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(回答先: Re: 古くからある神戸、横浜ロッジとイギリスメーソンの関連リンク 神戸について 投稿者 月の輪 日時 2005 年 11 月 22 日 08:25:18)
(引用)
‥‥宇野浩二『独断的作家論』(講談社文芸文庫)に収録された「稲垣足穂と江戸川乱歩」を読み始めたら、その文章の途中で眼がテンになった。引用してみる。
「私が、はじめて稲垣足穂の名を知ったのは、大正十年の秋の初め頃、その時分、世田谷の砲兵聯隊の近くにあった、佐藤春夫をたずねた時である」
大正・図入り小説三人男、佐藤春夫・宇野浩二・稲垣足穂が一挙に串刺しになっているではないか。
佐藤春夫と宇野浩二は、ほぼ同時期の作家デビューなので、頻繁に顔を合わせていても不思議ではなさそうだが、実は、宇野が佐藤の家を訪問したことは二回しかない。(宇野浩二が死去したときの佐藤春夫の追悼文)その他の実生活上での交渉は、戦後、同じ文学賞の選考委員になったときタクシーに乗り合わせたような話が書いてあるだけである。数少ない座談の機会に、稲垣足穂の作品を紹介したというのが何とも面白く感じられる。
この時、佐藤春夫は、机の上にあった300枚くらいの原稿用紙を宇野に渡して、「これはちょっと面白いよ」といったのが、足穂の出世作となった『一千一秒物語』である。宇野は、早速、初めの4、5枚を読み、「新鮮な、特異な物語」に感心することになる。
(原稿を渡す前に、佐藤と宇野の間で交わされた会話が同じ文章に書き留められているが、その会話は随分意味深長に思われる。この会話は、この駄文の展開に伴って、再登場するはずだ)
さて、稲垣足穂の図入り小説「私とその家」の話だ。
『稲垣足穂全集1』に、改題名「夢がしゃがんでいる」として、収録されている。ところが、残念なことに全集版には、図が入っていない。同短編が収録されている『タルホ神戸年代記』も当たってみたが、こちらも図がない。仕方がないので、読み始める。6頁ほどの掌編。
「若し4だとすれば、斜線はそのままにして、たての線とよこの線を伸ばす。Aならば、凭れ合っているどちらか一方の線を延長します。そんな形になっている辻が、私の通学の道すじにあって、まんなかの三角形の区画内に、三角形の玩具のような洋館が立っていました」
その建物は、住宅とも事務所とも測候所とも見当がつかない。閉ざされた戸口や窓からは住人がいるのかどうかも窺えない。私は誰かが住んでいるのだと思い、自分一人の折りはその幻想は「そこからトアホテルの赤い円錐を描いた塔の見える坂道」まで続き、「自らでっちあげた探偵気分に酔っている」
あるとき同級の友人に、その件を持ち出すと「あの家にはきっとこの都会の夢が棲んでいるだぜ」と笑う。私は、それ以来、「巴里製の香水壜のような洒落た夢心地をそそり立てる緑色」に棲む、じいさんのような、ピンク色のワンピースを着た少女のような、マントを引きずった紳士のような「夢」の形を夢想する。家を初めて見てから三年目、家の前に人だかりをしているのを私は見るが、「日頃から注意していた」下級生の後をつけていたため、何が起こっているか知ることができなかった。友人Oは桑港に去り、私が中学を卒業するときも、緑色の家は変わらず建っている。更に3年経過して故郷に帰った私は、グリーンハウスがなくなり、後は芝生になっているのを見る。「夢がしゃがんでいる・・」と私は呟き、港の街の方へゆるい坂を下ってゆく。
少年の日の幻想と愛借。夢を育む容器としての「家」がタルホ言語で語られている。
大正12年(1923)「私とその家」と題して、「新潮」に発表。大正14に『鼻眼鏡』に収録。昭和3年「夢がしゃがんでいる」と改題改訂、さらに昭和8年「緑色の記憶」として改題改作されており、かなり作家として愛着のある短編なのではないか。 『個室とまなざし』には、この短編に挿入された図面が掲載されているが、短編の冒頭の説明にあるように、道路の交叉と三角の家の位置を簡単に示した略図である。
文中、気になった「トアホテルの赤い円錐を描いた塔」について。トーアホテルは、明治41年、北野町(現 神戸クラブ地)に新築開業。全室バス付の当時最新設備を誇っていたという。この赤い円錐を描いた塔のことは覚えておきたい。