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水俣病−江頭豊のしたこと:
水俣病に関する話をある患者さんとしていたところ、『1株運動』で糾弾されている江頭豊を「あのひとは水俣病の発生には関係がないのでは・・・結局、事態収拾の当時者だっただけで批判されるのは気の毒な気がする」と言われた。私には即座にそれに答えるだけの知識がなかったのだが、江頭豊の孫達の幸せそうな写真「小和田姉妹」と、ユージン・スミスが撮影した上村智子『入浴する智子と母』の悲惨さの対比が印象的だったので、江頭豊の果たした役割を検証しようと考えた。 (04・08・31 改訂)
今はタブー視?されているようなところがある皇太子妃の母方の祖父が、水俣病とどう関わったのか?と言う疑問に答えるため、水俣病はいつ頃発生し、患者や漁民達はどう行動し、行政はどう関わったのか?企業はどう対応したのか?などを知るため年表を作成した。
水俣病−年表 ←詳しくはこの年表をご覧下さい。
チッソ:http://www.chisso.co.jp/top.html
水俣病を発生させたチッソ(株)は、現在、従業員1940人の規模だが「1500億円の累積赤字を抱え、売り上げの多くを患者補償にあてなければならず、自力で賄えない分は国民の税金が投入されている(熊本日日新聞 03・03・20)」状態である。国の返済肩代わりや免除分を合わせると国費の投入、つまり税金の使用は約1500億円に上るとみられる。(チッソの救済は税金)など、を見ると約1500億の税金が注ぎ込まれているようだ。
税金で延命されている企業:患者への補償の必要から、チッソが経営危機に陥るであろう事に対し(国が対処せず)熊本県から33億5千万円の県債(第1回)を受けたのは68・12・21であるが、チッソは1973年から患者への補償金の支払い能力がなくなった。そのため、78年からは熊本県が県債を発行し、患者への補償金支払い資金として国の資金をチッソに貸し付け、患者救済に回してきた。しかし、チッソの公的債務が雪だるま式に増え、借金返済の目途がまったくたたなくなり、「国・熊本県等の金融支援措置関係について:水俣病問題解決支援財団から解決一時金支払いの原資として約317億円をご融資頂いておりますが、そのうち85%相当額(約270億円)について00年3月末で免除して頂くことを予定しています。報道資料 00・01・25」となった。患者を苦しめた裁判の費用や、患者を暴力集団に襲撃させた経営陣の給与にも(結果的には)国民の税金が使われた事になる訳だ。
江頭豊:皇太子の婚姻に際し問題となったと言われる、チッソの社長〜会長をしていた「江頭豊」に関する情報はnetには少なく、googleで「水俣病*江頭豊」で検索すると13件、熊本日日新聞のサイトの年表が1番に来たが、2番目はこのシリーズの「net案内−2」(*HeartLand/6000のもの、現在では移転後のページが2番目に来る)だった。国会でも共産党の議員が質問しているが「江頭豊は水俣病に関係がない」と言う事になっている。はたしてそうなのか? (*質疑は一部改変した、全文は質疑全文を参照の事)
国会での質疑:126回国会、衆議院・大蔵委員会(93・04・23)
正森成二・衆議院議員(日本共産党):宮内庁に伺いますが、報道されているところでは、小和田雅子さんの祖父、江頭さんは一時期、現在のチッソの社長だったということから、宮内庁は水俣病の原因となった企業であることから、皇太子妃にはふさわしくないという判断だった、水俣病発生後の就任であったとしても、御夫妻で熊本に行かれとき歓迎して貰えるかなどの意見が説得力を持ったと報道されております。別の報道では、雅子さんの件はおあきらめくださいと皇太子様に当時の宮内庁首脳が伝えたこともあった、ということが書かれております。
