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これは、石坂准尉という方の満州匪賊討伐の話である。
匪賊討伐の内容は読んでいただくとして、中段くらいの「儀我部隊四月五月掃討粛正行動一覧表」という部分に注目したい。
鉄道駅から遠く離れた「屯」という小さな行政単位の駐屯部隊が、たったの二ヶ月間で、このような頻度で討伐行を行っているのである。
まるで、どこかのイラク派遣軍のようではないか。これが治安の良い奉天やハルビンから離れた満州奥地(僻地)の状況なのである。
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(略)
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石坂准尉の覚え書き(山河屯)
『私の歩んだ昭和史〜栄光の日本陸軍敗る』(本文より)
渡満直後の駐屯地山河屯は、拉浜線山河屯駅より徒歩で二十分の処。街は土壁造りの平屋が密集していて、店舗などはない。気候は寒々しく、独特の不気味さを感じた。
質素な兵舎は借家である。室内の中央に通路があり、両側にアンペラを敷き詰めた奥行き約二メートルの場所が兵隊に与えられた空間。
外出は二人以上が一組となって行動し、小銃に実弾を携行する異様さだった。
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(略)
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●石坂 「朝鮮の羅津を後にしてからは満州鉄道に乗ってね、そして着いた処が山河屯。一番最初の駐屯地なんだけど、ここの兵舎はもとは酒屋さんだったんだ。酒造りのね」
■藤本 「日本人じゃなくて、支那人か満人の経営していた酒屋さんですか」
●石坂 「そうだよ」
■藤本 「民家を接収、借り受けたという訳ですね」
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(略)
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石坂准尉の覚え書き(匪賊討伐)
『陸軍認可済 駐満記念 鮫城部隊』(石坂准尉の書き込みより)
「匪賊討伐に出動」
昭和十二年六月、匪賊の出没頻繁で治安は乱れ、住民の生活は脅かされる。これが平定のため、討伐に出動す。
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●石坂 「山河屯に移駐してすぐ後、俺達三十連隊は匪賊討伐に出動したんだ」
■藤本 「匪賊討伐ですか。たしか昭和十二年初頭から、関東軍は万単位の大兵力を投入して本格的な匪賊討伐作戦を展開していますよね。謝文東なんかが、悪名を馳せたことで有名なのかな。
石坂准尉もそれら駆逐戦に参加したという訳ですね。
…かなり激しい戦いになりましたか」
●石坂 「他隊の活躍は知らないけど、俺達に限っていえば何もなかったよ。俺の経験だから、あくまでも一般論にはなりえないと思うけど、匪賊というのはね、日本軍がやってくるという情報を掴むと、およそ我先にと逃げ出してしまうものなんだ」
■藤本 「まるで南京陥落時における支那兵のように」
●石坂 「そうそう。だからね、結局敗残兵の集まりにすぎないのさ。
…我が軍は既に、満州から支那軍を追い払っていた。そうして、この混乱に落後した兵隊のクズなんかが寄り集まったのが匪賊なんだ。
俺達が出動した時には連中の巣窟とおぼしき土地はもぬけの空だったね」
■藤本 「分かりました。では戦闘はおきなかったということですね。
ちなみに聞いておきたいんですが、匪賊討伐に部隊が出動すると、その期間はどれくらいでした。勿論、個々の討伐戦によってまちまちなのでしょうが、戦いがあまりおきないとするならば、ある種のデモンストレーションみたいに、もしかしたら、およその日程が想定されていると思いまして。連中が出没する場所も大体決まっていたんじゃないですか」
●石坂 「匪賊討伐に出動するとね、三日か四日くらいは兵舎に帰れないんだ。山に泊まったり、原っぱに野宿したりしてね。俺が言えるのはこれくらい」
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(略)
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第二節 北満の護り (付図第一参照)
