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疲れてるなら、投稿休めばいい(←となるだろ? 御前自身が言わせてないか?) “情報ゼロでも奥深い味のあるヒトもいる”
http://www.asyura2.com/05ban/ban4/msg/1277.html
投稿者 白家ブラック 日時 2006 年 1 月 22 日 05:09:05: 7jOAcm.tFRC.g

(回答先: カバラという字の入る「酒鬼薔薇聖斗」(神戸事件)と「小林薫」(奈良事件)をアナグラム解析 投稿者 サラ 日時 2005 年 12 月 13 日 20:59:19)

御前は、情報が無いとダメみたいにいうよな。しかし、ほとんど情報らしきものは
無いが自分の頭で考える人はこういう文章が書けるわけだ‥‥転載してあげよう。
感動的に味わい深い文章だ‥‥他人や社会の情報に執着してないな。
ここのサイトは迷路みたいで、コンテンツが膨大だから俺が紹介します(笑)

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「苦労至上主義」に御注意

 

後悔して、悔やんで、その後悔を「その後の人生に活かす」、
そういうパターンはよくあるのですが、
それとは、異質なパターンもありますので、
少しその話をしてみたいと思います。


■世の中には、自分の過ごしてきた何十年という人生を
悔やまないようにと、ポジティブに考える人がいます。

特に、戦後とか、そのあと、いろいろな苦労をしてきた世代の
人の中にわりといます。


私たちの世代が聞いていると、それはもう本当に大変な時代で、
まだ古い因習のある時代ですから、嫁に行っても
「おしん」状態を地で行くような生活も、当たり前あったみたいです。

人権など、ないに等しい罵声を浴びせられたりしながらも、
仕事一筋で、必至に、60年70年という時間を、かけ抜けてきた、
そういう人達がいます。


◆そして、その場合に、よく過去を振り返ると、その人達は
本当に苦労に次ぐ苦労の連続なのですが、
その事を自分でもどこかで「よくやった」と誉めて、
そして、今起きているいろいろ状態にも、
「悔いはない」と言うわけです。


また、実際問題として、「悔いがない」とでも言わないと
収まりのつかないこともあります。
それはたとえ本当は本心には悔いがあっても、
既に、やり直せない年齢になっている場合などです。


◆そうやって、「我が人生に、悔いなし」と、
自分に言い聞かせ、そのつもりでいたものの、
実は、そこに大きな悔いがあったことを
必死に認めないようにしている人たちもいます。


なぜならば、もしもそこに悔いがあったら、
自分の人生のほとんどを自分で「否定」することになるからです。

ですから、「私の人生には悔いはない」、ということで、
自分の人生を自分で否定しないで済みます。


◆でもね、悔いのあったことは、確実に悔いがあったのだから、
それを認めた方が、心が楽になる場合があります。

極端に言えば、ある場合には、人生の大半が
もしかしたら、無駄な徒労だったのかもしれない、
ということを、どんなに辛くとも、認めないと、
余計に、つらくなったままで、
その後の臨終までを過ごすことにもなりかねない場合があります。


確かに高齢になってから、
それまでの人生に実は悔いがある、などと言う事に気付いても、
それを最早、取り戻せない事だってあるのだから、
酷といえば酷なのですが、
それでも人間というのは「自分の心に嘘をつけば」、
もっと苦しくなります。
そして、その苦しさに別の言葉や意味づけで
蓋をしてしまったりもします。


◆同じ苦しいならば、
正直に悔いたり、無駄だったと思ったほうがいいです。

無理に人生に無駄はなかったと思うことは、
いろいろな自己矛盾を生み出します。


後悔というのは、悪いものではない、というのが
私の持論です。
どうして、後悔してはいけないのでしょうか?
後悔のない人生だったから、人生の勝者となるのではないのですから。