宮内庁長官・官房審議官・古居儔治:昭和61年以降、小和田雅子さんが皇太子妃候補の一人として皇太子殿下と親しくお会いになられた時期がありましたが、昭和63年に雅子さんが外交官補として海外研修のために英国に赴任され・・・江頭豊氏がチッソの社長等の地位にあったということについても、やはり慎重を期すべきではないかというようなことから、御交際は中断した時期も・・・しかしその後、江頭豊氏につきましては、チッソの社長等に就任されました時期等の関係から致しますと、水俣病の発生に直接関係がありません・・・また皇太子殿下の強いお気持ちを体して、小和田雅子さんを皇太子妃候補としたところでございます
熊本日日新聞 03・03・20には「自ら早い段階で工場廃水を止めていれば、これほどの事態にはならなかったはずだ」と書かれているが、有機水銀を含む工場排水が止められたのはいつ頃なのか、誰が決断したのか、などの疑問が湧いてきたので、年表を作ってみたところ「江頭豊」の役割が大きい事が解った。
水俣病の発生と経過−1 江頭豊の社長就任前
1932 水俣工場、アセトアルデヒド・合成酢酸設備稼働開始、有機水銀を含む排水を
水俣湾百間港へ無処理で放流し始めた。(1932・05・07)
1941 水俣工場で塩化ビニール生産、工場からメチル水銀が流出する。
1942 水俣病はこの頃に最初の発生があった。
1950 この頃から「ネコ踊り病」が多数見られるようになる。
1956・04・21 最初の患者(5歳・女児)が新日本窒素肥料(株)附属病院を受診、23日には
入院となる。この女児の妹も入院、他にも2名入院したため
1956・05・01 附属病院、細川一・院長が「原因不明の脳疾患児の多発」を水俣保健所に
届け出た。(*公的な水俣病の発生)
1956・05・28 水俣市に「水俣市奇病対策委員会」が設置された。感染症も考慮し「患者の
隔離と消毒」を行う。
1957・03 水俣保健所の伊藤所長、水俣湾産の魚介類をネコに与えて飼育する
実験を実施、7匹中5匹が発症した。(症状は自然発症のネコと同じ)
1957 西田栄一・工場長就任、西田天皇と言われる。
1957・07・23 熊本県、食品衛生法による水俣湾産魚介類の販売禁止の方針
1957・09・11 厚生省、熊本県からの照会に対し「適用できない」と回答する。
1958・06 国会で厚生省環境衛生部長がチッソの排水が原因と答弁、通産省にチッソ
に対する指導を要請するが、拒否されてしまう。
1958・08 漁獲禁止にはならず「販売禁止」になり、漁業補償はされない。
(熊本県は「補償される権利がある」ことを漁民に教えなかった)
食品衛生法:有害またはその疑いのある食品の販売停止
漁業法:公益上必要な場合の漁業権停止とその補償
1958・09 チッソは排水管理委員会を設置、排水口を工場南側の水俣湾から、北側
へと変更、これにより不知火海沿岸にも被害が広がった。
1958・09 熊本大学竹内教授、水俣病の病理所見はハンター&ラッセルにより報告
された有機水銀中毒例とのみ完全に一致すると研究班報告会で報告した。
チッソ(西田工場長)が反論、対立を危惧したチッソ本社は、熊本大学と協
同して究明するよう要請、しかし工場長はこれを拒否した。
1959・02・09 厚生省水俣病食中毒部会(=熊本大学研究班)湾内の水銀分布を調査
する必要性を確認し調査を開始する。
調査の結果は彼らの想像を遙かに超えていた。
a)水俣湾内の泥土からは多量の水銀が検出され(排水口近辺では泥土
1tあたり2Kgの水銀を検出)「まさに水俣湾は水銀鉱山化」していた。
b)不知火海沿岸住民の毛髪中からも大量の水銀を検出した、とりわけ
水俣病患者およびその家族の毛髪には著しく大量の水銀を検出した。
c)海水中の水銀量は希薄であるのに、湾内の魚貝類から多量の水銀が
検出された。←生物体内で水銀が濃縮されていた。
1959・04 熊本日日新聞・社内報「患者多発地区の湯道、月浦、茂道と患者宅を取材
に飛び回った。袋湾や漁協には漁の出来ぬ船が無残な姿で放置され、うつ
ろな目で船を見つめる漁民達の姿がみられた。水俣学-高峰武
1959・07・14 朝日新聞が「原因は有機水銀」とスクープした。
1959・07・22 熊本大学水俣病医学研究班が「水俣病は現地の魚貝類を摂取すること
によって惹起される神経疾患であり、魚貝類を汚染している毒物として
水銀が極めて注目される」と発表した。・・・非公開の研究報告会だったが、
発表前に新聞に出てしまい、世論は騒然となる。
