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鳥の揚げ足を取るようで申しわけない(面白い)が‥‥。
>(誰の)「食欲をもそそらない」「故に見向きもされない」「哀れな」 ←※分かち書きのようにしてみた…。
う〜んくどいなあ(笑)
少なくとも「前項」と「次項」とは(これを因果関係にしているようだが)ほぼ同じ意味といっていいだろう。
「哀れな」は、言わないほうがいいな。言葉にせずに、そう感じさせればいいはずだ。
そして「見向きもされない」とくりゃ、既に「哀れに」感じざるを得なくなっているわけだな。
「その哀れな対象」に移入するにせよしないにせよ、もう充分だな。
(ふ〜む、形容詞を並べりゃいいってもんでもないだろうに)
>「誰の食欲をもそそらない」
「誰の(全称として)」と言い切れるかなあ?
>「ブツブツぼやきながら」
ふぅ〜、ボヤッキーかあ…(笑) こういう表現をここで急に用いると“格調”を下げてしまわないか?
敢えて、諧謔味を醸させてパロディーを狙っているとも思えないな。
勿論これは、あなどれない問題だと思う。
洗練された演出というのは、それが国家規模ともなると、
即自的には“ライヒ(帝国)者”としての自負に繋がるだろうし、
対自的(には、民衆に熱い眼差しを注がれて)超人と化さしめるものなのだろうから。
‥‥ここが、ありがちで“成金的にコミカルな”ザイン文化と
“厳格な正統派”ワーグナーとの決定的な違いだな。
不調和に、過度に脱すると滑稽味が滲出してくるのだと思う。
>「ワーグナーの世迷い言に付き合う酔狂は‥‥人々を捉えることは無い」
おいおい、「付き合う酔狂が」惹きつけないのか?
おかしいじゃないか「付き合う酔狂」って何だ、「ワーグナーに付き合う」ヒトラーの趣味性のことか。
う〜む、しかしヒトラーは、別に「付き合っては」いないと思うぞ。
もともと「好事」というのは付き合ってする振る舞いではないだろう。
傾倒し、心酔し、熱狂しているのが事実に思えるくらいだよ。
それに‥‥そもそもあれに全面的に書かれているのは「酔狂」(没入→演説→国家演出)のほうではなくて、
“通底主観”に耽溺する「ワーグナーの世迷い言」のほうだと思うがな。
‥‥というわけで常套句を連ねるのも、真剣に“推敲”すれば一苦労だなあ(笑)