悔やんでけっこう、呪ってけっこう、
ただし、「最後」には、静かに落ちついて、心配なく・・・
それが人の理想です。


◆人間は「選択の余地のなかった運命」に対しては諦めがつきますが、
そこに自分の「選択の余地のあったもの」については、
それを選択した自分を責めたり、後悔します。

◆大変な苦労をした人には、
ひとつ、大きな、
「超えられなくなる壁」というのがあります。


  それは、「苦労した自分」を捨てられないという事です。

◆これと同じことが、トラウマ(=家族内の暴力や事件などによる心的外傷)
でもよく問題になります。

つまり、つらい思いをした「大嫌いな自分」「大嫌いな過去」なのに、
もしもそれを捨てたら、「自分ですらなくなってしまうのが怖い」
という心理です。


その結果、人は、
苦痛をもたらすものにすらも、しがみつく、という事をしかねません。

◆苦労には2つあります。

1/ひとつは、ものすごい苦労なのに、苦労とも思わない人。

2/もうひとつは、苦労したな、という記憶の残るもの。


そして、前者と後者の決定的な違いはこうです。


「大変だったなー」という「苦労感」を実感として、
背負ったままの人は、
かならず、「自分のしたくないことをしてしまった」その結果の苦労を
した場合です。


いっぽう、苦労知らずの苦労人は、
自分のしたくない事を選ばなかった=したいことだけを多くしてきた人。

だから、他人からみていたら信じられないような苦労も、
本人は、まるっきり、苦労と思っていないのです。


●人間は、したいことでは、いくら苦労してもいいけど、
自分がしたくない事を無理にした場合、
それは、その人の人生の「勲章」ではなく、
時には、心の「重荷」になってしまうのではなかろうかと・・・

なぜならば、そこに後悔があるのだから。

「こんなはずじゃなかった、かもしれない」という後悔が。


そして、その後悔は、
認めないより、認めたほうが、心は楽になるということです。


さらには、
後悔しても、「どうにも出来ないという現実」をも、そのまま
ありのままに受け入れること。
             

                ●

人の一生って、私個人は、こう思うのですよ。

どこで人生の「転機」が来るかはわかりませんが、
とにかく、上り坂と下り坂があって、

上り坂は、人が「自分」を試して
自分を育てて、エゴでも、わがままでもなんでも、
とにかく、「自己同一性」を確率すること。
「私はこういう人間なんだ」という自分の確立ですね。

でも、
後半が何歳から始まるかわからないし、
ひょっとしたら、死ぬ間際になってから、
やっと下り坂になる人もいるかもしれないですが、

人生の前半が、得る人生だとしたら、
後半は、「捨てる人生」だと思うのですよ。


◆ところが、あまりにも、心に背負ったものが大きすぎると、
不幸の種ですら、人は捨てられなくなる。

捨てれば、まるで自分の人生の記憶そのものを
捨てるに等しいと思い込んでしまうから、
というのが捨てられなくなる原因なのですが。


◆自分の人生が、何だかわからなくなる、
という事の恐怖から逃げようとすると、
どんな心のガラクタも、あるいは心の宝物でも、
とにかく、捨てない。

でもね・・・人は、何も心に手にしないでこの世に生まれてきたんだから、
死ぬときも、全部、この世に返して死ぬのが、筋だと思うのですよ。

これは遺産とか、遺言とか、「物」のことを言っているのではなく、
自分という「殻」、
「自分の人生はこうだった」という「こだわり」を捨てること。


それは人生を楽しむために、一時的に
私達は、人間の人格という「人間の皮」をかぶって、
そして、人間社会という「サファリ・パーク」で暮したわけですが、
本当は、そんなものですらないのが、
人間の本質なんじゃなかろうかと。