熊本大学の有機水銀説の発表に、チッソ内部にも有機水銀説が正しいと
確信していた技術者がいた。塩出忠次はアセトアルデヒドができる課程
で有機水銀化合物ができることは解っていた。酢酸課長の中村氏に
報告した。しかし、チッソは塩出の忠告は採用しなかった。(NHK-96)
1959・10・07 工場排水により「ネコ400号」が水俣病を発症した。
1959・10・17 熊本県漁連、新日窒に交渉を申し入れたが拒否され、工場に投石したため
警官隊が出動する騒ぎになった。
1959・12・30 患者家庭互助会、チッソと「見舞金契約」を締結した。
チッソ社長は患者に謝罪する、しかしこの謝罪は「あくまで道義的な
もので、法律的な責任を負うものではない」と言った。
1959・11・02 熊本県漁連主催・不知火海沿岸漁民総決起大会。漁民が工場に乱入し、
警官隊と衝突し、多数の負傷者を出す。
1960 水俣工場のアセトアルデヒド生産量4万5245トンと最大になる。
1962・11・29 胎児性水俣病16名が認定された。
1963・02・16 水俣病の原因はチッソの工場排水だと熊本大学が証明した。
1964・05 水俣漁協、水俣湾内の漁獲自主規制を全面解除する。
水俣病の発生と経過−2 江頭豊の社長就任後
1964・12 江頭豊、新日本窒素社長に就任(筆頭株主の日本興業銀行から就任)
1965・01・01 社名を「新日本窒素」から「チッソ」に変更した。
1965・01・10 昭和電工、アセトアルデヒドの生産を停止する。
製造工程図は消却し、プラントは撤去してしまう。
1965・06・12 新潟大学・椿&植木教授、新潟水俣病の発生を報告する。
1967・06・12 新潟の水俣病患者が昭和電工を新潟地方裁判所に告訴した。
4大公害裁判、最初の提訴−新潟水俣病第1次訴訟−
3世帯1 3人、昭和電工を相手取り4450万円の慰謝料を請求し提訴
1967・07・21 「公害対策基本法」が成立、8・03 公布施行となる。
1968・05・18 水俣工場がアセトアルデヒド製造設備の運転を停止した。
1968・09・26 政府、公式に水俣病を認め、厚生省も公害病と認定した。
1968・09・27 公害病の認定を受けチッソ江頭社長は患者家族に詫びて回る。
1969・02 チッソが具体的な補償案を出さず、厚生省が調停にのりだす。
1969・06・14 自主交渉派がチッソを提訴した。 (水俣病裁判)
1970・11・28 株主総会に患者が乗り込む。(NHK報道)
1971・07・01 環境庁発足
1971・07 江頭豊、会長に就任
1971・12・06 患者家族がチッソと補償交渉を行い、東京本社前で座り込みを開始
自主交渉闘争を始めた。
1972・01・07 千葉県のチッソ五井工場に抗議に訪れた「自主交渉派」の被害者や
ユージン・スミスら報道陣をチッソは社員(or暴力集団)に襲わせた。
1972・12 ユージン・スミス『入浴する智子と母』を撮影する。(上村智子15歳)
1973・01・20 熊本水俣病患者家族141人、チッソを相手取り総額16億8千万円余の
慰謝料を請求し熊本地裁に提訴−熊本水俣病第2次訴訟−
1973・03・20 熊本水俣病第1次訴訟判決 (原告勝訴・確定)
1977・02・07 上村智子死亡 (21歳)
1978・10 ユージン・スミス死亡 (1918アメリカ生まれ、60歳)
江頭豊の責任:
1.水俣病の原因が工場にあると知りながら稼働し続けた。
水俣病の原因がアセトアルデヒドの製造工程から出る有機水銀である事は、チッソ社内では周知の事実であったし、熊本大学により、それが証明されても、設備を稼働し続けた。水俣病だけだと良く解らないが、新潟水俣病の年表を加えてみると、非常に良く理解できるのだが、江頭豊が社長に就任した翌月、1965・01・10、新潟水俣病の発生企業、昭和電工がアセトアルデヒドの生産を停止、製造工程図は消却、プラントは撤去してしまった。これは昭和電工が「水俣病の発生原因はアセトアルデヒドのプラントから出る有機水銀である」と認識していた事を示している。しかし、チッソ水俣工場がアセトアルデヒド製造設備の運転を停止したのは1968・05・18であり、新潟の水俣病患者が昭和電工を新潟地方裁判所に告訴し、「公害対策基本法」が成立した翌年であり、昭和電工がプラントを撤去、製造工程図を消却してから3年半後だった。
