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(回答先: 竹島(独島)紛争と連合国軍最高司令官総司令部覚書SCAPIN(SCAP Institutions) 投稿者 Kotetu 日時 2006 年 5 月 15 日 23:22:49)
1785年(天明5年)に成稿、翌年刊行された日本の林子平による「三国通覧図説」には、竹島が書かれており朝鮮領と明記されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6_(%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C)
上記はwikiの抜粋ですが、図中に「竹嶋」と明記され、「竹嶋より穏州(壱岐)を望む、また朝鮮をも望む」と付記されています。右肩の付記は、なんと読むのか忘れました。
おまけに、明治時代初期に、島根県官僚に派遣された薩長土肥テロリストの木っ端役人が「竹嶋はうちの県の島ではない」と報告し、中央の薩長土肥テロリストが「竹嶋は本邦に属さず」なんちゅう裁定をしています。
それが、韓国側の「江戸時代も、明治時代も、ニポンは竹嶋を朝鮮領としていた」という主張につながります。
そして、ポツダム宣言等の「ニポンは、テーコクシュギ的に奪った領土を切り離される」つう戦後処理問題につながります。
この図にある「竹嶋」は、おそらく鬱陵島だと思います。島の大きさや、当時の古文書から、地元では鬱陵島のことを「竹嶋」、今の竹島(独島)を「松嶋」とよんでいたと考えられるからです。
いずれにしろ、韓国ボッチャン右翼はともかく、韓国側は非常に緻密な詰めをしているわけで、ニポンのボッチャン右翼が騒ぐ程度の程度の低い論理ではないということです。