことを、改めて付言しておく。

 

 

遠藤 邇  軍医少校 任官月日は不明なるも、「大満州国建国功労章」を下賜されているので、大同2年3月1日の時点には、既に軍籍にあったものと思われる。

 

桐本 弘  康徳4年5月5日  軍医上尉  ハルピン病院

      康徳8年9月1日  軍医少校  軍医学校教官

      康徳11年7月 日本軍医学校留学

       康徳12年 軍医中校

       康徳10年9月15日景雲章勲五位.柱国章勲六位

 

長谷 実  東京高等歯科医学校卒   康徳七年 歯科軍医少校      牡丹江病院 のち恩賜病院

 

長谷川真一 康徳一二年 歯科軍医少校  鞍山病院 

      昭和二一年三月二一日戦死?

 

芳賀高政  日本大学歯科専門部卒

      康徳三年四月一〇日 軍医上尉

      奉天病院 康徳七年三月一六日 

      軍医少校 康徳一一年

      軍医中校 康徳一一年五月二六日  病死

 

浦野左京      康徳7年  歯科軍医上尉

          富錦病院 康徳10年6月1日 休職

 

林 千冬  大正二年一一月二三日生まれ 東京高等歯科医学校卒       康徳五年二月一〇日  軍医上尉  恩賜病院

       康徳九年三月一日   軍医少校

       康徳一一年六月 軍医学校教官

      康徳一〇年九月一五日 景雲章勲六位・柱国章勲四位

 

石沢俊夫  康徳8年3月5日  歯科軍医少尉 新京病院

      康徳9年3月1日  軍医中尉

 

伊藤一男  康徳8年3月5日  歯科軍医少尉 海拉爾病院

      康徳9年3月1日  軍医中尉

      康徳12年8月   佳木斯病院・軍処

 

広岡金城  大正三年三月一日生まれ 日本大学歯科専門部卒

         康徳九年三月  歯科軍医上尉 チチハル病院

        康徳一二年七月 承得病院

 

三宅幸一  康徳一一年一一月三日 歯科軍医上尉  興安病院

 

山田利衛    康徳九年三月五日  歯科軍医中尉 吉林病院

        康徳一一年 歯科軍医上尉 承得病院

    終戦後ウランバートルに抑留  昭和二二年一一日帰国

 

 以上、筆者が確認し得た満州帝国陸軍の「歯科軍医」の総数は一二名である。歯科軍医は全員が日系軍官であって、満系・台湾系・朝鮮系・蒙系は一人もいない。

 歯科軍医の赴任先を見れば、全てが陸軍病院であることに気がつく。すなわち、隊附歯科軍医が存在していない。これは、歯科軍医の数が極めて少ないことから生じたものと思われる。

 参考までに、建国から亡国までに満州帝国陸軍の衛生部に軍籍のあった総数を記載ておく。これらは、延べ人数であって、一時期に存在したわけではない。

 

    総員   日系   満系   蒙系  ロシア系
  総員  1496   478    971     46    1
軍医学校生徒   540   151    351     38    0
 軍医   839   230    610      8    1
 歯科軍医    12    12      0      0    0
 司薬官    66    62      4      0    0
 衛生軍官    29    23      6      0    0
           
 戦死    26    22      3      1    0
 病死    41    21    298      1    0
 退官   374    70     26      6    0
 免官    31     5      0      0    0


 

 

 

 戦死の中には、戦後、中国共産党の人民裁判によって刑死した者も含む。日系軍官の中には、台湾系・朝鮮系も若干含まれる。


満州国陸軍 歯科医将校のその後の経歴


1・石沢俊夫


 戦後、山形県酒田市に居住 酒田市米屋町46

 本籍・山形県酒田市 生年月日 大正8年 11月26日

昭和16年 東京高等歯科医学校卒

 歯科医籍29436号 昭和16年6月25日登録

昭和17年(康徳9年・歯科軍医少尉に任官 24歳)

昭和21年10月復員 昭和22年1月 石沢歯科医院開業

2・林 千冬


東京都世田谷区東玉川町158

本籍・東京都 生年月日 大正2年11月23日

昭和11年 東京高等歯科医学校卒

歯科医籍23930号

昭和13年     新京恩賜病院歯科部長(康徳5年 軍医上尉に任官 26歳)

昭和17年     康徳9年 軍医少校

昭和19年     満州医科大学歯科教授兼付属病院歯科部長

昭和19年6月   満州国陸軍軍医学校教官(康徳11年)

昭和21年     満州医大にて学位授与 医学博士

昭和21年     復員

昭和22年5月   林歯科医院 開業

3・伊藤 一男


東京都立川市柴崎町3−170

本籍・東京都 生年月日 大正9年3月2日

昭和16年 日本歯科医専卒

歯科医籍28959号 昭和16年4月19日登録

昭和16年 (康徳8年 歯科軍医少尉に任官 22歳)

昭和17年 軍医中尉

昭和23年8月 伊藤歯科医院開業

4・三宅 幸一


神奈川県小田原市荻窪158

本籍・神奈川県 生年月日 大正11年11月26日

昭和18年 日本歯科医専卒

歯科医籍33367号 昭和19年3月31日登録

昭和19年4月   三宅歯科医院開業

昭和19年11月  (康徳11年 歯科軍医上尉に任官 23歳)

昭和22年     三宅歯科医院開業

  5・桐本 弘


岐阜県高山市天満町

本籍・岐阜県 生年月日 明治43年7月7日

昭和10年 日本歯科医専卒

歯科医籍22065号 昭和10年5月1日登録

昭和10年4月 桐本歯科医院開業

昭和12年5月 (康徳4年 軍医上尉に任官 29歳)

昭和20年  (康徳12年8月 軍医中校に任官)

昭和23年   高山赤十字病院歯科部長

6・長谷 実


山口県岩国市麻里布町

本籍・山口県 生年月日 明治45年2月15日

昭和10年 東京高等歯科医学校卒

歯科医籍22340号 昭和10年5月29日登録

昭和11年 長谷歯科医院開業

昭和15年 (康徳7年 歯科軍医少校に任官 30歳)

昭和22年 長谷歯科医院開業

以上のように、戦後の生存が確認できた人は、満州国陸軍歯科医将校 総員12名のうち、 6名にとどまります。


ざっと経歴を見ただけで、日本での歯科医院経営に失敗(?)して、満州に渡り、満州国陸軍に身を投じたと思われる方が少なくありません。 戦後は、満州国陸軍の軍籍にあった事を隠していた人も多かったと思われます。

関東軍将兵の多くは、満州からシベリアに抑留され、強制収容所で奴隷的肉体労働に従事しました。

最終帰国は、昭和32年ですが、満州国歯科医将校のほとんどは、昭和22年か、23年に帰国出来たようです。

 

合掌

http://www.geocities.jp/mor25/mdo.htm

 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

▲このページのTOPへ HOME > アジア4掲示板


  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。