2.患者や家族に謝罪したが補償に応じようとはしなかった。
水俣病が公害病の認定を受け、江頭社長は1968・09・27から患者家族に詫びて回るが、具体的な補償案を出さないため、厚生省が調停にのりだした(1969・02)のである。しかし、厚生省は患者側に「この補償処理委員会の結論には一切異議なく従う」との確約書提出を求め、患者側は一任派と自主交渉派に分裂した。困窮のどん底に置かれている患者と家族には、卑劣極まりない態度と言われてもやむを得ないだろう。
石牟礼道子『苦界浄土』あとがき:チッソ側はゼロ回答をもってこれにうそぶいている。第三者機関あっせんに、再び互助会が依頼した寺本熊本県知事に、江頭社長は「チッソとしては34年暮れの見舞金契約は有効、補償交渉はチッソの好意で行われており・・・「公正な審判に服する」というならとにかく、恐るべき厚顔無恥、わたくしたちにこの上まだ《ことば》がありうるであろうか、とわたくしは思い沈む。 http://www.google.co.jp/ (キャッシュ) 投稿-32
3.謝罪した後も悪質なデマを流し患者や家族を冒涜した。
チッソ水俣支社・東平総務部長がスウェーデンのジャーナリストに答えている「端的にいうなら彼らは海に浮かんだ死んだ魚を食べたんですよ。しかし、そんなことを裁判にもちだすのは難しいです。一般の人に相手側について悪い印象を抱かせることになります。まるで動物ででもあるかのようにね。58年以後の病気の原因が、死んだ魚を食ったためなのか、水銀のためか解らんのですよ。58年以後に発病した人に限って言えば、それで補償金を貰えるなんて、有り難く思って貰いたいものです」(原田正純 『水俣病』p218、1971・07の話、詳しくは水俣病事件)、自らの責任をごまかし、患者や家族に対するこの侮辱、何たる傲慢であろうか。
4.患者や報道カメラマンを暴力集団に襲撃させた。 (会長時代)
千葉県の五井工場に抗議に訪れた「自主交渉派」の水俣病の被害者やユージン・スミスら取材陣をチッソは暴力集団に襲わせた(1972・01・07)、ユージン・スミスは片目を失明するほどの重傷を負わされたのに告訴せず、時間とエネルギーを写真に向け、6年後に負傷からの後遺症が元になり、死亡した・・・スミスの志とそれを暴力で封じようとした人達の心根、対照的である。
江頭豊と小和田家:
水俣病は行政(通産省)の関与も強く、厚生省より通産省の方に力があったため、厚生省の意向もなかなか通じなかった。(*1958・06 国会で厚生省環境衛生部長が水俣病はチッソの排水が原因と答弁、通産省にチッソに対する指導を要請するが、拒否されてしまった)
江頭豊が社長に就任した1964年当時の日本興業銀行と言えば「飛ぶ取り落とす」勢いだったと思われる。それが大問題を抱えた企業の社長になると言うのは通常なら考えられず、余程の理由があったに違いないと思われる。
1.江頭豊はエリート軍人(江頭安太郎・海軍中将)の息子、妻・寿々子もエリート軍人(山屋
他人・海軍大将&連合艦隊司令長官)の末娘だ。患者や家族との交渉には精神力が要
求されるし、家に訪問されるかも判らないから、これ以上の適任はない。
2.娘婿は外務省のエリートだ、官僚との折衝もやりやすいだろう。
小和田恒は後に外務次官になるが、入省後7〜8年すれば出世するのは大体判る。
日本興業銀行としては、これ以上の適任はなく、通産省も(国家レベルか?)バックアップしただろう事は想像できる、これをうかがわせるのは江頭豊の社長就任、退任にあわせた小和田恒の動きであり、この↓ようになる。
1963・12・09 小和田恒夫妻に長女生まれる。母・優美子25、父・恒31
1964・12 江頭豊、新日本窒素社長に就任する。
1965 夏 小和田恒、モスクワに赴任する。
1968 夏 小和田恒、ワシントンに赴任する。
1970・11・28 株主総会に患者が乗り込む。
1971・02 小和田恒、海外勤務から帰国する。
1971・07 江頭豊、会長に退任する。(小和田恒の家族と同居する?)
