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自由主義と不連続的差異論:能動・歓喜・共生的ポストモダン・ヤポネシア平成維新へ向けて
私が、差異というとき、これは、個の自由ということとほぼ同じことである。そう、不連続的差異論は、一種自由主義である。しかし、通常の自由主義あるいは新自由主義とは決定的に異なる点をもつ。それは、差異の共存・共立・共生をも志向するからである。個の自由が同時に、個と個との共存であることを志向するのである。ここが、決定的に異なる点だと思う。
イギリスそしてアメリカの自由主義は、簡単に言えば、近代的自我主義であり、個人主義だと思う。では、不連続的差異論から見たら、それは、どのように分析できるだろうか。これは、意外に難しい問題である。自我とは何かという問題があるからである。
まず、近代的自我であり個人主義的である自我が近代西欧に誕生する。これは、二重である。近代主義的であり、個人主義的である。しかし、デカルト的な合理的な主体というよりは、特異性をもった自我であると思う。つまり、不連続的差異論から見ると、自由主義の自我とは、不連続的差異性を帯びていると思われるのである。問題は、この不連続的差異の性質である。これは、先に二つのポストモダン(言わば、暗黒ポストモダンと光明ポストモダン)に述べたことと関連がある。即ち、反感的か肯定的かの違いが関係すると考えられるのである。二つの不連続的差異が存するということである。反動・憎悪・利己主義的不連続的差異と能動・歓喜・共生的不連続的差異である。ここまで、言うと、自由主義の自我がどちらであるか、ほぼ明瞭である。これは、前者でしかありえない。ニーチェ的に言えば、ルサンチマン的不連続的差異である。(おそらく、ホリエモン氏や小泉氏や竹中氏がこれである。)これは、極めて、破壊的な個人主義である。アナキストのシュティルナーの唯一者とは、ほぼこれに近いのではないだろうか。
ということで、自由主義と不連続的差異論の「自由主義」の違いがこれで判明したと言えよう。前者は、イデア界から発しているものの、反動となった、いわば、凶暴な個人主義である。それに対して、後者は、イデア界に能動的に回帰した、差異共生共創的な個人主義である。前者は戦争主義であり、後者は平和主義である。一元論と多元論、一神教と多神教の違いとも言えよう。憎悪的であるか、歓喜的であるか。父権的あるか、母権的であるか。天上的であるか、大地的であるか、等々である。
日本人は、戦後、USAの半植民地となり、アメリカ化した。それは、自我が反動・憎悪・利己主義を帯びたということである。本来、多神教の日本文化(ヤポネシア文化と言おう)は、差異共存主義の文化である。しかし、自覚乏しく、欧米化されて、自己を喪失しているのである。今、日本の政治・経済は大きく揺らいでいる。カオス状態である。結局、新自由主義的ポストモダン路線は、問題が多いのがわかる。これは、強暴な路線であり、他者を排斥するものであり、社会は荒廃する。確かに、新自由主義の小さな政府という理念は、「社会主義」的資本主義に対する処方箋の意味があることは否定できない。しかし、これは、いわば、副作用が大き過ぎるのである。社会をずたずたにするだろう。勝者と敗者の二極化が徹底するだろう。当然である。そして、今や、ライブドアや耐震強度偽装等で、そのダークさが誰の目にも明らかになったのである。
今年は、戦後日本社会の一番の転換点となるだろう。アメリカの中国重視・多極化の政策という新たな黒船が来航しているからである。平成維新の可能性があるのである。ここで、ヤポネシア本来の文化の復活と、不連続的差異論が説く能動・歓喜・共生的ポストモダンの創造が、蓋然的になってきているのである。ポスト新自由主義としての能動・歓喜・共生的ポストモダン・ヤポネシア平成維新のエネルゲイアが、ふつふつと滾ってきていると思うのである。