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開発
3M/M−6バイソン爆撃機の開発作業を終えた1956年、ミヤシチョフ設計局ではM−50超音速爆撃機の開発に着手した。この当時、ICBMやSLBMはまだ実用化していなかったので、敵対国の本土まで核兵器を運ぶことができる戦略爆撃機が最も重要視されていた。
このM−50も、3M/M−6と同じように敵対国の心臓部にある重要目標を破壊することを任務とする戦略爆撃機であるが、アメリカ空軍が超音速戦略爆撃機XB−70バルキリーを開発中であるという情報が伝わり、これに対抗する目的で開発されたものである。そのため、敵対国の防空網を突破するためのマッハ2以上の超音速性能が要求された。
M−50はまさにエンジンからタイヤカバーにいたるまであらゆる物が新設計で、高度に先進的な複合体であった。そのため、このM−50の開発作業には20の設計局と、異なる省庁の管轄下にある10の巨大施設が関わったという。
1959年、数々の技術的困難を乗り越えてプロトタイプが製造された。そして、1959年10月27日に成功裏に35分間の初飛行を果たした。しかし、この時点では搭載が予定されていたM16−17ターボファンエンジン(推力21000kg)が間に合わず、代わりに3M/M−6バイソン戦略爆撃機と同形式のトブニューニンVD−7(推力9750kg)ターボジェットエンジンを搭載して初飛行を行っている。なお、これらのエンジンは応急的に搭載されたものであり、空気取り入れ口は可変式では無く固定式であった。
そのため、M−50は設計上の最高速度を出すことができなかったばかりか、音速の壁すらも突破することもできず、マッハ0.99を出すのが精一杯であった。
この唯一の致命的な欠陥を除けば、M−50バウンダーの飛行試験は順調に進み、1960年には内側パイロンにアフターバーナー付きVD−7M(推力16000kg)と外側パイロンにVD−7B(推力9500kg)の混載に改良された。このエンジン配置は航続距離とエンジン推力増加という相反する事項においての可能な限りの折衷案であった。
その後、1961年7月9日のツシノ航空ショーでMiG−21フィッシュベット戦闘機2機とともに編隊展示飛行を実施し、一般公開された。
設計
超音速爆撃機を目指したミヤシチョフM−50の設計は、多くの点で従来の爆撃機とは異なるものであった。例えば、着陸装置は従来理想的とされた3点式では無いし、機体も従来の爆撃機の標準的な設計では無かった。
M−50戦略爆撃機の空力性能は、当時最も洗練された設計であった。これは、39種類以上の設計の中から風洞実験を経て、1956年12月に選ばれた形態であった。なお、機体の形態に関してはより奇抜なデザインの物もあったが、結局、翼厚比3.5%の超薄型の尾翼付きデルタ翼に落ち着いている。これは、手堅い設計を採用することで設計時間を短縮する狙いがあったものと思われる。
主翼は、翼幅35.1mで、前縁の後退角度は付け根から内側エンジンまで50度、そこからは41度30分である。主翼桁は4本で、全て胴体から90度垂直である。小骨(リブ)は片側それぞれ7本ずつある。フラップは内側が2重隙間フラップで外側フラップに向かってテーパーしており、外側フラップはエルロンの役割も果たす仕組みになっている。
次に問題になったのはエンジンの配置であった。エンジン配置には、空気抵抗を可能な限り小さくし、しかも設計を最大限に簡素化するようなものが求められた。このような要求を満たすため、風洞実験の他に、大型の模型を実際に飛行機から投下したり、カタパルトを使って発射したりして数々の配置が検討され、コンピュータを使った数学的モデリングも行われた。その結果、2基のエンジンを翼下に、さらに2基のエンジンを翼端ポッドに取り付ける方式が採用された。この配置は、低高度を高速で飛行することを可能にするものと期待された。
M−50にはソ連機としては初めて燃料移送装置が取り付けられていた。これは、超音速飛行中に燃料を移送し、重心位置を許容範囲内に自動的に保つ装置で、超音速旅客機コンコルドにも採用されているが、M−50はそれよりも10年近く先行していた。また、エレクトロニクスの進歩によって自動化が進んだことで、M−50は重爆撃機でありながら乗員を2名に抑えることに成功している。
