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Japan On the Globe(156) 国際派日本人養成講座
人物探訪:リカルテ将軍
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog156.htmlより転載
(貼付開始)
■1.気がつけばアメリカの植民地■
1898年4月25日、アメリカはスペインに宣戦布告し、極東艦
隊がスペイン艦隊を撃破してマニラ湾に入った。「フィリピン
革命軍を援助する」と宣言したアメリカ軍を、民衆は歓呼して
迎えた。
アメリカの参戦で勇気を得た革命軍は、いたるところでスペ
イン軍を撃破した。しかし8月13日にマニラが陥落した時アメ
リカ軍司令官アンダーソンはマニラ市内の約4千の革命軍に撤
退を命令し、翌日米軍のみによるマニラ入城式が行われた。
10月1日からアメリカとスペインの講和会議がパリで開かれ
た。前年に誕生したばかりのフィリッピン革命政府のアギナル
ド大統領はパリに特使を派遣したが、アメリカはその出席を拒
否し、勝手に講話条約を締結してしまった。
講話条約の中にはスペインはフィリピンをアメリカ合衆国に
譲渡するという一項があり、マッキンレー米大統領はこの条約
と同時に「アメリカ軍はフィリピンにとどまり、その独立の日
まで撤退しないだろう。それまでフィリピンの主権はアメリカ
にある」と発表した。
こうして300年以上もスペインの支配下にあったフィリピン
は、独立した途端にアメリカの植民地にされていたのであった。
■2.革命軍総司令官アミルテオ・リカルテ■
当初、革命政府は独立さえ認めてくれれば経済上の優先権や
駐兵権はアメリカに認めるという低姿勢で交渉に臨んだ。しか
しアメリカは8万もの大軍を上陸せしめ、フィリピン群島を完
全なる軍事制圧下に置いた。この時にあたって革命軍総司令官
として独立戦争を開始したのが33歳のアミルテオ・リカルテ
であった。
リカルテは、1868年ルソン島最北端のラオアグという町の大
きな農家の二男坊として生まれた。1890年、名門サント・トー
マス大学を24歳で卒業。スペイン本国への留学にあこがれる
のが当時の青年たちの常であったが、リカルテは一生を民族主
義教育に捧げる決心をして、マラボンの小中学校の校長になっ
た。
1895年頃から、スペインの暴政に対して、民衆の憤りが高ま
り、独立を目指すカティプナン党が急速に勢力を広げた。リカ
ルテも入党して、指導的な地位についた。1896年8月27日、
カティプナン党とスペイン軍との戦いが始まり、翌年3月、リ
カルテは「国軍総司令官」に任命された。この時以来、リカル
テの生涯はフィリピン独立のための戦いに捧げられる。
スペインを破った後に豹変したアメリカに対して、リカルテ
は再び革命軍総司令官として二度目の独立戦争を開始した。
独立は戦いとるべきもので、たとえアメリカであろうと、
スペインと戦ったように、戦い取ってこそはじめて真の自
由と独立をうることができるのだ。
■3.日本からの武器弾薬供与■
リカルテは革命政府外務長官のマリヤノ・ポンセを日本に送
り、アジア主義者の宮崎滔天に武器援助を仰いだ。ポンセの依
頼は、アジアの独立運動に深い同情と理解を持つ陸軍参謀総長
川上操六大将にもたらされた。おりしも、アメリカ国務省から
日本外務省にあてて、フィリピンへの武器密輸を取り締まって
くれという要請が届いていたが、川上は青木外務大臣の反対を
押し切って、陸軍からの兵器払い下げを決定した。川上は宮崎
らにこういった。
フィリッピン独立といっても、なかなか容易ではないと
思う。わが国としてもお援けしてさしあげたいが、まだそ
の余力はない。・・・同じアジアの民として、困ったとき
には助け合う、武士は相見互いだ。国の力が及ばないとき
には、君たち有志に期待するほかない。しっかり頼むぞ。
約300トンもの武器弾薬が、布引丸という古い貨物船に乗
せられ、上海に送る石炭と鉄道枕木だと偽って、フィリピンに
送られることになった。明治32(1899)年7月19日に布引丸
は長崎港を出港した。日本人の義勇隊3名と道案内のためのフ
ィリピン人2名が乗船していた。しかし、翌日夜、台風に襲わ
れ、暴風雨と戦うこと約20時間、ついに布引丸は武器弾薬と
