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Q88: イスラーム世界にもヤクザはいるのですか。
A88: 正確にはわかりませんが、中東の何カ国かにはどうやらいるようです。旅行者が夜うっかり怪しげな一廓に行ってからまれた、という話も聞きますし、大衆映画を見ると出店の集まるところやキャバレー・賭博場で「しきって」いる「その筋とおぼしき人」が現れます。ナイジェリアやタンザニアなどでは、組織的犯罪集団が暗躍しているとも聞きます。日本の暴力団に類すると思われるこれらの集団の実態はあまり知られていません。
歴史的には、男気や義侠心を重んじ、地域や都市の防衛に力を尽くした任侠集団とでもいうべき男性たちのグループが九世紀半ばから存在したことが確認されます。アイヤールなどとよばれるこの「おにいさん」たちの性格は両義的で、一方では弱きを助け強気を挫く正義の味方、もう一方では強請・タカリなど無軌道な行為で堅気を困らせるゴロツキ、でもありました。イスラーム諸都市では、彼らは街区(ハーラ、マッハラ)や職能集団(スィンフ)との密接な関わりの中で強い絆を保ち、ある種の防衛能力も発揮していました。時代や地域によっては、支配者から命を受けて街区の治安維持に奉仕することもありましたが、不穏な時には、都市反乱の先頭に立ったり、逆に住民を制圧する力になったりしました。
アイヤールの徳目は、ムルーワ(男らしさ)とフトゥーワ(若者らしさ)であるといわれます。イスラーム史の初期にはムルーワとイスラームの倫理が相反すると考えられたこともあったようですが、やがて信仰心と結びついた徳目として受けとめられるようになり、さらにはアラブの騎士道(フルースィーヤ)の精神的支柱ともなっていきました。アッバース朝期、フトゥーワの徒は実際の戦闘に必要な肉体の鍛錬と武術を誇る面が強く為政者も彼らの武力を強く意識していましたが、アッバース朝崩壊後に都市に住む職人たちに浸透したフトゥーワでは、困窮する都市民を助け、喜ばす義侠心が強調されています。イランでは、初代イマーム・アリーを「男のかがみ」とするジャヴァーン=マルディー(ペルシア語で若者らしさを意味する言葉)の精神を書いた「フォトゥーヴァト=ナーメ(フトゥーワの書)」が職能集団で継承されていました。
都市の任侠集団は、今世紀の前半までは都市につきものの存在だったようです。若い頃無法者のグループに入っていたエジプト人の回想録は、仲間とつるんで町中をうろつき、酒や大麻を嗜んだり、婚礼や割礼の行列をからかっていた若者が「親分」に「フィティーワ」(カイロの下町訛でフトゥーワの輩のこと)として認められることが嬉しかったことを述べています。また、他の「組」のメンバーとの喧嘩の後、親分同士で立派なパーティーを開いてことをおさめるなど、日本の「手打ち式」に似たこともやっていたようです。
西アナトリア(トルコのエーゲ海沿岸地方)では、エフェとかゼイベキとよばれた「伊達男」の集団がおり、ラクダのキャラヴァンの道案内・護衛、都市での治安維持・護衛役を果たしていたといいます。一九世紀になって、国際交易と彼らのキャラヴァンによる交易が両立しなくなり、ゼイベキによる反乱が起こるほどになりました。反乱はオスマン帝国の軍によって鎮圧されましたが、義賊として彼らの記憶は残りました。さらに彼らは第一次世界大戦後、イギリスに後押しされて侵攻してきたギリシア軍にも果敢に抵抗しています。
ペルシア語のルーティーという言葉は、大道芸人と無頼の徒の両方の意味があり、日本の「テキヤ」とヤクザの関係を連想させます。ルーティーは、ズール=ハーネといわれるイランの伝統レスリング道場で身体を鍛え、筋骨隆々たる体躯を誇ることが多いようです。先のイスラーム革命の際には、ズール=ハーネ出身者と思われる人々がデモ隊の鎮圧に加わっていたと言います。
産業構造や都市の住環境の変化につれて任侠精神を発揮できる余地はせばまり、街区の住民と哀歓をともにする任侠の徒には住みづらい世の中になったようです。しかし、「男らしさ」へのこだわりや、都市の庶民の仕草や慣用句に、かつての任侠精神の名残をかいま見ることはできます。