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(回答先: Re: 「イスラエルは自分たちだけで戦い抜いた」 投稿者 gataro 日時 2010 年 9 月 23 日 20:03:24)
http://www.labornetjp.org/Column/20110307
宗教をテーマにした映画は、不安定で不確実な時代を映す鏡のようだ。『サラエボ、希望の街角』『神々と男たち』、そして、アレハンドロ・アメナーバル監督のスペイン映画『アレクサンドリア』。
時はローマ帝国が崩壊しつつあった4世紀末、舞台は栄華を極めたアレクサンドリア。原題は「アゴラ(古代ギリシャの広場)」とあるように、市場を開いたり宗教論争を繰り広げたり、時に殺し合いも起きる公共広場を中心に、古代から中世への騒然たる転換期を映している。それもCGではなく、巨大な図書館や円形劇場などを実際に建設、壮大なドラマにふさわしい伝説都市を再現している。
その図書館には学問に励む若者たちの教室があり、そこで若い娘が天文学を教えている。彼女の名はヒュパティア。図書館長の娘で実在した人物だ。彼女を軸にドラマは展開するが、折しも下層民や奴隷を取り込んで新興のキリスト教が台頭、やがては図書館や古代神殿などを異教徒の文化として破壊、弾圧を始める。科学を否定するキリスト教に屈し、彼女の生徒たちも次々と改宗していくが、ヒュパティアはひとり信念を曲げず、天文学にあけくれるのだ。やがて「魔女」に仕立てられ・・。
興味深かったのは、彼女がついに太陽の周りを地球が楕円を描いて回っていることを発見するシーン。プラトン以来、天文学者は「円より完璧な形状はない」と円を絶対化していたが、彼女はそれを新しい目で見直すべく砂の上に2本の棒をたてて楕円を描く。ここが感動的である。
このシーンに、花田清輝が戦争のさなかに書いた『復興期の精神』の一編「楕円幻想」を思い出した。花田は一つの焦点に執着して円を描くのではなく、二つの焦点によって楕円を描く世界観の大切さを天文学から導き出したのだ。17世紀になってケプラーが楕円軌道を唱えるまで、ヒュパティアの発見は葬られていたという。(木下昌明/「サンデー毎日」2011年3月6日号)
――――――追 記(その1)―――――――――――――――――――――――――――
*上記の短評に対して届いた、以下の手紙を紹介します。
映画『アレクサンドリア』ご紹介 御礼
木下昌明 様
映画会社 クレストインターナショナル 村田祐子
この度は、サンデー毎日誌、そして月刊東京でも、映画『アレクサンドリア』をお取り上げいただきまして、本当に有難うございました。
木下さんに楕円の思想についてうかがってから、本作への見方が大きく変わり、監督の意図を、より明確に掴むことが出来るようになりました。
本作は、古典世界の合理的な精神の時代が終わり、宗教の時代へと転換がはかられる、ターニングポイントを描いているように思います。その後、キリスト教やイスラム教という一神教(真円の思想)の非寛容が、現代に至るまで、いかに多くの血を流してきたのか……と考えると、なんとも言えない気持ちになります。
このような感想を持てたのも、楕円幻想、その世界観について教えていただけたからこそです。読者の方にとっても、この度の評が、素晴らしい指南書になると思っています。
――――――追 記(その2)―――――――――――――――――――――――――――
わたしの映画時評は、良くも悪くも「見たような気分にさせられる」とよく言われる。それは、ほめ言葉であると同時に批判にもなっているが、こういう感想にわたしは不満である。というのも、わたし自身は、映画のほんの一部分を、その映画の特徴として取り上げているにすぎないからだ。実際の映画は、もっと豊穣で多面的で厚みがある。特にすぐれた映画は、いろいろな角度から批評しなければ全体像がみえてこない場合がある。
この『アレクサンドリア』の短評もその一つ。わたしは女主人公のヒュパティア(レイチェル・ワイズ好演)を、キリスト教に屈しない毅然とした人物として取り上げた。しかし同時に、そんな彼女であっても時代の制約を受けている。そのマイナス面も描いているところが一つの見どころとなっている。そういう問題にこの短評ではふれていなかった。
ヒュパティアには、常に一人の若い奴隷のダモスが付き従っていて、その彼に対する彼女のふるまいに歴然とした〈差別〉が表れている。ダモスは聡明な若者で、彼女の講義をいつもそばで聞いているから、講義に出てくる「プトレマイオスの説」を基に、天体の模型をつくる。それを偶然見つけた彼女は驚き、生徒たちの前に模型を披露し、ダモスをほめたたえる。ここに奴隷だろうと支配層だろうと知識を習得した者への称賛を惜しまない彼女の豊かな人間性がかいまみられる。ところが、その舌の根も乾かないうちに、彼女は、生徒たちに向かって「みな兄弟」だから争いごとを慎むように諭したあと、こんどは公然と「争いごとは奴隷や下層のもの」と言い放つ。その彼女を奴隷は怒りを抑えてみつめる。また、彼女は入浴の際に、奴隷を待機させ、風呂から上がると一糸まとわぬ裸身をさらして、彼に全身を拭かせる。そこに当時の制度化された〈差別〉構造での意識のあり方が表現されている。彼女の目には、彼が〈人間〉とは見えていない。目には見えない宇宙の真理を解き明かす知能を持ちながら、目の前の〈人間〉が同じ人間とは見えないのだ。
またダモスの方も、彼女に憧れ、〈女〉への欲望を持っているが、彼女が彼を人間扱いしてくれないので、手も足も出ない。そのために彼が、下層民も奴隷も同じ仲間だとして認めるキリスト教を知り、入信することで自信をもつようになる。新興の宗教が台頭してくるのは、こういう弱者のエネルギーを吸い上げることによってである。
そこで、科学を否定するキリスト教徒たちが図書館を破壊した折、ついに彼もヒュパティアの命令に従わず、彼女を襲ってキスしようとする。彼女はこのときどうしたか?――はじめて女として目覚め、彼を人間として男として認め、熱く抱擁する――なんていったメロドラマを期待していたら大間違いである。そんな通俗ドラマにはならない。彼女はキスをされながらも「この家畜が何をするのだ」といわんばかりに目をむき、驚愕する。ここに彼女の差別意識が現れる。それを見事に表現している。そのあと、彼女は彼をもはや奴隷でないと悟り、彼の首から奴隷の徴である首輪を外すのだ。ダモスの方は彼女をモノにしようとしたものの、対等の男と女のようにはなりきれず、彼女の前にうずくまってしまう。
この映画の魅力は、ヒュパティアがどんなに先駆的な人物だろうと、同時に、その時代の負の制度も体現している人物として浮かび上がらせたところにある。