ともに東シナ海の藻屑となった。
(約80年後の昭和53年、フィリピンのマルコス大統領は、
この時に武器弾薬を宰領して遭難した益田忍夫の孫、益田豊夫
妻を独立記念日の6月12日に招待し、フィリピン独立功労者
の遺族という最高級の栄誉を授与している。)
■4.義勇隊来る■
布引丸に先行して、5人の陸軍予備役将校と1名の民間人か
らなる義勇隊が、独立軍支援に赴いていた。隊長は元台湾総督
付参謀の原禎で、「フィリピンの独立を救援しなければ、アメ
リカは必ずこの地を占領し、東亜の自由と発展を害するや必せ
り」として、自ら軍籍を退いて、この挙に加わったのである。
6人は下級労働者に変装して、フィリピン独立軍を包囲する
アメリカ軍陣地を突破した。6人を迎えた大統領アギナルドは、
こう言った。
日本からはるばるフィリピン独立のために、身を挺して
馳せ参じてくださった皆さんの義侠に対して、何と感謝申
し上げてよいかその言葉も知らないほどである。
6人はアギナルドの軍事顧問や、前線部隊の作戦参謀の任に
あたった。同時にフィリピン在留の日本人約300人も、独立
軍に参加して、ともに戦った。日本から義勇隊が来たというの
で独立軍の志気は大いにあがった。
■5.革命軍の敗北■
やがて布引丸の悲報が伝わった。米国は日本政府に抗議を申
し入れてきた。さらに革命軍に日本人が加わっていることを知
って、日米関係は険悪になった。
武器弾薬に乏しいフィリピン軍にとって、布引丸の沈没は致
命的であった。革命軍はゲリラ戦や夜襲によって抗戦を続けた
が、8万ものアメリカ軍に次第に追いつめられていった。
1900年6月、リカルテは蛮刀で武装した特殊工作部隊を自ら
指揮して、米軍本陣に斬り込み、捕らえられた。続いて翌年3
月、アギナルド大統領が逮捕され、二人の指導者を失った革命
軍は米軍に屈服した。1899年2月から3年5ヶ月におよぶ独立
戦争はこうして失敗に帰した。
1901年には600人ものアメリカ人宣教師がマニラに到着し、
英語での教育が広められた。すでに大部分がキリスト教徒とな
っていたフィリピン人の若者たちには、母国語や母国文化に代
わって、急速に英語文化が注入されていった。ご用政党のフェ
デラル党のごときは、アメリカの一州になろうという運動まで
起こした。
元革命政府大統領のアギナルドも、アメリカに忠誠を誓い、
報奨として豪壮な邸宅と多額の年金を与えられた。
■6.故郷を目前にして■
アメリカに買収されることを拒否したリカルテ将軍は、軍事
裁判の結果、90名の同志と共にグアム島の岩窟牢に入れられ
た。コレラやマラリアなどの風土病のため、90人の同志が流
刑3年目には28名に減ってしまった。
当局は、アメリカに忠誠を誓うなら、無罪放免するとして、
28名の囚人を船でマニラ湾まで連れてきた。3年ぶりで見る
なつかしいマニラの街並み、故郷の山河が目の前に広がる。
一人一人アメリカ合衆国に忠誠を誓う誓約書にサインをして、
上陸していった。去っていく同志の後ろ姿を見ながら、リカル
テは、サインを迫る米軍法務官に向かって「星条旗のもとには
帰りたくない」と言い切った。
リカルテは再び、国外追放の処分を受け、香港に移り住んだ。
そこでイギリス人の経営する印刷会社で働いて、印刷術を修得
し、「現代の声」という新聞を発行して、フィリピンの革命同
志や学生に独立運動を呼びかけていった。
■7.アギナルド君、起とう!■
明治37(1904)年に始まった日露戦争を、リカルテは祖国独
立の好機と捉えた。日本が勝てばアジアの諸民族は白人帝国主
義に抵抗し、独立・解放の機運を高めるだろう。
日本に勝たせたいという願いはフィリピン民衆も抱いていた。
日本海海戦でバルチック艦隊がほとんど全滅したとのニュース
が伝わると、民衆は我が事のように喜んだ。日本の戦勝を祝福
する挨拶がかわされ、マニラでは旗行列まで行われた。
リカルテはカトリック僧に扮して、祖国に潜入し、元大統領
のアギナルドを訪ねた。
この秋(とき)起たずんばいつの日にか好機があろうか。
アギナルド君、起とう。日本がロシアを破ったように、わ
れわれもアメリカと戦い、アメリカから其の独立を勝ち取
るのだ。・・・
ロシアを負かした日本も、われわれの独立戦争を決して
見殺しにするようなことはないと思う。ぼくも3年間の準
備工作で自信は十分できた。アギナルド君。一緒に起と
う!
