★阿修羅♪ > アジア4 > 451.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
満州国は治安が良かったので中原からの流入で人口が増えたという論とも言えない論があるようです。
なぜ満蒙開拓団が武装していたのか?とか、軍歌「戦友」の歌詞を思い出すだけで、珍論だと想像できるのですが、もう少し掘り下げて見ましょう。
あまり大きな異論はない=当たり障りがないという意味で『ウィキペディア(Wikipedia)』の記述を引用しますが、必ずしもWikiが正しいという意味ではありません。
<あまり大きな異論はない>ということは、<深さがないと同義>であり、<本質を突いていないと同義>でもあります。
面倒だからWikipediaを使おうかという程度、すなわち新聞記事程度の内容ということです。
以上を前置きして、引用部分を注意深く読めば、満州国を一括りに評価することは難しいといえるでしょう。人口も誤差が非常に大きいと思われます。満州だって複雑なのです。
<参考資料>
■□□□□□□□□□□(引用開始)□□□□□□□□□□□□□■
人口
1908年の時点で、満州の人口は1583万人だったが、満州国建国前の1931年には3000万人近く増加して4300万人になっていた。人口比率としては女性100に対して男性123の割合で、1941年には人口は5000万人にまで増加していた。
1934年の初めの満州国の人口は3088万人、1世帯あたりの平均人数は6.1人、男女比は122:100と推定されていた。 人口の構成としては、
・中国人(満州人) 30,190,000人 (97.8%)
・日本人 590,760人 (1.9%)
・ロシア人・モンゴル人等の他人種 98,431人 (0.3%)
上記の『中国人』の中には、68万人の朝鮮族も含んでいる。なお、都市部の住民は20%程度であった。
日本側の資料によると、1940年の満州国(黒竜江・熱河・吉林・遼寧・興安)の全人口は43,233,954人(内務省の統計では31,008,600人)。別の時期の統計では36,933,000人であった。
主要都市の人口は下記のとおり。
・ 営口 : 119,000人 もしくは 180,871人 (1940年)
・ 奉天 : 339,000人 もしくは 1,135,801人 (1940年)
・ 新京 : 126,000人 もしくは 544,202人 (1940年)
・ ハルビン : 405,000人 もしくは 661,948人 (1940年)
・ 大連 : 400,000人 もしくは 555,562人 (1939年)
・ 安東 : 92,000人 もしくは 315,242人 (1940年)
・ 吉林 : 119,000人 もしくは 173,624人 (1940年)
・ チチハル : 75,000人 (1940年)
統計の主体によって数値に大きな差がある。これは満州国に国籍というものがなく、国勢調査が実質実施不能だったという事によるものである。
また満州国の行政権が及ばなかった主要都市の満鉄付属地の人口を含むか含まないかが、統計によって異なったためでもある。
「満州国」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD
■□□□□□□□□□□(引用終了)□□□□□□□□□□□□□■
上記引用でわかることは、1908年(鉄道周辺はロシア、非ロシア地域は中国地方政権)から1941年の時点に区切っても、満州国があろうとなかろうと満州地域への人口流入はコンスタントに続いたということです。
上記引用とググッた満州の歴史事項を重ねたのが下記年表です。これだけでも、満州地域内は満州国建国前も以後も、けして治安が良いとは言えないでしょうね。
%1906年 満州駐屯の日本軍が東清鉄道受領
*1908年 人口;1,583万人
%1912年 ロシアが外モンゴルの清からの分離独立を承認
%1918年 ロシア革命、チェコ軍が反乱開始、シベリア鉄道占拠。満州は帝政ロシア東清鉄道司令(ホールワット)
%1918年 東清鉄道は帝政ロシア鉄道司令(ホールワット将軍)の警備、沿線は清国軍の警備
%1920年 ニコラエフスク事件(樺太)
%1922年 ロシア共和国が極東共和国を併合
%1923年 張作霖の機関誌、「満鉄を中国に返せ」と論評
%1924年 張作霖の奉天軍が直隷軍に宣戦布告
%1925年 郭松齢が、国民軍と結んで反奉天派の反乱
%1926年 張作霖が、東三省は北京政府から独立すると宣言
%1928年 大連で、満鉄社員らが満州青年聯盟を結成
%1929年 張学良軍が、ハルピンその他のソ連領事館およびロシア系北満鉄道各機関を包囲・捜索
%1929年 奉天に「東北政務委員会」が成立、主席は張学良。
%1929年 張学良がソ連から中東鉄道を強行回収する。
%1929年 中国とソ連が国境で武力衝突、ソ連軍が東三省の同江を攻撃
%1929年 ソ連軍が満州里(ソ満国境付近)を占領
*1931年 人口;4,300万人
%1930年 中国の間島地方で朝鮮人が武装蜂起する。
%1931年 満州事変
%1931年 満州在住の朝鮮人農民の水田が中国側農民の手で破壊される。
%1932年 満州国の建国宣言、日本は国際連盟から脱退
%1933年 中国東北部に抗日パルチザン「東北人民革命軍」が成立
*1934年 人口;3,088万人
%1935年 北満鉄道譲渡で、満ソ両国の協定が成立
#1937年 人口;3,639万人
%1938年 張鼓峰で、日ソ両軍が国境紛争を起こす
%1940年 楊靖宇(Yang Jing-yu)が、単独行動中に日満軍警の討伐隊に射殺される。抗日運動指導者。
%1940年 国民政府が黄河以南の新四軍と八路軍に、黄河以北への移動を命令する
*1941年 人口;5,000万人
注)*は上記wiki引用より、#は別の資料より。%は、この間の事件
<余談>
ロシア革命(1918年)は、ニポンの右も左もモスクワばっかり見ているという感がします。モスクワよりも満州・シベリア・沿海州・モンゴルなどの「紅白合戦」の状況のほうが日本史にとって重要だと思うんですけどね。
東支線のロシア帝国権益は独立政権のような形でしばらく残るのですが、作成年表によっると、一時期ソ連の権益に引き継がれた時期があるようです。が、不勉強で経過はわかりません。
チェコ軍反乱・シベリア鉄道占拠(1918年)は、ロシア共産党政権の対独講和により、チェコ独立のためにロシア帝国軍の中で戦っていた独立派脱走チェコ兵により起こされたもので、ウラル山脈東部から浦塩(ウラジオストック)までのシベリア鉄道沿線が占拠され、これへの支援を名目に起こされたのがニポンの教科書でいふ「シベリア出兵」=シベリア干渉戦争=東部戦線です。
ニポン陸軍は、本体がイルクーツク、軍楽隊と陸軍測量部がオムスクまで進出してます。軍楽隊と陸軍測量部が先頭というのは、この戦争の性格が良く出ていると言えましょう。
ついでに言えば、このチェコ軍団の中には、後年のプラハの春の時のスボボダ大統領もいました。総勢5万人くらいが浦塩から舞鶴を経て独立チェコに帰国しています。
チェコ人に親日的な人が多いのは、上記のような<結果的には独立を支援した>経緯もあるからですね。
なお、後年のノモンハン事件の時に我が帝国陸軍が使用した地図も、この時にモンゴル方面に侵入した陸軍測量部の作品です。