1976 この頃、小和田恒は福田赳夫内閣総理大臣の秘書官だった。
何と言う「偶然の一致?」だろうか、江頭豊の社長就任のほぼ半年後、小和田恒はモスクワに赴任し、その後ワシントンに赴任、71年2月に帰国するや、5ヶ月後の7月(*この間に新築したのだろうか?)には、江頭豊は会長に退任、その後、娘の家族と同居し始めるのである。
江頭・小和田家=ユージン・スミス=上村智子をめぐる因縁?
2004・08になり「SilkRoad/4444」でgoogleをかけて見ると、「あるスレッド」のログに「ちなみに雅子妃のお輿入れをしたのはセンコー運輸(昔の日窒の運送部)」と言う投稿(No-295)があった。
センコー(株)の「沿革」には、1946(S21)年7月設立とされているが、設立の経緯は記載されていない、宮崎県を基盤にして生まれ発展したと書いてある。四季報を見るとセンコー(株)<9069>の大株主は、旭化成(9・5%)、積水化学(6・0)、積水ハウスであり、旭化成も積水化学も日本窒素肥料から生まれた企業(*積水化学<4204>の大株主に旭化成(5・7%)が入っているので旭化成が兄貴分になる?)である。四季報の株主構成から見れば、センコー(株)の発祥は「日本窒素肥料」関連の運輸を担当していた部門が独立した可能性が高いと考えられた。
センコー(株)の旧社名は「扇興運輸」だと「沿革」にあるため、googleで「扇興運輸*水俣」を検索すると、2個hitした。1個は「水俣病患者とともに-日吉フミ子の闘いの記録」(a)だ、もうひとつは国会の議事録「参議院-会議録-第041回」(b)である。
a)から解ったのは、1)上村智子の父親・上村好夫は智子が生まれた(1956(S31)年←智子の水俣病患者認定はS38年)の翌年(S32)に「扇興運輸」に就職し、1994(H06)年(60歳=定年?)まで勤務していた、と言うことである。
b)からは、1962(S37)の参議院「社会労働委員会」において「新日本窒素株式会社における労働争議に関する件」が、議論されているが、ここで解ることは、2)警察庁警備局長・三輪良雄が、扇興運輸を「新日本窒素=現・チッソ」の「下請け業者」であるとしている。また、3)最大時には熊本県警の警察官(1800名)の約2/3(1180名)が動員され、鹿児島県と宮崎県にも応援(200名)を依頼するような新日本窒素(株)の大規模な労働争議があったが、港湾労働者が会社側に立ち、ピケラインを突破した、4)扇興運輸の食堂と事務所は100名の警察官が宿泊できるほど広かった、ことなどが理解できる。
警察庁警備局長・三輪良雄の答弁で興味があるのは、鹿児島県と、宮崎県に応援を依頼していることである。単に熊本県の警察官の人員不足を補うためのものか、会社側が子会社・扇興運輸の社員をストライキ対策に使っていることを受けたものなのか、考えさせられる。
患者達やユージン・スミスに暴力をふるった者達の正体は?