解氷期
五常は拉浜線(拉法─哈爾浜間)のほぼ中央部、小白山脈の山麓よりに位置する浜江省五常県の中心地で人口約五千、当時部隊の他には独立守備隊が駐屯していた。街には日本旅館二軒、日系飲食店数軒といった程度の典型的な北満の街で部隊本部及び第三大隊(齋籐俊部隊)の主力が落ち着いた兵舎の如きも、満人の商店舗をそのまま改造した極お粗末なものであった。
各分屯隊の配置は付図の如くであった。部隊はかくて篠原部隊(右防衛隊)の南地区隊として浜江省楡樹県の警備防衛に任ずる事になり、折からの増水のためにふりかかった種々の困難に遭遇しながら四月二十日を以て前任部隊との引き継ぎを完了、同二十一日(五常部隊)二十二日(山河屯部隊)二十六日(帽児山部隊)の三日間に行われた篠原部隊長の初度巡視を受け、いよいよ本格的な北満警備の任に就いたのである。
北満は一年の半ば以上を永い冬に送る。わけても十一月下旬から二月下旬にかけては零下三十度、時には四十度にも達する酷烈な寒気が生きとし生けるものを否応なしの冬眠に閉じこめてしまう。それだけに春の訪れはまるで堰をきられた水のように途方もない速さで押し寄せる。
河川に張りつめた厚い氷が不気味な音をたてて流れ始めると、冬との闘争にとげとげしく枯れ切りながらなお生きながらえた樹木は、あわてて芽ぐみ、石の様に凍てついた大地からは可憐な野草が萌えあがる。
人も草木と同様に永い冬から解放されて、陽光の下に飛び出して来る。この頃から厄介な北満の匪賊もぼつぼつ蠢動を始める。
我々が駐屯したのはこの解氷期、即ち匪賊の蠢動期を目前に控えた頃であった。
おかげで各分屯隊とも一律に長旅の疲れを癒す暇もあらばこそ、この厄介な連中の粛正に、八面六臂の活動を開始せねばならなかった。
小山子に分屯した齋籐(國)隊(第二中隊)の如き、任地到着の翌四月二十日には、蘭彩橋(小山子西南方八q)付近に姿を見せた小匪を追って部隊最初の討伐を行ったほどであった。
そのうえ各分屯地の状況は、我々が想像したよりもはるかに悪かった。即ち分屯隊長の居室とは言うものの各地ともアンペラの二畳敷き程度で、それも壁は崩れ床は落ち、まるで乞食小屋といった代物であった。
また水利が悪く、水はあっても赤く錆びていて入浴するとかえって体が赤くなるといった次第、食料と言っても乾燥野菜のみ、道路の悪いことはまた論外、それに一帯の山道はいつ匪賊の襲撃を受けるかも知れず、一箇小隊以下の兵力では到底行動出来ぬ有様だったので、ちょっとした連絡にもたった一人の患者の入院にも小隊編成の護衛をつけて五常の部隊本部まで小山子から一往復に三日、沖河鎮からだと実に五日を要するといった具合で、警備とはいいながら身に沁みる辛苦を冒しつつ日夜喜んで軍務に猛進した。
駐屯から五月下旬までの部隊の行動概要を挙げると大体次表のようになる。
「儀我部隊四月五月掃討粛正行動一覧表」
名称 年月日 指揮官及び兵力
蘭彩橋付近の粛正 昭和十二年四月二十日 齋籐(國)中尉 第二中隊(一箇小隊欠)
西河口渡船場の舟、匪賊のため流失せらるとの報に接し出動、蘭彩橋付近を粛正検索す。
名称 年月日 指揮官及び兵力
三家子付近の掃討 昭和十二年四月二十一日〜二十二日 菅野少尉 第二中隊一箇小隊
三家子付近に山寨ありとの報に接し二十一日十四時出動せるも小葦河増水のため目的を達し得ず二十六日八時該地付近を粛正しつつ帰還す。
名称 年月日 指揮官及び兵力
五常小山子間粛正 昭和十二年四月二十六日〜二十七日 新田少尉 士候幹候一小隊
小山子部隊暗号引き上げを兼ね同地域を粛正し二十七日十七時帰還す。
名称 年月日 指揮官及び兵力
二青頂子付近の掃討 昭和十二年四月二十七日〜二十八日 服部大尉 第三中隊(一箇小隊欠)
二青頂子高地南側に山寨あり、時に約五十名の匪賊宿営すとの情報に接し二十七日二十時出動二十八日一時約二十名の匪賊を潰滅せしめ山寨五を覆滅し二十八日十七時十五分帰還す。
名称 年月日 指揮官及び兵力
沖河鎮五常間の粛正 昭和十二年四月三十日〜五月二日 岩本曹長 第三中隊一箇小隊
服部隊警護ならびに粛正計画等の書類を携行し来常帰還、糧秣輸送に任ず。
名称 年月日 指揮官及び兵力
小山子、五常間粛正 昭和十二年四月三十日〜五月二日 瀧澤曹長 第二中隊一箇小隊
齋籐(國)隊警備ならびに粛正計画等の書類を携行し来常帰還、糧秣輸送に任ず。
名称 年月日 指揮官及び兵力
沙河子付近の検索 昭和十二年四月三十日 石原大尉 第六中隊
沙河子付近に銃器隠匿しあるを偵知し南(北)部を掃討す──効果、逮捕匪賊二、通匪者一。
名称 年月日 指揮官及び兵力