     空っぽから生まれて、空っぽに戻る、

その間の、ひとときの夢なんだから、
何ひとつも、しがみつくものなど、必要ないのではないかと。


そして、何にも、しがみつかないほど、
なぜか、頼んでもいない幸せが沢山来てくれてるかもしれません。


逆に、自分の生きた証や、成果や、
それを生きてきた「自分」というものにしがみつくほどに、
もう器が「自分」で一杯になってしまって、

本当は、沢山の贈り物が、目の前まで来ているのに、
もう、何もその器に入れなくなってしまうのかもしれません。

と、いつも、わたしは思う。


◆ただ、そのこと、
つまり死ぬ前に、自分を捨てるという事を
人生の最後になって、出来る人と、
それが辛すぎて、出来ない人がいます。

どっちが正しいということではないですが、
辛くて、どうしても、人生の記憶を捨てる事が出来ないのなら、

自分の苦労や人生を正当化してみたり、美化しても、
最後の瞬間には、
ほっとしては死ねなかった・・・という事になるんですよ。


1日の終りの眠りが安らかであって欲しいように、
人の一生の最後も、何も心配なく閉じれたらいいのですが、
これが、なかなかどうして、人生最大の「難問」のようですね。


                ◆

私事で恐縮ですが、
私の特技と言えるものは、たったひとつだけでした。

それは、我慢しない、という特技でした。


笑うのも泣くのも、怒るのも、ただの、ひとつも
(全くといったら嘘かもしれないので「重要な事」においては、)
我慢したことがなかった事です。


ただし、その、我慢しなかったこと、
やりたくないことは、徹底的にしなかったことの反動や反感や責任は、
すべて自分で引き受けましたので、
何が起きても、誰のせいにも出来ないし、する気もありませんでした。


したいことだけして、
やりたくもないことを我慢してすることは一切しない。
それだけが私の特技だったように思います。

その特技とやらも、そろそろ、
とっとと捨ててしまってもいいのですけどね。


◆でも、そのおかげで、後悔ゼロだったので、
一時的には、本当にしんどいな、と思ったことはありますが、
全部、ほとんどその感覚を忘れてしまいました。


後悔のない選択なんてものを、
どうやったらいいのかわからない人もいるかもしれませんが、
やはり、「くだらない無理」だけはしないようにすることかもしれません。

ただし、他人から見ていたら、くだらな見える無理でも、
本人は、「大切な我慢のしどころだ」とか思ってしまうことも多いので、
これもまた、大変に難しい問題ですよね。


◆とにかく、「我慢ゼロ人生」とまでは行かなくとも、
我慢したことって、「少なかったな〜」という人生を過ごしてくださいと、
願うばかりです。


だって、我慢するときの動機って、
そのほとんどは、「保身」ですから。

ごくまれに、他人のためにする我慢もありますが、
その時には、そこには、「今はこれで正しいという信念」が
自分の中にありますからね。

たとえ何かに耐えていても、
それに耐えている自分は馬鹿じゃなかろうか?などという「疑問」は
その我慢の中には、ありませんから。

こうした、「一切の迷いのない我慢」を
私は、我慢ではなく、「忍耐」と呼びます。


◆忍耐には、迷いや、苦痛や、心の痛みや、疑問はありません。
忍耐とは、ただただ、無心に「耐えるだけ」です。

ちょうど、それは、何かの稽古や修業をしている人達が、
目標のために、苦しくとも、忍耐をしているのと同じです。

稽古や修業そのものは苦しいかもしれませんが、
そこに「心の苦しみ」や「葛藤」はありません。


◆しかし、これがもしも、ある時ふと、
自分がしている稽古や修業そのものが、


「これは、もしかしたら、
 私の行くべき道ではないのかもしれない?」

と、そのうような疑問を心の中に抱いたらば、
その時から、それは、その人にとっては、
目標に向かうための「純粋な忍耐」ではなく、
自分の歩いている道に対する迷いを背負った、
「我慢」に豹変してしまいます。


                 ●

ちなみに、苦労至上主義の人が、
晩年になってから、「ぐらつく」ケースがよくあります。

それは、さして苦労したと見えない人が
あっさりと、幸せを手にいれているのをまざまざと見た場合です。

自分の苦労とその報われようのなさに比べて、
他人の苦労のなさと、その報われようとのギャップという
本人には不条理に思える現象の現実を見て、
苦労至上主義は、
それを正当化する根拠を失うというわけです。


            ●

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