また、M−50バウンダーは操縦装置にフライバイワイヤーを採用したパイオニアでもある。コックピットで入力された信号は電位差計によって様々な電圧に変換され、その強弱によって油圧アクチュエーターをコントロールする。なお、プロトタイプでは機力によるバックアップが備えられていた。
乗員は上記のように2名で、コックピットは与圧式、前部座席が操縦手用で、後部座席が航法手兼爆撃手用である。座席は射出座席で、緊急脱出時には下向きに射出される。パイロットがコックピットに乗り込む方法はユニークだ。まず与圧区画が地上に降ろされ、パイロットが地上でシートベルトを締めてから、ウインチで機体まで引き上げられる。
着陸装置は、自転車式と呼ばれる形態で、主脚を胴体中心線上に並べて配置し、補助輪を翼端に取り付けている。主脚は前・後部ともボギー式である。特徴的なのはその前脚である。M−50は全長11mという巨大なM−61巡航ミサイルを胴体爆弾倉内に格納する必要があり、そのため重心位置は63%とかなり後方になってしまった。この状態では尾翼の作用が弱まり、離陸時の引き起こしが困難になる。これを解決するために、離陸滑走時に機体の速度が300km/hを超えると、前脚が伸びて、これによって10度の機首上げ効果がもたらされる仕組みになっている。着陸装置のもう1つの特徴はそのブレーキシステムだ。各主脚には油圧駆動の鋼鉄板が装備され、着陸時にこれを降ろして地面と接触させることで大きな摩擦力を生み出し、制動距離を短くする事が出来る。これは、積雪のある滑走路では特に有効である。
エンジンは、新開発のM16−17ターボファンエンジンが予定されていた。M−50には戦略爆撃機として敵要地に侵入するという性格上、長時間に渡る超音速飛行性能が求められたこともあり、アフターバーナー無しで少なくとも17000kgの推力を持つエンジンが要求された。このM16−17エンジンは概ねこの性能に達していた。
しかし、M16−17エンジンはM−50の初飛行までには間に合わなかった。そのため、実際には発展型のM−52からこのエンジンを装備することとされ、M−50にはVD−7及びVD−7Bターボジェットエンジンが混載された。
武装
ミヤシチョフM−50バウンダー超音速戦略爆撃機には、中央部に爆弾倉があり、30トン以上の爆弾類やM−61巡航ミサイルを搭載することが出来る。
M−61巡航ミサイルは折りたたみ式、射程1000kmの巨大長射程巡航ミサイルで、母機と同じくミヤシチョフ設計局の開発である。このM−61という長射程兵器と、超音速飛行能力のおかげで、M−50バウンダーは防御用の機関砲を搭載する必要の無い最初の爆撃機となった。
M−52
ミヤシチョフM−52はM16−17ターボファンエンジンを搭載する、M−50の発展型である。パイロットの座席がタンデム式から並列になり、垂直尾翼上部に新たな尾翼が取り付けられるなど、機体の構成も改められている。さらに、空中給油装置も新たに装備された。
武装としてはX−22(後のAS−4キッチン)巡航ミサイル2〜4発か、M−44巡航ミサイル2発の搭載が想定されていた。
機体は完成していたと言われているが、直後にミヤシチョフ設計局が閉鎖され、計画が中止になったため、初飛行を果たすことなくスクラップにされてしまった。
M−50/52の終焉〜ミヤシチョフ設計局の閉鎖〜
1960年、M−50はアフターバーナー付きVD−7Mターボジェットエンジンとアフターバーナー無しのVD−7Bの混載に改造され試験が続けられたが、その頃、ソ連ではICBM及び宇宙開発に多額の予算が必要となり、実用化も危うかったM−50やその発展型のM−52に無駄金を使うわけにはいかなくなっていた。このような理由でM−50/52に対する優先順位は下げられ、さらに資金や研究員を最優先で宇宙開発やICBM開発部門に回す必要性から、ミヤシチョフ設計局自体が閉鎖され、その職員は宇宙開発部門及びICBM開発部門に転属させられた。ちなみに、ミヤシチョフ自身も中央流体力学研究所(TsAGI)所長のポストに就いている。
