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「白人主義」の正義と不正義 より
(前略)
長野であれだけ沸かせてくれたノルディックスキーのジャンプ競技だが、長野以来日本勢は不振が続いている。その最大の原因が、長野五輪の後に行われたスキー板に関するレギュレーションの変更であったことは間違いない。
長野五輪までは、スキー板の長さは選手の身長+80cmまでと決められていた。しかし長野の後のシーズンから、選手の身長の140%まで、という規定に変更された。
これによって、たとえば、ドイツのマルティン・シュミット選手はスキー板の長さが伸びた。逆に、五輪団体で大活躍した岡部孝信選手は10cm近く板が短くなった。
とりわけV字型のジャンプ飛形にあっては、スキー板は翼である。翼が広いほど大きな浮力が得られるから有利になる。当然の理だ。そしてこの改正が、体格の大きなヨーロッパの選手に有利に働いたことは否定しがたい。
その一連の流れを、日本のエース船木選手が「白人主義の中でやっていかなければいけませんから」と表現した。
この発言が、静かに波紋を呼んでいる。
批判的な意見の多くは、日本チームが弱くなったのを人種のせいにするとはけしからん、というものだ。事実、昨季の総合チャンピオン、ポーランドのアダム・マリシュ選手は身長170cmに満たないではないか、それでも勝っているではないか、と。
たとえばMSNジャーナルにもそういう意見が掲載されていた。筆者はこのように言う。もしアメリカの黒人陸上選手が、自分が勝てないのは白人中心主義だというのか。そしてそのために、黒人選手は不利益を蒙っているか。そうではないではないか。だから、戦績を「白人主義」に結びつける発言は間違っている、と。
正論である。
一定のルールの中で成果を収められないことをそれ以外の要因に帰そうという姿勢は正しくない。もちろん、現実としては人種による差別があったにせよ、である。
例えば、かつてフランスのフィギュアスケートの選手にスルヤ・ボナリーという選手がいた。フランス国籍の黒人選手で、フィギュアスケートの世界では黒人選手は当時珍しかった(今でも珍しいが)。彼女は高い技術を持っていたにもかかわらずオリンピックや世界選手権など大事な大会で優勝することができず、大会では禁じられている宙返りをしたりメダル授与を拒否して表彰台を降りたりと、反抗的な態度が目立った。そしてしきりに、黒人選手へのジャッジの偏見を訴えた。
フィギュアはジャッジによる採点競技だから、彼女がそのように感じてしまうのも無理からぬことであった。実際、日本の佐藤選手が優勝した東京での世界選手権では、人種差別とは言えないまでもホームタウンデシジョンに近いものがあったから、彼女の声が全面的に間違っていたわけではない。
それでも、それを口にした時点で負けなのだ。誰もがルールに対して平等なスタート地点に立っているわけではない。どうしようもない差は当然ある。しかしそれを言い出せばレギュレーションというものは意味がなくなってしまう。
だから、所与のルールの中でいかに勝っていくか、戦略を練ることに力を注がなければならないのだ。
これは文明社会の「正義」である。
だから、船木選手の発言がそのような批判を受けるのは致し方ないと思う。
しかし、である。
「白人主義」という表現があまりにracialに過ぎるとしても、やはりそこには問題が横たわっている。その問題は、ルールを変えるというときに顕になる。船木選手は人種的な被害意識を言っているのではなく、ルール改変に伴う立場の不利を言っているのだ。結論を先取りして言うと、それはracialではなくてnationalなものである。
スキージャンピング競技にしぼって具体的な話をしてみよう。
MSNの筆者は、体格が大きければ体重が重くなり、小さければ軽くなって浮力を得るのだから、どちらが有利とは必ずしもいえない、という。そして板のレギュレーションの変更は、「飛び過ぎ」による選手の危険を減らすための「客観的な事由」によるものだ、という。
しかし体重の話に限って言えば、それは飛んだ後の話である。問題は、飛ぶ前だ。
