★阿修羅♪ 現在地 HOME > 番外地5 > 189.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
”ヒトラーの世界観”                “ユダヤ‐メンデルスゾーン批判”
http://www.asyura2.com/05ban/ban5/msg/189.html
投稿者 SV問題 日時 2006 年 1 月 30 日 13:24:07: ed3m9sVxNwNrE

ヒトラーの世界観とは
 
 
「ユダヤ嫌いはヒトラーの中心点であり、原動力であった。その他全てはこの中心点の飾りに過ぎなかった、とわたしには今日でも思える。」と、シュペーアは書いている。ヒトラーをこのような世界観に導いたものは何だったのか。それを探っていくと、彼が最も熱心に聴いたワグナーにたどりつく。ワグナーは有名な反ユダヤ主義者で、雑誌に載せた論文『音楽におけるユダヤ性』でユダヤ人とユダヤ人の音楽家をこっぴどくこき下ろしている。ヒトラーはこの文章を読んでいた。

《音楽におけるユダヤ性(Das Judentum in der Musik 1850)》

「無意識的ながら民衆の内に浸透している心底からの反ユダヤ感情を明らかにする。
「演説や文書に百万言費やしてユダヤ人解放を叫んでも、いざ直にユダヤ人に接するとなると、そのたびにどうしようもない不快な気分にさせられてしまうのである。
「われわれは、ユダヤ人気質や人柄から受ける抑え難い不快感を正直に告白し、いくら自覚的に努力しても拭い切れないほどの根強いことが分かっているこの本能的な嫌悪感をありのまま認めるようにしなければならない。
「世界の現状を直視してみれば、実際のところ、ユダヤ人の地位はもう解放を必要とするどころの話ではない。彼らこそ支配者であり、金力の前に人間の営みが膝を屈する限りユダヤ人の支配は続くだろう。
「芸術の英雄たちが、身も心もすり減らす未曾有の苦闘の末に、ニ千年に及ぶ不幸な時代を通じて芸術に敵対してきた魔神から戦いとったものを、今日のユダヤ人は芸術商売のねたにしているが、見てくれのいい芸術作品が二千年間も苦しみ抜いた天才たちの貴い汗でぬれているのに誰が気づくだろうか?

「ユダヤ人の容貌はとても美術の対象にはなり得ない代物である。英雄であれ、恋人であれ、古典物や近代劇の役をユダヤ人が演ずる舞台には、こっけいなほどの違和感を覚えずにはいられない。
「この不幸は故郷喪失者たちは、言語の熟成にも、文明や芸術の発展にも参与せず、冷ややかに敵意さえ抱いて傍観しているのが精一杯であった。こうした言語と芸術の分野でユダヤ人がなしうることと言えば、真実を語る芸術作品の創造ではなく、単なる口真似や模倣に過ぎない。
「ユダヤ人の話しぶりには、純粋に人間らしい表情が全く欠けており、思わず胸が悪くなるほどである。

「世の中の流れが変って金の力が次第に露骨に認められるようになり、金が実質的に社会を支配する貴族の地位にまで成り上がって以来、それまで自分では働かずにもうける高利貸しだけを唯一の生業としてきたユダヤ人に対して、慢性金欠病に悩む新社会から惜しげも無く貴族証書が交付されるようになったが、ユダヤ人の方でも自力そこまでこぎつけたのである。もともと近代教育は、富裕層にしか手の届かないものであったが、贅沢品とはいえ金を積みさえすれば買える商品に格落ちした以上はなおさらのこと、教育の門戸はユダヤ人に対して一層大きく開かれるようになった。こうして、われわれの社会に教養あるユダヤ人が登場してきたのだが、・・・・ユダヤ人の教養人は・・・・仲間にも入れてもらえずポツネンと立っている。そうした自然な共同体から完全に締め出され、自分の一族との絆をぷっつりと切られた上流のユダヤ人は、大枚はたいて習得した教養の使い道が分からないために、贅沢品として身を飾るだけになる。

「そして真の詩人は、どの芸術分野を本領とするにせよ、民衆の内にしか見られない、生のままの生を愛情に満ちたまなざしで、誠実に見つめることによってのみ詩作への霊感を得ることができるのである。さて、教養あるユダヤ人は、一体どこにそうした民衆を見出すのだろうか?
「民衆の素朴な反ユダヤ感情が、剥き出しのまま突き刺さってくる。こうして民衆との触れ合いをてひどく拒絶され、いずれにせよ民衆に宿る精神を把握する能力もないユダヤ教養人は、自分の出身民族の根底へと向うことを余儀なくされる。そこから取り出せるのは、いかにWieというスタイルである何をWasというスタイルではない。ユダヤ人固有の芸術を持ったことがなく、それゆえに芸術の糧となるような内容の濃い生活体験もない。