自主交渉派の患者達やユージン・スミスを襲撃した集団については、社員、暴力団、右翼などの説があるが、チッソ経営陣の意を汲んでいるのは明かである。しかし、立場が異なるとは言え、同じ水俣に住む(悲惨な)患者達に暴力を振るう社員や暴力集団がそんなに多数いるだろうか?と言う疑問を持つ。また、その「暴力集団」は千葉県の五井工場にも現れ、ユージン・スミスと患者が襲われている。少し考えると、1)暴力を振るったのが社員なら顔を知られているし、表面化すれば大問題になる、2)社外の右翼や暴力集団なら多年に渡り多人数を確保しておく費用が膨大になる、3)そのような社外の暴力集団を千葉県まで行かせるとなると費用などが大変だ・・・これらの問題をどのように解決したのかが私の疑問だった。しかし、チッソの工場の間を海上や陸路を使い自由に行き交い、水俣市に住む患者達に顔を知られていない、かつ、会社側が意のままに動かせる集団がいたことを知り、疑問が解けた(特に海上を行き来する集団は陸にあがる時間が少ないため、例え事件を起こしても警察の捜査も及びにくいと思う)ように感じたのだが、検証したわけではないため何とも言えないのは言うまでもない。
慚愧の日々を送った人達
1.後任社長は「全責任は私にある」と言い、読経の日々を送った
水俣病問題において・・・全責任は社長にあると言い切ったのは、島田社長がはじめてではないだろうか。島田賢一は、昭和46年社長になり、46年10月の川本輝夫たちへの水俣病認定に際し、水俣病の疑いのある環境庁救済認定患者と水俣病認定患者は、おのずからちがう存在であって、前者への補償の義務なしと突っぱねた当事者になった。しかし、とにもかくにもチッソが、川本輝夫たちの、いわゆる新認定患者の自主交渉の要求をのむに至る背景には、この証言にみられる責任の自覚が、なんらかのかたちで入っているだろう。島田賢一は社長を退いた後、読経の日々を送ったといわれる。(明日もまた今日の如く)
島田賢一が社長に就任した時には、もう有機水銀は排出されていなかったし、補償に応じようとしなかったのは「水俣病の疑いのある環境庁救済認定患者」である、これに対し前任の江頭豊社長は「水俣病認定患者」に対する補償に応じようとはしなかったのである。
2.細川院長は肺癌末期の病床で工場の隠蔽を証言した
企業城下町・水俣の新日本窒素付属病院・院長と言えば、住民から見れば「雲の上の人」のような存在だったと言う。水俣病の発生と同時に1956・05細川院長を中心とする現地の奇病対策委員会は精力的に疫学調査を実施、30名の患者が存在する事を調査、8月末頃には伝染病ではなく食中毒が疑わしいと判明、食中毒の原因究明を熊本大学医学部に要請した。
チッソ付属病院の細川院長は、患者公式確認の翌57年から62年までの5年間に、838匹のネコなどによる動物実験等を工場技術部と共同で行っていた。研究は熊本大学研究班の成果を追試する形で進められた。59年熊本大学の有機水銀説が出た時「会社の黒白をはっきりさせる」目的で、触媒水銀を使用する2工程(アセトアルデヒドと塩化ビニール)の廃水をネコの食餌に直接かけて実験を始めた。07・21より前者を食べさせたネコ400号が、78日後の59・10・07、水俣病を発症した。(これは1匹だけの実験だった)細川院長はこの結果を工場幹部(*工場長)に報告し、工場研究班会議59・11・30で、工場廃液で水俣病が発症することを強調したが、水俣病の原因が工場排水であると知った西田工場長は「今後の実験禁止」を言い渡した。細川院長はこの命令に逆らえなかった。
70・07・04、細川院長は水俣病裁判でこのことを証言した。肺癌で闘病中の細川は臨床尋問に応じ、証言したのである。細川はまた58年の排水口の水俣川への変更時にも、新患者を発生させることになり、人道上も許せないと反対したが、会社側が聞き入れなかったことも明らかにした。細川は3ヶ月後の70・10・13、69歳で永眠する。
3.西田工場長は葬儀もさせず、墓も作らせず、戒名もない
患者発生の1956年の翌57年、西田栄一が工場長に就任するが、3500人を越える社員を擁する企業の城下町・水俣では工場長は大きな存在だった。西田工場長は別名『西田天皇』とも言われたと言う。
a)熊本大学の有機水銀説に反論、協力するようにと言う本社の要請も拒否した。