しかし、アメリカからの年金で贅沢な生活を送っていたアギ
ナルドは、往年の独立への情熱も覇気も失っていた。リカルテ
は怒り、「国亡びて個人の栄達何するものぞ」と言って去って
いった。
■8.再度の「ノン!」■
リカルテ将軍はバターン半島の一角に砦を構え、再び独立戦
争の狼煙をあげようとしたが、賞金目当ての裏切り者がアメリ
カ軍に密告した。砦はアメリカ官憲に急襲され、同志のあるも
のは射殺され、あるものは捕らえられて、完全に壊滅した。19
05年5月24日のことである。
リカルテは捕らえられ、法廷に臨んだ。彼はアメリカの占領
以後の欺瞞に満ちた政策と非人道的行為を痛烈に批判した。香
港での地下工作の間に、彼の「独立宣言」文がアメリカの新聞
に大きく取り上げられた事もあって、米国世論は同情的であっ
た。これが圧力となって、法廷は極刑を避けて、禁固6年の刑
を言い渡した。
6畳程度の独房で、家族との面会はおろか、読書や手紙の執
筆すら禁ぜられるという厳しい監禁生活にリカルテは耐え、つ
いに6年の刑期を終えた。リカルテは再び、法廷につれて行か
れ、アメリカ合衆国に忠誠を誓えば、アギナルドのように豪壮
な邸宅と多額の年金が約束されるとさえほのめかされたが、リ
カルテはきっぱりと、「ノン!」と叫んで、首を横に振った。
リカルテは再び、国外追放を命ぜられ、香港の近くのほとん
ど無人の小島に流された。
■9.星条旗の下に帰ろうとは思わない■
その後、リカルテは大正4(1915)年に脱獄し、日本に亡命し
た。陰で日本人の支援があったと推測されている。しばらく名
古屋に潜伏した後、台湾民政長官だった後藤新平などのはから
いで、大正12年に横浜に移住した。
1934年、アメリカの主権下でフィリピンは憲法を制定し、か
つての将軍の部下ケソンが大統領に就任した。ケソンはリカル
テに対し、栄誉ある勲章と、終身年金を申し入れて、帰国を促
した。リカルテの答えは再び「ノン!」であった。
昭和15(1940)年、ケソン大統領は訪米の帰途、横浜に立ち
寄り、自らリカルテを訪ねて、帰国を求めた。リカルテはこう
答えた。
わしはフィリピンに星条旗がひるがえっているかぎり、
その星条旗の下に帰ろうとは思わない。わしが祖国に帰る
日は、祖国が完全に独立し、むかしわれわれが立てたあの
革命旗が、堂々とだれはばかることなく立てられる日だ。
■10.最後の一人となるとも、アメリカと戦うつもりだ■
その翌年、大東亜戦争が勃発し、リカルテは参謀本部の要請
を受け、占領後の独立の約束をとりつけた後、75歳の老躯を
駆って祖国に戻った。群衆は歓呼してリカルテ将軍を迎えた。
1943(昭和18)年10月14日、日本軍の軍政が撤廃され、
正式に「フィリピン共和国」として独立の日を迎えた。対スペ
イン独立戦争時から愛唱されてきた歌を国歌として制定し、そ
の演奏とともに、アギナルドとリカルテが革命旗をもとにデザ
インされた国旗を掲げた。(これらの国号、国旗、国歌は現在
まで引き継がれて、この時に就任したラウレル大統領は、現在
でも第2共和国の大統領として、マラカニアン宮殿に歴代大統
領と並んで肖像画が飾られている。)
米国の反撃が始まると、山下奉文大将はリカルテ将軍に日本
への再亡命を勧めたが、将軍は「わしは最後の一人となるとも、
アメリカと戦うつもりだ。わしの80年の生涯は、ただこのた
めにあった。」と断った。
日本軍とともに逃避行軍すること3ヶ月、80歳の将軍はあ
る朝、眠るように亡くなっていた。遺骨の一部は遺言にしたが
って、第二の故郷である日本に持ち帰られ、東京多摩の霊園に
祀られた。
(貼付終了)