北棒土(←)垂(→)溝子及び
三家子付近の掃討 昭和十二年五月二日〜五日 齋籐(國)中尉 第二中隊
北棒土(←)垂(→)溝子(小山子南方約十六q)付近に山寨ありとの報に接し二日四時三十分出動、山寨五を覆滅し五日十一時小山子に帰還す──効果、小銃一、同弾薬二、指揮刀一、斧一、山寨覆滅五。
名称 年月日 指揮官及び兵力
道路偵察及び粛正 昭和十二年五月七日〜八日 山口少尉 第三中隊一箇小隊
沖河鎮、山河屯間の道路偵察ならびに沿道粛正の目的を以て七日早朝沖河鎮を出発、八日沖河鎮に帰還す。
名称 年月日 指揮官及び兵力
楡樹県南部地域の粛正 昭和十二年五月十一日〜十二日 古木少尉
十一日七時楡樹出発、秀水甸子─新立屯─万宝水─作(にんべん× てへん)樹廟─向陽泡─四阿城─太平嶺─楡樹道に沿う地区を粛正す。
名称 年月日 指揮官及び兵力
太陽廟付近掃討 昭和十二年五月十二日 折笠少尉 第一中隊一箇小隊
十二日早朝二道河子出発、会龍山付近を掃討中匪賊の遺棄せる手榴弾に触れ折笠少尉以下五名負傷し十八時帰還す──効果、小銃一、同弾薬二十。
名称 年月日 指揮官及び兵力
楡樹県東方地区粛正 昭和十二年五月二十日〜二十二日 長島大尉 第十中隊
楡樹警備勤務を交代し楡樹県東北方大泥河流地区を粛正しつつ五常に到る。
名称 年月日 指揮官及び兵力
篠原部隊第一次討伐 昭和十二年五月二十三日〜三十一日 儀我大佐 隷下各部隊
南地区隊第一次討伐計画による。
***
討匪行
五月も半ば過ぎて本格的な解氷期になると共に、我々の警備地区一帯にもいよいよ匪賊の跳梁が目立って来はじめた。
五月二十四日から篠原部隊第一次討伐が実施された。警備地区一帯の匪団は老嶺、小白山脈の山麓に蟠踞する双龍、常山、青好林、姚青山、兵林等々と称する大小頭目の下に集まった僅か百数十名前後の土匪ではあったが、断固膺懲の火蓋を切った討伐隊も、我に反して困難な密林地形を自由自在に馳駆する彼等を捕捉殲滅せんとする事は並大抵の労苦ではなかった。
終日炎暑に照らされ、使役の満人すら尻込みする鬱蒼たる密林に、あるいは泥濘膝を没する湿地帯には、さすが健脚を誇る北越男児も行軍の辛さをしみじみ味わわざるを得なかった。
しかも討伐隊出動を耳にはさんだ匪賊達は、部隊が出動した五月二十四日以後は得意とする逃げ足でそこら近所にまごまごしていなかった。僅かに安田准尉の指揮する一隊が二十八日密林中で便衣の匪数十名と遭遇、交戦約三十分にしてこれを潰走せしめ遺棄死体二を得たにすぎなかった。
二十四日より三十一日にわたる討伐間、不幸めぼしい敵とも遭遇せず憤懣やる方ないところではあったが、警備地区粛正と言う当初の目的は充分達せられ、各部隊とも自己の担任地区を跋渉して、状況地形に通暁し得、かつ一日十数qの密林湿地帯を征服した訓練上の効果、はては満軍との協力等々得る所甚大なものがあった。
二十八日二十三時すぎ、最大の目当てであった老人溝山系中の最高所大青頂子の頂上に達した一同は、その連山をはるかに見下ろして万歳を三唱しこの行の一区切りをつけたのであった。
大陸の夏
高粱の芽が五寸伸び一尺伸びて、いつか人の背丈をかくす様になった。
六月を迎えて我々も渡満以来三ヶ月、大陸の生活にもぼつぼつ慣れて来た。
北満の夏こそ我々に許された一年一度の大切な訓練期間である。猛烈な演習の合間には寧日ない討伐と、駐屯勤務もますます繁忙を極めて来た。六月中における各駐屯部隊の討伐出動回数は十五回、戦闘回数は二回であった。
六月下旬に到り、従前よりひそかに兵力を増強中と伝えられた極東赤軍は突如、国境センヌハ島(奇克島西方十六q)を占領した。
満州国の治安に任ずる関東軍としては勿論看過し得ざる所である。部隊も命令により即時○○兵準備態勢に入った。
この事件は幸か不幸か双方の外交交渉によって、越えて七月三日円満に解決されるに到り、我々の緊急態勢も一応は解除される事になったが、如何したことか、軍情報によればこの頃より北満に於ける共産匪の地下運動は漸次活発となり、これと相呼応するが如く我々の警備地区の各地にも共産匪の蠢動が眼に見えて激増した。我々の任務も日を追って多忙を極めるままに、日一日と不気味に過ぎて行った。
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http://www.geocities.jp/fujimoto_yasuhisa/isizaka/honbun/st02.htm
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