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(回答先: どうも匂うな、CIAとメーソン。またもやPGM登場。小川町キミシマファーム近隣地図を見よ。 投稿者 サラ 日時 2005 年 12 月 20 日 19:37:51)
ゴルフ場ですしね、なんといっても華麗な人たちとか役員や監査役に入れといて人寄せパンダにするつもりなんでしょうか?それともすごい裏人脈がからむのでしょうか?私は後者だと思いますね。なにしろ、愛宕山の森ビルの33階にオフィスを構えることができるくらいの存在ですもんね。たった8人しかいないホールディング会社とはいえ、大株主様はダラスのローンスター様。
くわしくは、ここに↓
http://www.rakuten-sec.co.jp/ITS/IPOPDF/24660.pdf
東証のこれじゃあさっぱりわからないが一応↓
http://www.tse.or.jp/listing/new/200512/12pgi.html
さて、華麗なる日本人役員の皆様の華々しい経歴。
私の目には華麗なるハゲタカユダヤの厚い信頼を受けたCIA人脈と映りますが、、、。
◎取締役会長 廣瀬 光雄
Education
慶応義塾大学法学部政治学科卒業
ボストンカレッジ大学院経営学部修了
大日本印刷株式会社 (1964-1988)
大日本印刷米国株式会社 社長 (1979-1986)
ジョンソン・エンド・ジョンソンメディカル株式会社 代表取締役社長 (1988-1998)
ジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社 最高顧問 (1999-2000)
ジョンソン・エンド・ジョンソン ディベロップメント コーポレーション 日本代表 (2000-2001)
ジョンソン・エンド・ジョンソン ビジョンケアカンパニー 最高顧問 (2001-)
有限会社マベリック ジャパン 代表取締役社長 (1999- )
株式会社マベリック トランスナショナル 代表取締役会長 (2001- )
パシフィックゴルフマネジメント株式会社 取締役会長 (2002-)
株式会社ニチレイ 取締役 (2003-)
元在日米国商工会議所医療機器部会 副会長
元在日米国商工会議所 理事
日米協会評議員
日本医科器械商工団体連合会 理事
中央社会保険医療協議会専門委員 (厚生労働省)
@MD−NET(医療機器・材料業界情報化協議会) 会長
社団法人経済同友会 幹事
◎監査役 椎名 武雄
http://www.shagai-net.jp/body/html/executives/shiina.htm
日本アイ・ビー・エム株式会社 最高顧問
兼 経営諮問委員会議長
社外取締役企業
HOYA株式会社
株式会社商船三井
明治製菓株式会社
メルシャン株式会社
略 歴
1929年生
【学歴】
1951年 3月 慶應義塾大学工学部機械工学科卒業
1953年 1月 米国バックネル大学工学部機械工学科卒業
【職歴】
1953年 6月 日本アイ・ビー・エム株式会社入社
1962年 5月 同 取締役−生産部門担当
(この間人事部門・営業部門・財務部門等の取締役、常務取締役、
副社長を歴任)
1975年 2月 同 社長
1993年 1月 同 会長 兼 経営諮問委員会議長
1999年12月 同 最高顧問 兼 経営諮問委員会議長 現在に至る
1989年 6月〜1993年 3月 IBMコーポレーション副社長
【兼職】
経済同友会 終身幹事
社会経済生産性本部 副会長
(社)企業研究会 会長
(財)慶応工学会 理事長
慶應義塾 評議員・理事
【賞罰】
1990年 4月 藍綬褒章受章
1994年10月 貿易表彰受賞
2000年11月 勲一等瑞宝章受章
◎監査役 斎藤 十朗
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%8D%81%E6%9C%97
斎藤十朗(さいとうじゅうろう、1940年2月5日-)は、第21代・第22代参議院議長を務めた日本の政治家(自由民主党参議院議員)。三重県出身。父は斎藤昇元厚生大臣・警視総監。
慶應義塾大学卒、銀行マンを経て、父・昇の死去に伴う1972年の参議院議員補選に父の後を継いで立候補し初当選。連続当選6回。自民党内では田中→竹下→小渕→橋本派に所属。第3次中曽根内閣の厚生大臣として初入閣。また、自民党国会対策委員長、自民党参院幹事長、自民党参院議員会長などを歴任。「参院のプリンス」と呼ばれる。
1995年、55歳の若さで第21代参議院議長に就任、慣例に従い自民の党籍を離脱。
1998年の改選時には異例の議長再任を果たした。この背景には斎藤の仲人をつとめた竹下元首相の後押しもあった。
1999年8月12日の通信傍受法(盗聴法)など「組織犯罪対策三法」採決では、野党は荒木清寛法務委員長問責決議案などを提出し、牛歩戦術を取った。斎藤は、議長職権で投票を打ち切らせ、牛歩を封じた。
2000年10月19日、選挙制度改革をめぐる与野党調停に失敗し、責任をとる形で辞任。その後もしばらくの間無所属のままでいたが、2001年4月2日、自民党に復党。三重県連会長となる。
2004年、政界引退。第20回参議院議員通常選挙には津田健児が代わって立候補したが、民主党の芝博一に敗れた。3年前の第19回参議院議員通常選挙でも自民党候補は敗れており、これで自民党は参議院三重県選挙区での議席を失った。