選手はジャンプ台を滑ってきて踏み切るわけだが、踏み切るときの速度が早いほど力強いテイク・オフと大きな飛距離が得られる。その差は時速1キロにつき2mと言われている。ラージヒル競技では、飛び出しの速度が時速90キロを切るようではほとんど勝負にならない。したがって、遠くへ飛ぼうとすればジャンプ台のスタート地点を高くすればいいわけだ。これが曲者である。
軽い体重と高い技術で日本選手が勝ち始めたころから、ヨーロッパの大会では軒並みスタート地点が2m高くなった。これは体格の大きな自国の選手にスピードをつけさせて遠くまでの飛距離を確保し、日本選手が持つ「技術」が獲得する距離を無化してしまおうという計算なのだ。
簡単にいえば、スタート地点が高いほど、体重のある選手が大きな加速度を得て飛び出しのスピードも速くなり有利になる。逆に低ければ、飛び出しのスピードが全般に抑えられるから技術を持った小柄な選手のほうが有利になるのだ。
それぞれの国が自国の選手を勝たせようとしたとして、ほとんどの大会が行われるヨーロッパの選手と、年に3大会しか行われない日本の選手ではどちらが有利かは明らかだ。
それでも日本選手は、この露骨なスタート地点の変更をしのいで勝ち続けた。W杯総合チャンピオンこそ逃しているものの、12人ものワールドカップウィナーを抱えている国は他にない。90年代前半世界を席巻した西方仁也選手が、長野五輪のテストジャンパーを務めるほどの層の厚さだったのだ。船木選手は五輪で金を手にしたし、団体でもリレハンメルの銀、長野の金を得た。世界選手権でも原田雅彦選手が93年のノーマル、そして97年トロンハイムでのラージと両方の世界チャンピオンに輝いた。
結局、「飛びすぎ」とは、こうした日本選手に勝とうとしてスタート地点をどんどん上げていったことの結末でしかない。それでも日本選手を抑えられなかったとき、板のレギュレーションが変更されたのだ。飛びすぎの危険とは、結局自国の選手を勝たせようとした結末でしかない。
船木選手が言っているのは、そういうことだ。
スキーはヨーロッパで生まれた。そしてヨーロッパ諸国が世界を植民地にし、いまも半ば支配している。その歴史的な理由によって、ヨーロッパが世界のスキー界をコントロールしている。つまりFIS=国際スキー連盟だ。
FISに加盟している国はたくさんあるが、結局、ルール改正などに発言権をもつ国は一部のヨーロッパの国に限られる。ノルディックであればドイツ、フィンランド、スウェーデン、ノルウェーなどである。かつて日本がノルディック複合で、ジャンプでリードしてクロスカントリーで逃げ切るという作戦に成功して連戦連勝していたとき、ジャンプでの得点を下げるというあからさまなルール変更を行ったのは記憶に新しい。
アルペン競技であれば、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリアである。昔の話になるが、スウェーデンのステンマルク選手がアルペンスキーで圧勝していたころに、得点計算の方法を変更して彼をチャンピオンの座から遠ざけたのはこれらの国々だった。
同様の問題は、テニスにも、サッカーにも存在する。それぞれのスポーツの「母国」は大量の資金を投入して、プライドをかけて戦っている。それだけに、「小国」のよその選手に栄光をさらわれるようなことは耐えがたい屈辱であり、そのためにはルールの変更も厭わない。彼らが堂々と行う「不正義」がそこにある。
しかしながら、この「正義」と「不正義」は裏表だ。「不正義」がなくては「正義」が成り立たないし、その逆もまたしかりである。たとえ、日本とヨーロッパ諸国の関係が逆転しても上に書いたような「正義」と「不正義」がなくなることはない。立場が入れ替わるだけである。
船木選手のように、最前線で戦っている人にはそのことはひしひしと感じられているだろう。彼のコメントから感じられるのは、自分がモンゴロイドであることの僻みというよりは、諦めに近い。われわれが大航海時代以前に時間を引き戻す力をもっていない以上、結局、そのなかでやっていくよりほかないのだ。
スキージャンピングにも、そうした「白人主義」の正義と不正義の裏表が横たわっているのである。残念ながら、ヨーロッパの船木批判はそうした裏表を見ていない。あたかも自分が明白に正義の側にいるような論調には、断固反論すべきだろうと思う。