1958・09熊本大学竹内教授、水俣病の病理所見はハンター&ラッセルにより報告された有機水銀中毒例と完全に一致すると研究班報告会で報告した。チッソ(西田工場長)が反論、対立を危惧したチッソ本社は熊本大学と協同して究明するよう要請したが工場長はこれを拒否した。
b)細川院長にネコ400号実験の検証を禁止した。
細川院長は838匹の猫に有機水銀化合物を与える実験をしたが、1959・07・21よりアセトアルデヒド製造工程から出る廃液を与えたネコ400号が、78日後の10・07、水俣病を発症した。細川院長はこの結果を工場幹部に報告、工場長は「今後の実験禁止」を言い渡した。西田工場長に熊本大学の有機水銀原因説に反論を命じられた技術部次長・市川正は、この「猫400号」の実験データを見解書から外した。
c)工場の排水口を変更し、被害を拡大させた。排水の摂取も禁じた。
58年の排水口の水俣川への変更時にも、新患者を発生させることになり、人道上も許せないと細川院長は反対したが、会社側(*工場長)が聞き入れなかった。工場排水を摂取することを工場側が拒否していたため、熊本大学は無機水銀が有機水銀になる問題を解決できずにいた。
d)西田工場長は退社後には慚愧の日々を送る。
1970(S35)年、西田工場長は東京に異動となった。1973・03・20熊本水俣病第1次訴訟、原告の勝訴が確定した。当時のチッソ水俣工場の工場長・西田氏はチッソと縁を切り「全責任は自分にある私を許してほしい」と自分を責め続けてこの世を去った。生前の意志により、戒名も付けられず葬儀も行われなかった。 (96 NHK-放映)
慚愧しない人と、その娘婿
江頭豊は皇太子妃の母方の祖父であり、婚姻に際し「元・チッソ会長」と紹介されたが「現・相談役」である(*今も問題企業と関わりがある)とは報道されなかった。しかし、三井PRニュース 135号(消失)の「第40回財界人洋画展」の出品者リストには「江頭豊・チッソ相談役」として出ており、INDEX(消失)を見れば、98年10月現在(皇太子の婚姻は93・06・09)でも、チッソ(株)の相談役に就いていたと解る。
補足:江頭豊の会長退任時期や現在の肩書きを知ろうと思い、チッソ本社に電話、「江頭豊さんの事で伺いたい」と交換に告げると、緊張感が伝わり、広報につながれたので「社長に就任した時期は?」と話すと「担当者がいません」と断られた、江頭豊はチッソではタブーのようである。
社長退任後27年経っても相談役に就き続け(税金で生かされている企業から何らかの報酬を受けているのだろうか?)、画を「財界人洋画展」に出品するような悠々自適の生活を送っていることが判るが、この姿からは後任社長の島田賢一のような「慚愧」は全く感じられない。その慚愧しないひとの娘婿の人物像も、彼にぴったり?の興味あるものである。
娘婿・小和田恒の人物像
渡辺亮次郎のエッセイ : 持田健(もちだ・たけし)さんが(*03年)9月25日、都内の病院で逝去した。・・・信濃町の葬儀場に飾られた花輪の多くが外務官僚からのもの・・・生花の中には外務省外郭団体・国際問題研究所の理事長たる小和田恒氏のもあったから「そういえば小和田さんはジュネーヴェへいつ赴任するんだ」と通夜の席で話題になった。国際司法裁判所の判事とやらに選出されたからである。皇太子妃の実父だから昔なら批判ご法度なのだが、最近の世相はだからと言って口さがない。数年前、現職の小田判事を「任期途中で辞めさせてでも」と、就任工作(*小田にとっては辞任工作である)をやらせたのはひどかった(*注-1)とか「あんな顔していて、実にカネに汚い」とか「公私混同がひどい」(*注-2)とか「嫁入りに持たすタンスをえらく値切られた」という友人もいた。「そりゃお前、めでたいんだから、お前んちのほうで値切って差し上げたんだろうからいいことをしたな」とはなったが、ケチで鳴る小和田さんも他人の国際紛争ではけちはしないだろう、で落ち着きかけた。皇室の親戚がケチで何が悪い。 ところが「まだわからんぜ」と付け加える仲間が言った。「何しろ誰も鈴を付けに来ないことをいいことに国連大使に5年も居座って、まだ降りようとはしなかった。後任の佐藤行雄が3年10ヶ月できちっと辞めて、もう東京にいるよ。そんなだから、小和田さん、判事の任期(7年)に果たして何期しがみつくか、興味津々だね」と、これは後輩外交官だった。結構、口が悪い。 著者の略歴 エッセイ集リスト