この決定に対しては抵抗もあったが、結局M−50/52爆撃機の開発は中止に追い込まれ、既に完成していたM−52は初飛行前にスクラップとなり、さらに計画段階だった数々の派生型も全て破棄された。
西側の反応
1961年7月ツシノ航空ショー。1機の異様な大型爆撃機が姿を現した。その爆撃機はMiG−21戦闘機2機をしたがえて上空を通過、西側航空関係者を驚かせた。鉛筆のような細長いとがった機体にデルタ翼、翼下と翼端に合計4基のエンジンを取り付けたそのシャープな姿はいかにも超音速機を思わせるものであった。
西側ではこの機体にバウンダー(ごろつき)のコードネームをつけて、実戦配備を警戒した。M−50に対する警戒感は大きく、一部では原子力動力の爆撃機ではないかという観測まで持たれた。そうなれば航続距離は事実上無限となり、アメリカ本土もやすやすと攻撃されてしまう。
このように西側に多大な恐怖を与えたバウンダーではあったが、実はこれは全てソ連の策であった。既にソ連はICBMや宇宙開発に力点を移しており、M−50爆撃機計画はこの時点で既に中止が決定していたのだ。ソ連は中止が決定していたM−50を宣伝目的であえて飛行可能な状態でこの日まで維持し、西側は策にはまり、恐怖に陥ったのだった。
Variants
ミヤシチョフM−52戦略爆撃機
M16−17ターボジェットエンジンを搭載する、M−50の発展型である。機体は完成していたが初飛行を果たすことなくスクラップに。
ミヤシチョフM−53超音速旅客機(SST)
1958年から研究がスタートした超音速旅客機。M−50/52爆撃機の研究成果を多く取り入れている。高翼配置のデルタ翼と、前部にカナードを持つ。エンジンはM16−17ターボジェットエンジン(推力18000kg)を後部に4基まとめて配置。乗客50名・ペイロード12トンを搭載して高度13000〜16000mをマッハ1.8〜2.0で飛行可能で、航続距離は6500km程度が予定されていた。その後、1959年にM−53の研究は終了し、M−56爆撃機をベースにしたM−55超音速旅客機に開発が移った。
ミヤシチョフM−54戦略爆撃機
M−50の派生型。M−50のような尾翼つきデルタ翼では無く、純粋なデルタ翼である。エンジンの配置もポッド式に4基全て主翼下に吊り下げる形式で、外観はアメリカのB−58ハスラーに似ている。計画のみ。
ミヤシチョフM−55超音速旅客機(SST)
1959年に計画がスタートした超音速旅客機で、M−56爆撃機のデザインをベースにしている。M−55、M−55B、M−55Vの3つのタイプがあり、それぞれ全長とエンジンの数が異なる。M−55は40人乗りで2基のエンジンを搭載、M−55Bは85人乗りで4基のエンジンを搭載、M−55Vは120人乗りで6基のエンジンを搭載している。性能は、高度22000mで最高速度2300〜2650km、航続距離6000〜6500km(予備の燃料を残して、ただし乗客50人の場合で、100人以上の乗客を乗せる場合は3500〜4000kmに)というものであった。ミヤシチョフM−55はソ連最初の超音速旅客機開発計画だったが、空力性能は低く、燃費も劣悪で、これらは解決しがたい問題であり、結局、当時の技術力では亜音速機に対して競争力のある超音速旅客機に仕立てることは不可能であったため、計画は実現しなかった。
ミヤシチョフM−56戦略爆撃機
ミヤシチョフM−50からさらに研究を進めた爆撃機で、1959年に研究開発がスタートしている。計画ではアメリカのXB−70ヴァルキリーに匹敵するマッハ3級の超音速爆撃機となるはずだったが、ソ連のICBM重視への政策変更によって1960年に計画中止に。
ミヤシチョフM−70超音速戦略爆撃飛行艇
海軍向けに計画された超音速戦略爆撃飛行艇。途中、潜水艦による給油を受ける事で長大な航続距離を得る予定であった。総重量は240000kgの巨大艇で、垂直尾翼付け根に2基、両主翼上に各1基ずつの合計4基のジェットエンジンを搭載、最大速度は1800km/hである。また、ハイドロスキーは着脱式で、離陸後に投棄される。計画のみ。