「さて、ユダヤ人作曲家に素材を提供し得るこの民族で唯一の音楽表現は、エホバを祭る祝典の音楽であり、彼が自分にも理解できる民衆的なモチーフをくみ上げるただ一つの源泉は、シナゴーグである。
「民衆の集う正統シナゴーグで歌われる聖歌の醜い表情を自分の耳で確かめたことのないものがいるだろうか?
「こうしてユダヤ人は、芸術の領域でたまたま彼の目にとまった現象のほんの上っ面を本質だと思い込んでしまい、その印象を彼らの芸術作品に写し出してわれわれに送り返して来るのだが、そこに結ばれる像は、われわれの目には異様で冷たく、奇怪で表情に乏しい不自然に歪んだものにしか見えないから、ユダヤ人の音楽作品を聴いていると、まるでユダヤ言葉でゲーテの詩が朗読されるのを聞かされているような気分になることが多い。
「ユダヤ人には真の情熱が欠けており、ましてや芸術的創造への内奥から駆り立てる情熱などは微塵も持ち合わせていない。
「ユダヤ人の音楽作品は、精神を感性も萎え果てた惰眠状態が続く部分を除けば、最初から最後まで狂騒に満ち満ちている。自分も芸術をやってみようというユダヤ人の目論見からこのようにして生まれた作品には、冷たさ、味気なさ、それに陳腐、こっけいといった性格がどうしても付きまとうことになり、われわれは、近代音楽におけるユダヤ時代を、歴史的に見て想像力の不毛が極限にまで達し、堕落と停滞に陥った時代、と呼ばずにはいられない。

「われわれがメンデルズゾーンの作品を聴いて夢見心地にさそわれるのは、ひときわ繊細で滑らかに磨きぬかれた音型がまるで万華鏡の中で変化する色や形のような魅力を振り撒きながら、多少なりとも心地よいものの方へ引き寄せられがちのわれわれの想像力の前をつらなり合いもつれ合って流れていくような部分に限られており、−人の心に深く宿るゆるぎない想念をこうした音型に託そうとしたところでは、決してわれわれの心をとらえることはできなかった。

「この作曲家(*マイアベーアのこと)は、ショックを与えて観客を動揺させたり、胸も張り裂けんばかりのカタストロフを織り込んでその効果を利用することもおさおさ怠りなかった。退屈し切った聴衆は刺激に飢えているということを考えてみれば、この手法も決して驚くに当たらない。

「いささか立ち入って論じた二人のユダヤ人音楽家が本当に音楽の質を高めて開花させたのであれば、われわれの側に生じた生理的不能のせいで二人に後れをとったのだと素直に認めるべきであろうが、事実は決してそうではない。(音楽芸術における現代という時代の)不毛は音楽芸術そのものの精神の内に巣食っているであり、・・・・音楽という芸術ジャンルそのものの不毛ぶりは、非凡な専門的才能に恵まれた音楽家メンデルスゾーンの芸術活動に如実に現われている。一方、今の世の中全体の愚劣さと、その徹底して非芸術的な体質要求は、例の有名なユダヤ人作曲家が博した成功を見れば一目瞭然であろう。

「音楽という個別芸術が有機的な生への欲求をまだしっかりと体内に保持していたMozartやBeethovenの時代までは、ユダヤ人作曲家などはどこを探しても見当たらなかったし、この生命原理と全く異質な分子が音楽の生命形成に関与することなどはおよそ不可能であった。

「否定に値すると思われるものは全て否定してかかる仮借なき精神に先へ先へと駆り立てられ、現代の自己欺瞞から芽生えたありとあらゆる幻想の間を息をつく暇もなくかけめぐったハイネであったが、そのハイネがとうとうしまいにはわれわれもまた詩人なりと自分に嘘をつくようになると、当代の作曲家たちはこの詩作仕立ての嘘に競って曲をつけるようになった。−ユダヤ人の存在がわれわれの現代文明にとって泣き所とすれば、ハイネはユダヤの良心であった。

「しかしユダヤ人にとって、われわれと共に人間になるということは、取りも直さずユダヤ人であることを止めることを意味する。アハスヴェール(*さまよえるユダヤ人をさす)の解放とは−滅びゆくことなり!

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      HOME > 番外地5掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。