*注-1:これは93年(皇太子の婚礼の年)の話である、小田滋(前職は東北大学教授)は既に2期つとめており、小和田恒が外務次官の退任後に就任する予定だった(小田の就任には外務省が根回しした結果だから譲るのが当然という論理らしい)が、退任工作がひどかったので、小田が怒り、辞任しなかったと言われている。小田滋は03・02・05まで3期27年間(*彼も権力の虫?)も粘り続け、後任に小和田恒が就任した。 参考:田中良太のコラム 02・10・22、この↓記事
仙台市名誉市民に小田滋氏と一力一夫氏 Yahooニュース 04・05・25 仙台市は04・05・24、元国際司法裁判所副所長の小田滋氏(79)と河北新報社主の一力一夫氏(78)の2人に仙台市名誉市民の称号を贈ることを内定したと発表した。小田氏は1959年に東北大法学部教授となり、国際法の研究活動や指導に従事、76年から03年までの3期27年、国際司法裁判所(ICJ)の裁判官を務めた。91年ICJ副所長に就任し、国際紛争の解決などに尽力した。75年に米国国際法学会名誉会員、94年に日本学士院会員、03年に日本国際法協会会長となり、現在は東北大名誉教授。03年には瑞宝大綬章を受章した。仙台市は「国内外における卓越した功績は、市民はもとより国民が等しく誇りとする」と評価した。(河北新報) ← 消失 (キャッシュ)
外務省の犯罪(*注-2):業務上横領の時効は7年だが、偶然か?、小和田恒・外務次官が退任してから7年6ヶ月後の2001年3月に公金横領事件が表面化し、松尾克俊・元外務省要人外国訪問支援室長(55)が逮捕(01・03・10)された。松尾克俊がこの職にあったのは1993・10・10〜99・08・16であり、その間の次官が責任を問われた。そして、2001・08・10、斎藤邦彦・国際協力事業団総裁、林貞行・駐英大使、柳井俊二・駐米大使、川島裕・事務次官の4名が更迭された。1993年8月に小和田恒の後を継いで事務次官に就任した斎藤から、林、柳井、そして99年7月に就任した川島までの歴代事務次官達であり、見事に小和田恒は、はずれ(はずされ?)ていた。
天木直人『さらば外務省』に見る小和田恒
1) 外務省のこれまでの問題、外務官僚個々人の問題や 彼らの犯罪行為を洗いざらい述べている。まあ彼らのひどさがわかるとは言え、どうにもレベルが低い話ばかりでいやになる。例えば小和田恒については、出張先で夜中「缶切りをもってこい」と要求があり、持っていくと「その缶切りを試したかい」と質問があり「試してない」と答えると、そのままドアを閉めてしまったという、ただそれだけである。いったい何?詰めの甘さを指摘されたということだし、一事が万事なのだろうが、それにしても次元の低い話だ。 http://www.google.co.jp/ (キャシュ)
2) 浅井基文は、日米安保条約を聖域視する対米従属外交に失望し、中国課長を最後に退職した。その後まもなく『日本外交』を出版し、安保条約に全面的に依存する日本外交の危うさを訴えた。 その浅井を外務省は組織をあげて潰しにかかった。直接、浅井から聞いた話だが、退職した当時の次官であった小和田恒は「今後もし外務省に弓を引くような真似をすれば、省をあげて潰しにかかる」と、面と向かって引導を渡したという。若い外務官僚たちもこれに迎合するように、「霞ヶ関に近づけば押し返してやる」と悪態をついたという。 http://www.asyura2.com/ のログ
企業の傲慢は今も続き、チッソ社長は慰霊祭に2度出席しただけ
チッソ社長に出席を要望へ 5月に水俣病犠牲者慰霊式 熊本日日新聞 02・03・05
02年度水俣病犠牲者慰霊式の実行委が4日、水俣市職員共済会館であり、11回目の慰霊式を水俣病公式発見の5月1日、水俣市明神の水俣メモリアルで行うことなどを決めた。委員からは式にチッソ社長の出席を求める発言が相次ぎ、実行委としてチッソに要望することになった。
各患者団体、チッソ、水俣市の各組織代表ら15人が出席。01年もチッソ社長の慰霊式出席を求めたが実現しなかった経緯もあり、「年1回、加害企業の責任者として花一輪なりと手向けるという人間性が欲しい」という意見が強く出された。これに対し、チッソ側委員は「水俣本部長が社から全権を委任され、代表として出席している。ただ要望は本社に伝える」と答えた。チッソ社長は06年に1度、慰霊式に出席している。(その後、出席した→熊本日日新聞 02・05・01 )・・・これが国民の税金で延命されている企業の社長がとっている態度であり、水俣市民、患者や家族はただ「お願いするだけ」しか手段がないのである。